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妖精との取り引き(前編)

1.

 伊達政弘と橘薫が東京魔術倶楽部の扉をくぐったのは、夕暮れ時。薄暗い廊下を進む二人の姿はどこか緊張感に包まれていた。


 部屋の奥では、革張りのソファに腰掛け、新聞を広げている男がいた。軍服ではなく、ラフな普段着をまとっていたが、威圧感が隠しきれていなかった。新聞の陰から顔を覗かせたのは、糸目でにこやかに笑う河村少佐。


「これはこれは、伊達先生。お勤めご苦労様でした。」


 伊達は無視して足を止めることなく歩き続けた。橘がちらりと河村を見たが、その表情から何も読み取れなかった。


 河村は新聞を畳むと、二人に近づき声のトーンを少しだけ落として言葉を続けた。

「我々の協力者になれば、もう少し簡単に解決したものを。」

 伊達が静かに振り返った。

「貴官が言う“協力”とは、どの程度の対価を求めるものですか?」


 河村は肩をすくめ、薄い笑みを浮かべた。

「対価と言えば最近流行りの“フェアリー”との取引なんてどうです?伊達先生の釈放なら、腕一本くらいの対価で済むんじゃないですかね。」


 橘が思わず苦笑いを浮かべた。

「俺の腕を切り落とせとでも?」

 河村は微笑みを崩さず

「さすがに冗談ですよ。ただ、フェアリーとの契約なんて、なかなか愉快だと思いませんか?」

 と言ってまたソファに戻っていった。


 伊達は言葉を返さず、再び歩き出した。その背中を見送りながら、河村は小さく笑いを漏らした。


2.

