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不忍池の夜

1.

 東京・本郷の学生寮は、春の宵の柔らかな空気に包まれていた。新年度を迎えたばかりの若者たちが集うこの場所では、日々の学問と青春の喧騒が混じり合っている。


 そんな中、入寮した新入生たちを対象とした「肝試し」の話題が持ち上がった。それは毎年恒例の行事で、先輩たちが新入生の度胸を試す名目で行うものだった。


「今年もまた不忍池だってさ。」

「弁天島のあたりが一番怖いらしいぞ。」

「去年もここで泣き出した奴がいたらしいからな。」


 寮生たちは大いに盛り上がり、計画は瞬く間に進んでいった。しかし、彼らの騒ぎを耳にしたのは、理学部で恐れられる存在、伊達政弘教授だった。彼は厳格な教育方針を貫く人物として知られていた。学生たちの中では、彼の冷徹さを揶揄して「バロン」とあだ名する者も少なくなかった。


2.

 その日も教授室で書物を広げていた伊達は、寮生たちの談笑が漏れ聞こえるのを眉をひそめながら聞いていた。

「肝試しだと?」

 伊達は書物を閉じて立ち上がると、寮の監督役を厳しく問い詰めた。

「学問を修めるべき若者が、そんな愚かな遊びに興じるとは何事だ。事故でも起これば誰が責任を取る?」


 結局、伊達は彼らに自制を促すことが叶わず、万が一の事態を考えて同行することを決めた。学生たちからは不満が漏れる。

「厄介者がついてくるなんて、肝試しの意味がないよ。」


 そんな中、予期せぬ同行者が現れた。それは伊達の友人であり、悪友とも呼べる橘薫だった。橘は寮生たちの計画をどこからか聞きつけたようで、学生たちの中に混じりながら朗らかに笑っていた。

「肝試しに興味があるわけじゃない。ただ、夜の散歩も悪くないだろうと思ってね。」


3.

 その夜、19時。寮の門を出発した一行は、夜風の冷たさに身を震わせながら、不忍池を目指して歩き始めた。道中では怪談話が飛び交い、学生たちは怖がりながらも興奮に包まれていた。


「不忍池には溺死者の霊が出るって話だよ。」

「いや、上野戦争の怨霊が池のほとりを彷徨っているって聞いたぞ。」

「池の周りで死んだ知人に出会ったって話もある。」

「弁天島のあたりじゃ、誰もいないのに音が聞こえるらしい。」


 橘はその様子に微笑みを浮かべながら、時折適当に相槌を打っていた。一方、伊達は後ろから冷ややかな目で彼らを見つめていた。

「くだらん。」

 と小声で呟いたが、橘はそれを聞き咎めると笑いながら答えた。

「まあまあ、若者の遊び心を許してやりなさいよ。」


 やがて一行は不忍池の西側に到着した。昼間の賑わいとは一変して、夜の池は静まり返り、黒々とした水面が月明かりを鈍く反射している。肝試しのルールは、2人1組を作り、池を左右に分かれて進み、弁天島の前ですれ違いながら札を交換し、元の地点に戻るというものだった。


「懐中時計を持っている者が時間管理をすること。」

 伊達は仕切り役の学生に自分の懐中時計を渡し、厳しい口調で指示を飛ばした。

「安全第一だ。時間通り戻ってこなければ、即座に知らせるんだ。」


 こうして順々に学生たちが送り出され、最後に残ったのは伊達と橘だった。橘が楽しそうに笑みを浮かべながら口を開いた。

「先生も参加しないと、学生たちに笑われますよ。」

 橘に焚きつけられた伊達はしぶしぶ参加を決めた。伊達は右回りの順路を選び、橘は左回りを進むことになった。


 伊達が暗闇の中を歩き始めてしばらく、何かがおかしいと気づいた。歩いても歩いても弁天島にたどり着かない。道を間違えたのかと思い辺りを見回したが、池の周りを回るのに間違える方が難しい。あたりは暗く目印となるものも見当たらない。背後を振り返っても、誰の姿もない。

「橘とも出会わないとは……」


 焦りを感じながらも前進を続けた伊達は、急に足元が重くなるのを感じた。その場で立ち止まり、息を整えようとした瞬間、視界が真っ暗になった。


4.

 一方の橘は順調に弁天島近くまで進んでいたが、不意に背後から女性の声が聞こえた。

「すみません、人が倒れています。」

 振り返ると、白い着物をまとった若い女性が、池のほとりを指さしていた。


 橘が示された茂みに足を踏み入れると、そこには意識を失って倒れている伊達の姿があった。

「伊達!」

 橘は駆け寄り、必死に肩を揺さぶった。


 伊達はゆっくりと目を開けたが、何があったのかは曖昧な様子だった。

「ただの立ちくらみだろう。」

 と強がりを見せる伊達に、橘は肩を貸してスタート地点まで戻ることを提案した。橘は先ほどの女性に礼を言おうと振り返ったが、そこには誰の姿もなかった。


5.

 学生を解散させた後、伊達を官舎に送り届けた橘は、彼の寝室で目にした写真に息を呑んだ。それは白い着物を着た女性の写真であり、先ほど池で出会った女性と瓜二つだった。

「まさか……」

 橘の表面から伊達は何かを察したようだったが、そのことには触れず橘に礼を言った。


 橘が去った後、伊達は写真立てを手にして話しかけるように声を出した。

「また会いに来てくれたのか……。」

 その言葉は闇に溶け込み、静かな夜に消えて行った。

順序逆ですが、上野駅から不忍池を半周して東大まで歩いてみました。非常に疲れました。

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