百物語
1.
「いやぁ、伊達先生にもぜひ参加していただきたいんですよ!」
そう熱弁をふるうのは、東京魔術倶楽部の若手会員、田中だった。時の首相と名字を同じくする彼は好奇心旺盛なお調子者で、橘薫を筆頭に数名の有志を集めて、百物語を開催しようという壮大な計画を立ち上げた。
「百物語ですか?」
帝大教授、伊達政弘は眼鏡越しに田中をじろりと見つめた。その眼差しには、明らかに「馬鹿らしい」
と言いたげな空気が漂っている。
「そうです!夜更けに百の怪談を語り合い、最後の蝋燭を吹き消した時に何かが起こる。そういうロマンを感じませんか?」
「わざわざ怪異を招くなど、馬鹿げたことだ。」
「まぁまぁ、先生。」
伊達の隣で橘がニヤリと笑った。
「こういうのは遊び心ですよ。教授の堅苦しい頭にはいいリフレッシュになるかもしれません。」
「君も何か話す気か?」
「もちろん。俺はネタが尽きないですからね!」
結局、伊達も不本意ながら参加することとなった。田中に強く頼み込まれたこともあるが、頭の片隅に、女悪魔の出現と鈴木の失踪事件が引っかかっていたことも理由だった。
2.
その夜、東京魔術倶楽部の広間には、百本の蝋燭が立ち並ぶ台が厳かに据えられていた。台を囲むようにして、十数人の参加者たちが円を描くように座っている。蝋燭のゆらゆらと揺れる淡い光は、広間の天井を低く感じさせ、まるで何か見えない気配が漂っているかのような錯覚を呼び起こした。
静かな緊張感の中、最初に口を開いたのは橘だった。彼は軽く喉を鳴らすと、微笑みながら立ち上がった。
「皆さん、記念すべき第一話は私が担当させていただきます。」
その一言で、場の空気は瞬時に和らいだ。橘はいつもの軽妙な語り口で、自ら体験したという不気味なエピソードを語り始めた。
「数年前の夏、私が軽井沢の別荘に滞在していた時のことです──」
橘の語りは、情景描写が生き生きとしており、幽霊が登場する場面では声のトーンを落として観客を引き込んだ。話が終わる頃には、聴いている全員の表情が引き締まり、田中が思わず「いやぁ、怖かったですねぇ!」
と声を上げるほどだった。
「いやいや、ただの想像話ですよ。」
橘が軽く肩をすくめると、会場には安堵の笑いが起こった。
その後も次々と参加者たちが順番に怪談を披露していった。多くは古典的な幽霊譚や、どこかで聞いた都市伝説をアレンジしたような話だったが、橘は巧みに合いの手を入れたり、的確な質問を投げかけたりして場を盛り上げた。
しかし、その輪に加わる気配のない人物が一人いた。
伊達である。
彼は背もたれにもたれるようにして腕を組み、蝋燭の揺れる炎をただ静かに見つめていた。その姿は他の参加者とは明らかに異質で、薄暗い光の中で際立つ細身のシルエットと眼鏡の光が、どこか冷たい威圧感を与えていた。
「伊達先生、次は先生の番ですよ。」
田中が恐る恐る声をかけたが、伊達は目を細めて首を横に振った。
「パスだ。」
一蹴された田中は肩をすくめて次の参加者に視線を送る。それでも、何人かの話が終わった後で再び頼まれると、橘が口を挟んだ。
「先生、そろそろ一つくらいどうです?皆さん、先生の知的な怖い話に期待してるんですよ。」
橘の言葉に、会場の視線が一斉に伊達に向けられる。重ねて頼まれる中、伊達は少し眉間に皺を寄せたが、終始無表情を保っていた。
「話すことなどない。」
その冷たい声に、一瞬会場が凍りついたような空気に包まれた。伊達は視線を蝋燭の炎に戻し、腕を組んだ。橘は、
「ま、気が向いたらでいいです。」
と肩をすくめ、次の話へと進行を促した。
百物語も中盤に差し掛かり広間の空気が静まり返る中、橘が軽く手を打ち言った。
「先生、そろそろどうです?伊達先生にしか語れない、恐ろしい話があるんじゃないですか?」
彼の声は柔らかいが、その裏には少し意地悪な期待が込められているようだった。
伊達はしばらく無言のまま橘と視線を交わしたが、やがて大きく息をついた。そして、ゆっくりと眼鏡を外し、薄暗い蝋燭の光に照らされる参加者たちを見渡した。
3.
