裏鬼門(前編)
1.
東京の中心にありながら、人知れず存在する秘密の空間――東京魔術倶楽部は、選ばれし者だけが集う隠れ家のような場所だった。
会員たちは紅茶や洋菓子を楽しみながら情報を交わし、時に魔術の技を披露する。しかし、それはあくまで表向きの顔にすぎない。この場所では、上流階級の影に潜む問題や秘密が、静かにささやかれていた。
隅のソファに腰を下ろした河村学は、林檎ジュースの入ったガラスのコップを片手に、深い思案にふけっていた。表情は穏やかだったが、その目の奥には微かな険しさが宿っていた。もう一方の手にはドーナツがあり、時折、無意識にかじっている。
「まさか、先手を打たれるとは……」
小さくつぶやかれたその言葉を聞いた者はいなかったが、河村の内心には静かな波が広がっていた。
数日前、馬術クラブでの一件をきっかけに、高橋小将が海外の勢力と接触しているとの情報が入り、河村に「警告」を与える任務が下された。
作戦は、高橋の娘を一時的に拘束し、圧力をかけた後で無事に返すというものだった。しかし、決行前に「娘が行方不明になった」との報が届いたとき、河村は息を呑んだ。
「一体、誰が……?」
作戦は慎重に練られており、情報の漏洩など考えにくかった。それにもかかわらず起こった予想外の事態。頭の中で可能性を巡らせながら、河村は林檎ジュースの残りを飲み干した。
2.
その時、静けさに包まれていた倶楽部に軽やかな足音が響いた。扉の方へ目を向けると、伊達と橘が並んで入ってくるのが見えた。伊達はいつも通りのきちんとしたスーツ姿、一方の橘は気楽なジャケットを羽織っていた。
河村は一瞥をくれただけで、再び思案の世界へ戻った。しかし、伊達と橘が支配人に声をかけられ、奥の部屋へ通される様子を見ると、彼の眉がわずかに動いた。
「何かあったのか……?」
その小さな興味が、胸の奥で静かに広がっていった。
やがて、支配人室の扉が開き、伊達と橘がラウンジへ戻ってきた。その後ろに、気品と威厳を湛えた婦人が付き従っている。その姿を見た瞬間、河村の眼差しが鋭くなる。
「……酒井の妻か」
彼女は高橋小将の実姉であり、酒井伯爵に嫁いで社交界でも名を知られた人物。河村にとって、忘れられるはずのない顔だった。
婦人が支配人に一礼して倶楽部を去ると、河村は立ち上がり、伊達と橘に近づいた。
「今のご婦人は、確か酒井様の奥様でしたよね?」
何気ない問いかけのようでありながら、どこか柔らかい圧がこもっていた。河村の穏やかな表情は変わらない。だが、その裏に鋭利な探りがあることを、伊達は即座に察した。
「ああ、そう、そ……」
何か言いかけた橘を、伊達が軽く制した。
「もし私にできることがあれば、おっしゃってください。」
そう河村は言い残し、詮索を深めることなく再びソファへと戻った。その後ろ姿を、橘は困惑したように見送った。
ソファに戻った河村は、ドーナツの最後の一口を口に運びながら、また思考の海へと沈んだ。
「こちらから依頼をかけるべきか……いや、まだ早い。」
高橋家の娘の行方不明が、今回の動きとどう結びつくのか――その構図はまだ見えていなかった。
3.
部隊に戻った河村は、重厚な扉を開けて上司が待つ執務室に入った。室内は質実剛健な家具と山積みの書類に囲まれ、いかにも軍の一室といった雰囲気が漂っていた。河村は無言で一礼し、上司の前に進み出る。
「例の任務について、進捗をご報告します。」
一呼吸置いてから、河村は冷静な口調で語り始めた。
「高橋少将の娘を一時的に拉致し、適当な時期に帰すことで牽制するという作戦でしたが、実行前に娘が行方不明になりました。この状況下では、まず彼女の身柄を確保し、安全を図ることが急務と判断します。」
上司は腕を組み、険しい表情でしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「そうだな。もはや拉致など不要だ。保護を最優先としろ。この件を通じて少将に恩を売ることが肝心だ。娘の安全が第一だ。」
河村は短く頷き、敬礼を返した。
「了解いたしました。」
命令を受けた河村は、執務室を後にした。任務の性質が大きく変わったことを、彼は静かに受け止めていた。
4.
その日の午後、河村は再び東京魔術倶楽部を訪れた。裏手の廊下はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。支配人室に入ると、伊達と橘がすでに待っていた。河村は海軍からの極秘依頼という形で、二人を巻き込んでいた。
「高橋少将は、海軍にとって極めて重要な人物です。お嬢様の保護については、命をかけて対処するよう指示が下りました。」
いつも通り落ち着いた口調で話す河村に、支配人は手元の書類を確認しながら頷いた。そして、三人の顔を順に見やりながら言った。
「では、依頼人との調整はこちらで行いますので、現場対応は三人にお任せします。」
伊達と橘は小さく頷いた。
「目的は、娘を無事保護し、高橋少将に恩義を感じさせることです。ただ、私の顔を出すのは少々都合が悪いもので。」
そう言って河村は淡く笑みを浮かべた。
三人は倶楽部の奥にある小部屋に移動して打ち合わせを始めた。そこには必要最小限の家具と資料があるだけで、張り詰めた空気が漂っていた。
「軍関係の動きは、同僚たちが洗っています。」
河村は手帳を開きながら続けた。
「高橋少将には欧米びいきな一面はありますが、深い恨みを買うような人物ではありません。陸軍の関与も低そうですが、念のため確認中です。」
その言葉に伊達は腕を組み、軽く頷いた。橘は気楽そうに椅子に座り、指先で軽くリズムを取っていた。
「しかし、行方不明になってもう五日。もし身代金が目的なら、そろそろ連絡があってもおかしくない。」
伊達が眼鏡を調整しながら壁のカレンダーを見た。
「小田急線に乗って、東京行進曲でも口ずさみながら逃げてるかもね。」
橘はそう言って煙草を咥えた。
「ふざけるな。人が拐われている話だ。」
伊達の短い叱責に、橘は肩をすくめる。
伊達は腕時計を見て立ち上がった。
「これ以上ここで話していても進展はない。高橋家に直接話を聞きに行く。」
「では、私は近くのカフェで待たせていただきます。」
河村は微笑をたたえたまま、軽く礼をして部屋を出ていった。
ネタに困って夫をつついたら、「どこかの学校の花壇から動物の首が出てきたニュースをやってたよ。」とヒントをもらって書きました。




