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飛行船

1.

 昭和4年の初夏、東京に少し早い暑さが訪れていた。橘は東京魔術のソファで新聞を広げて読んでいた。そこには大きな見出しが踊っている。


『ツェッペリン号、極東の空へ!』


 ドイツの飛行船ツェッペリン号が日本にやってくるというニュースは、当時の人々にとって非常に興奮を誘う話題だった。


「飛行船を近くで見たいな。」

 橘薫は新聞を手にしながら言った。その顔には少年のような輝きが宿っていた。そして、ふと河村に顔を向けて悪戯っぽく笑う。

「河村、海軍だろ?コネとかないの?」


 通常なら、この手の軽口を河村はさらりと流す。しかし、今日は口を閉ざし、豆大福をゆっくりと頬張っている。


 向かいのソファに座る伊達はと言えば、いつもなら嫌そうな顔をして黙るはずが、今日はなぜか橘の提案に少し興味を示している。眼鏡の奥の鋭い視線が新聞記事に止まっていた。


「そんなものはありませんよ。」

 河村がようやく返事をした。どこか投げやりな口調だが、その手は三個目の大福を器用に口に運んでいる。


「しかし……」

 河村がもぐもぐと咀嚼しながら、何か思案顔で言葉を継いだ。

「伊達さん、ドイツ語できますよね?」

 その問いに伊達がちらりと顔を上げる。

「まあ、一応な。」


 河村は小さく頷くと、さらに続けた。

「実は、ツェッペリン号の乗員と乗客が帝国ホテルに泊まるんです。ところが、通訳が足りなくて困っていると聞きました。私も医者だからとドイツ語が喋れるものとして駆り出されるんですが……伊達さん、あなたなら身元もしっかりしているし、何より知性がある。単なる通訳としては勿体無い気もしますが、1、2日だけ通訳をしてくだされば、土浦の施設に入れるかもしれませんよ。」


 その言葉に伊達は反射的に手帳を取り出し、予定を確認し始めた。


 橘も声を上げた。

「それなら、俺、伊達よりもドイツ語上手いぜ?」


 唐突な自信に二人が驚いて橘を見た。橘は少し得意げに笑うと、新聞を片手にゲーテの詩をドイツ語で朗々と誦じ始めた。その発音の流暢さに河村の表情が一瞬驚きに変わる。


「なるほどな。」

 伊達が小さく頷いてつぶやく。

「橘子爵は確か、駐ドイツ大使をされたことがあったな。」

「そうそう。親父が大使をしてたとき、一緒にベルリンに住んでたんだ。」

 橘は満面の笑みを浮かべて話した。


 河村はまた一つ豆大福を口に運びながら、冷静な声で言った。

「それなら、橘さんも通訳の候補として十分ですね。」


 その提案に、伊達は改めて手帳を開き、日程を確認する。小さなメモ書きに目を走らせると、ふっと笑みを漏らした。

「その日程なら休みが取れるな。」

 その笑みを見た橘がからかうように言う。

「おいおい、伊達。まさか飛行船を近くで見られるのが嬉しいんじゃないか?」

「バカを言うな。」

 伊達は顔を赤くしながらそっぽを向いたが、どこかしら声が浮ついて聞こえた。


 橘はその様子を見て少し笑った後、新聞を閉じた。

「じゃあ決まりだな。河村、あとはお前が手配しろ。」

「人を便利屋みたいに言わないでください。」 河村は溜息をついたが、五つめの豆大福に手を伸ばすその仕草は、どこか楽しげだった。


2.

 河村が上司に相談したところ、伊達と橘の通訳参加は軍にとっても大歓迎だった。むしろ、彼らのような人物がゲストとして招かれるわけではないことを詫びるほどの熱意をみせた。


 その結果、軍の計らいで橘と伊達はは8月19日のツェッペリン号着陸を間近で見学できることとなり、翌20日には帝国ホテルで通訳として正式に任を果たすことになった。こうして三人は、この貴重な機会をともに過ごすこととなった。


 真夏の空に、堂々とその姿を現したツェッペリン号。巨大な船体が輝きを放ち、ゆっくりと降下する様子は、多くの見物客を圧倒していた。飛行船が無事着陸する様子を、伊達は冷静に、しかし内心では興奮を隠せない様子で見つめていた。橘は子供のように感嘆の声を上げている。


「すごいなぁ、これが空を飛ぶのか。」

 橘が感嘆の声を漏らす。

「ただ飛んでいるだけではない。この飛行船の構造は革命的だ。」

 伊達は熱っぽく語り始めた。


「ツェッペリン号は従来の飛行船と違って、軽量なアルミフレームを使って船体の外殻を形成し、その内部に複数のガス袋を配置している。これを硬式飛行船と言うんだ。これまでの飛行船は、船体そのものがガス袋だったから、大きくするほど構造的に弱かった。しかし、この方式なら大型化が可能だし、強度が増して速度も出せる。」


「なるほどなぁ。でも難しい話はいいから、もっと簡単に教えてくれよ、教授。」

 橘は笑いながらも、その説明に聞き入っていた。帰り道、伊達の航空学に関する解説は続き、橘は「話が長い」と文句を言いながらも、どこか楽しげだった。


3.