「……では、一つ、話そう。」
その瞬間、会場が静寂に包まれた。誰もが身じろぎもせず、伊達の話に耳を傾ける準備を整えていた。
「数年前、スペイン風邪が猛威を振るった時期の話だ。当時、私はまだ大学院生だった。そして……その頃には許婚がいた。」
低い声が広間に響く。伊達は言葉を選ぶように、一つひとつを丁寧に紡いでいく。
「その日は、彼女に会いに行く予定だった。少し風邪気味だとは思っていたが、特に熱もなく、問題ないと思い込んでいた。。彼女が読みたがっていた本を手に入れたばかりでね、それを届けたくて仕方がなかった。」
伊達は淡々と話しているように見えたが、その声にはどこかしら陰りがあった。蝋燭の光が彼の顔を揺らめかせ、その冷静な表情の裏にある感情を覗かせているようだった。
「その数日後、彼女が高熱を出したと知らされた。私はすぐに駆けつけたが、彼女の容態は思ったよりも悪く……」
そこで言葉を切り、伊達は一瞬だけ視線を落とした。誰も息をすることすら忘れたかのように、彼の次の言葉を待っている。
「……彼女はそのまま命を落とした。私が感染源だったかどうかは、今となっては分からない。だが、もしあの時、私が会いに行かなければ、彼女は──」
再び言葉を切ると、伊達は蝋燭を吹き消した。
「以上だ。」
それ以上話す気はないということを示すように、彼は再び眼鏡をかけ直した。広間は深い沈黙に包まれていた。参加者たちはただ蝋燭の炎を見つめ、誰も次の話をする気になれない様子だった。
橘がようやく口を開いた。
「いやぁ、さすが伊達先生。怪談とはまた違う形で、空気を変えてくださいましたね。」
「皮肉か?」
「いえいえ、尊敬してますよ。」
橘は乾いた笑いを浮かべた。
その後も何とか百話目まで進めたが、最後の1人が蝋燭を吹き消しても特に何事も起こらなかった。田中が残念そうに、でもどこか安堵した様子で
「何も起こらない方が平和ですよ!」
と締め、会は解散となった。
4.
その夜、東京魔術倶楽部の広間には、まだ消えぬ蝋燭の残り香が漂っていた。百本の蝋燭を吹き消した後も、部屋に残る微かな煙の匂いが、奇妙に生き物のようにその場に留まり続けていた。
伊達は魔術倶楽部の喧騒を背に、静かな夜の空気を吸い込むと、いつものように研究室へと向かった。会の空気を重くした自身の話を思い出し、苦い後悔が胸を締め付けたが、それを振り払うように足を速めた。
研究室に着くと、人気のない静けさが伊達を迎えた。鍵を開け、明かりを灯し、デスクに近づく。資料を広げようとしたその瞬間――視線が机の上にある一冊の本に吸い寄せられた。
「……これは?」
それは許婚に貸していた本だった。忘れるはずもない、彼女が最後に手に取っていた一冊。その装丁、擦れた背表紙、少しだけ黄ばんだページの縁。間違いない。彼が彼女のために選び、彼女が喜んで手に取ったものだ。
だが、その本は彼女の亡骸と共に、遠い墓地に葬られたはずだった。
伊達は固唾を呑んで本を手に取る。手のひらに伝わる感触が、現実感を突きつける。ページをめくるたび、彼女がどこで読み止めたのかを探してしまう自分がいる。そして、その途中で一枚のメモが挟まれていることに気づいた。
震える手でメモを取り出し、読み上げる。
「また会える日を楽しみにしています――」
短い文面は、彼女がかつて使っていた筆跡そのものだった。
伊達の背中に冷たい汗が流れ落ちる。呼吸が浅くなり、手の震えが止まらない。許婚の声が、まるで耳元で囁いたかのように脳裏に蘇る。その声は穏やかで、どこか微笑んでいるようだった。
「気の迷いだ……」
そう呟くことで、自分を納得させようとする。だが、心の中では理解していた。これは現実には起こり得ないことだと。彼女はもうこの世にはいないはずなのだから。
本をそっと閉じ、机の上に置く。気持ちを落ち着けようと深呼吸をするが、彼の胸中には喪失感と罪悪感が渦巻いていた。
それでも、不思議なことに、その渦の奥底には、微かな安堵感が広がっていた。彼女がただ責めるだけでなく、「また会える日」を望んでいる──そんな優しさが込められた言葉だったからだ。
伊達は静かに眼鏡を外し、目元を押さえる。冷たい月光が研究室の窓から差し込み、彼の横顔を照らしていた。月の光が蝋燭の煙のように揺らめく。ただ静寂だけが、研究室に満ちていた。
こちらは『百物語』がやりたくて書いた話です。
伊達先生が独身なのは……。
最後あたりを執筆しながら号泣しました。
好きな話の一つです。
田中さん、準レギュラーです。
造り酒屋です。