 翌日、三人は帝国ホテルの一室で通訳の任に就いた。伊達と橘はシンプルなスーツに身を包み、河村は軍服姿で現れた。ホテルには軍関係者も多く、河村の姿は周囲に溶け込んでいた。


 伊達の知的で端正な顔立ちと自然な自信が、周囲の目をさらに引き寄せている。

「目立たないようにしてくださいよ。」

 河村が小声で伝えた。


 通訳として、伊達と橘は乗務員を担当、河村は乗客担当となった。伊達は、航空技術者でありマネージャーでもあるエッケナー氏の通訳も勤め、技術的なやり取りも少し行った。伊達にとって感無量のひとときだった。


 一方、乗客担当の河村は、落ち着かない様子で周囲を見回している婦人を見つけた。彼女は落ち着いたワンピース姿で控えめな雰囲気だったが、その瞳にはどこか焦燥が伺えた。河村は静かに近づき、柔らかい声で話しかけた。


「どうされましたか? 何かお困りですか?」

 婦人は少し戸惑いながらも、河村の穏やかな態度に安心したのか、小さく頷いた。

「実は……幼馴染を探しているんです。その子にどうしてもこの手紙を渡したくて。」

「幼馴染ですか。」

 河村はその言葉に興味を示しながら尋ねた。

「ええ、日本人の男の子です。その子にこの手紙を届けたいのです。」


 河村は少し考え、問いかけた。

「差し支えなければお尋ねしますが、その手紙はあなたが書かれたものですか?」

「いいえ。おかしな話だと思われるかもしれませんが……これはヒンツェルマンの手紙です。」


「ヒンツェルマン?」

 河村が聞き返す。

「ええ、家に住む精霊です。小さな悪戯をしますけど、家事を手伝ったり未来を教えてくれたりするんです。御伽話と思われるでしょうけど。」「いえいえ、決して。」

 河村は真摯な態度で応える。


 婦人は懐かしそうな顔で話を続けた。

「幼馴染は人にも動物にも好かれる子で、うちのヒンツェルマンも彼を気に入っていたようです。日本に行くならこれを渡してくれと言われたのですが、滞在は数日しかなくて……」

「その幼馴染のお名前は分かりますか?」

「カオルという名前でした。今考えると、たぶん大使館関係の方の息子さんかと。」


 河村は丁寧に一礼し、

「少々お待ちください。」

 と、その場を離れた。そして数分後、橘を連れて婦人のもとに戻る。


「リーゼ、久しぶり!」

 橘が手を振りながら駆け寄ると、婦人は驚きながらも微笑む。

「カオル、変わってないわね。」

 短い再会の挨拶のあと、婦人は橘に封筒を渡した。

「うちの妖精さんからの手紙よ。」

 橘が封筒を開けると、中には一枚の紙が入っていた。その紙には、こう書かれていた。


『カオルへ――気をつけろ。大火事の日は愛する場所で。』


 橘はその言葉に目を細め、黙り込む。それは単なる迷信や戯言ではない、何か不吉な兆しを感じさせるものだった。


4.

 帝国ホテルでの通訳の仕事を終え、伊達、橘、河村の三人は夜の帳が下りた東京魔術倶楽部に戻ってきた。


 飛行船を間近で見た経験、エッケナー氏との貴重な会話、そして通訳としての任務を全うした充実感が彼らの顔に表れていたが、心のどこかには一抹の不安が残っていた。


『カオルへ――気をつけろ。大火事の日は愛する場所で。』


 ヒンツェルマンから託されたこの一文が、三人の心に重くのしかかっていた。


 橘が革張りのソファに深々と腰を下ろし、

「結局あれ、何だったんだろうな。妖精の手紙って言われてもピンと来ないし、意味がわからん。」

 と頭を掻きながらつぶやいた。


「暗号か何かかもしれませんね。」

 河村は手にした焼き菓子をひと口かじりながら冷静に推測を口にした。


 彼が仕事の隙を見て買ってきた帝国ホテルの焼き菓子は、バターをたっぷり使った高級なもので河村はすでに三つ目を食べていた。


「暗号か……」

 伊達はその言葉を繰り返しながら、机に置かれた紙片に目を落とした。


「大火事の日は愛する場所で、か。言葉だけ聞けば、予言のような感じもするが……実際のところどう解釈すればいいのか見当もつかないな。」


「うーん……」

 橘は考え込むような仕草を見せたが、突然大きな伸びをし、

「あー、もう!めんどくさいから火事の時に考える!」

 と、まるで子供のように投げやりな態度を取った。


 その言葉に、河村が焼き菓子を口に運びながら淡々と問いかける。

「橘さんが愛する場所って、どこですか?」

 橘は目を丸くし、

「愛する場所?」

 と繰り返した後、ソファから立ち上がり、部屋を見渡すようにして考え始めた。


 しばらくの沈黙の後、橘はふと微笑み、何かを思いついたように指先でテーブルを軽く叩いた。

「ここかな?」

 その言葉に、伊達は驚いたように顔を上げたが、すぐに口元に微笑を浮かべた。


「なるほど。確かにお前にとってはここが『愛する場所』かもしれないな。」

「だろ?」

橘自信満々に笑った。

「まあ、橘さんらしい結論ですね。」

河村は静かに紅茶を一口飲んだ後、楽しそうに言った。


 部屋には、静かな夜の空気と共に、三人のささやかな笑い声が広がった。ヒンツェルマンの手紙の真意はわからないままだったが、少なくとも今この瞬間は、彼らはそれを深刻に捉えすぎずにいられる余裕を持っていた。


 遠くから、夜風に乗って街のざわめきがかすかに聞こえていた。

男の子ってこういうの好きでしょ!的に飛行船でワクワクする伊達先生です。


この辺りから現実とのリンク回がちらほらです。

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