「伊達様、橘様、お待ちしておりました。」

 それから数日後、二人は支配人の書斎に通された。薄暗い部屋には古びた書物が積み上げられ、その隙間から覗くステンドグラスが鈍い光を放っていた。


 支配人の横に立つのは河村少佐だった。相変わらず笑顔を浮かべているが、その目がまるで本当の感情を映していないことは誰の目にも明らかだった。


「やっかいなことになっているのです。」

 支配人は深いため息をつきながら言葉を続けた。

「お二人にご協力をお願いしたい件がございます。」

「断る。」

 伊達はきっぱりと言い放つと、その場を立ち去ろうとした。

「お待ちください。」

 支配人が静かに伊達を制止した。

「これは貴方様方にも無関係な話ではありません。」


 河村がニコニコと笑いながら口を挟んだ。

「こないだ話題にした“フェアリーの取引”ですが、実はさる将官のお嬢様が手を出しましてね。まあ願いそのものは取るに足らないものですが、代償として声を失いました。」

「なるほど。」

 伊達が振り返り、胡散臭そうに河村を睨んだ。

「いかにも安っぽい悲劇ですね。」


「“ヒステリー性の失語”ですよ。呪いなんてありません。」

 河村は無造作に椅子に腰掛けると、飄々とした口調で続けた。

「医学的にはそう診断されるでしょう。まあ、蛇でも投げつければ悲鳴くらいは上げるかもしれませんがね。」


 橘が目を見開く。

「医者……か?」

 河村は薄く笑みを浮かべた。

「ええ、軍医です。階級章の色に気づかれましたか。」

 河村の階級章は海軍で軍医を示す赤色だった。


「治すのはそちらの領分だろう。」

 伊達が吐き捨てるように言うと、河村は軽く手を振った。

「もちろん。お嬢様の方はそのうち手当てしますよ。でもね、問題はそこではないのです。」


 支配人が重々しい口調で続けた。

「問題は、この“声”を巡って暗躍する者がいるということです。」

「暗躍?」

 橘が眉をひそめる。

 河村が補足する。

「娘の声の対価を第三者に肩代わりさせれば、失った声を取り戻せる―そんな戯言を吹き込んでいる奴がいるんですよ。」


 伊達は不快感を隠さず、低い声で問いかけた。「それで?」

「将官がその戯言に乗った場合、何が起こるか想像できますか?」

 河村の目が鋭く光った。


「もし将官がその取引に応じてしまえば、“声”の代償に新たな犠牲者が生まれる。その結果、彼の地位は脅かされ、さらに……」

「権力闘争の泥沼、か。」

 伊達が冷たく呟く。

河村は笑みを浮かべたまま静かに頷いた。

「ええ。そこに介入して将官の弱みを握ろうとしているのが、我々の目下の“敵”というわけです。」


 橘が腕を組み、ぼんやりと考え込む。

「つまり、俺たちにその“敵”を追えってことか。」

「いいえ、敵を探すのは私がやります。」

「つまり、我々が直接黒幕を追う必要はないと。」

 伊達が静かに口を開く。

「ええ。」

 河村が細い目をさらに細めながらにっこりと笑う。

「将官が早まった真似をしないように時間を稼いでいただければ、それで十分です。その間に、こちらでお嬢様を治療に繋げるなり、敵を排除するなり、手を打ちますから。」


「随分とお気楽なご依頼ですね。」

 橘の言葉には皮肉が滲んでいた。

「そうおっしゃらずに。」

 河村は肩をすくめ、軽い口調で続けた。

「この界隈で名の知れた伊達さんと橘さんなら、きっと上手くやれることでしょう。」

 橘が眉をひそめる。

「俺たちが名の知れた存在だって?冗談だろ。」


「いえいえ、実際のところあなた方の活躍は、耳にしない方が難しいくらいです。」

 河村の言葉にはどこか本気と冗談が混じっているような、曖昧なニュアンスがあった。


「もしその名声が役に立つなら、利用するさ。」

 伊達が静かに席を立った。

「ただし、あくまでこちらのやり方でやる。それで文句はないだろう?」

「もちろん。」

 河村は小さく笑いながら頷いた。

「我々は結果だけを求めていますので。」


3.

 翌日、伊達と橘は高級ホテルの一室を訪れていた。その部屋は、ある将官が娘を伴って臨時で滞在している場所だった。二人が案内された応接室は、豪華な調度品で飾られていたが、そこには重苦しい沈黙が漂っていた。


 応対に現れた将官は50代半ばの男だった。頑丈そうな体躯と冷静な表情の裏には、明らかに動揺を隠そうとする無理が見えた。河村の話によると少将とのことだった。


「あなた方が例の……治療の専門家と聞いている。」

 少将の声にはわずかな希望が混じっていた。伊達は無表情を保ちつつ、その視線をじっと相手に向けた。


「治療というのは医学的なものではなく、いわば“特殊な”方面の話です。」

「娘の声を取り戻すことは可能なのか?」

「可能かどうかは、父であるあなたの協力にかかっています。」

 伊達は冷静な口調で答えた。

 少将の眉間にしわが寄った。


「どういう意味だ?」

「言葉通りです。」

 伊達はきっぱりと言った。

「誰かを犠牲にする方法を持ち出してきた者がいるのは存じています。しかし、それは無意味どころか、状況を悪化させるだけだ。」


 少将が表情を曇らせ、目をそらす。橘がその間隙を縫うように、柔らかい声で言葉を添えた。「もし娘さんの声を取り戻す手段があるとしても、他人の犠牲の上に築かれたものでは、何も解決しないどころか、新たな不幸を招くだけです。」


「お嬢様の声を取り戻すには、まずこの薬を。」

 間髪入れずに伊達が懐から取り出したのは、琥珀色の液体が入った小瓶だった。

「エルダーフラワーから作ったエキスです。」

 伊達が淡々と説明を続ける。

「月の光に7日間さらして浄化したものを、毎晩、湯に溶かして服用していただきます。」


 少将は訝しげな顔をして瓶を手に取った。

「これは……本当に効果があるのか?」

「効果があるかどうかは、信じるか否か次第です。」

 伊達はそっけなく答えた。その言葉の裏にわずかな皮肉を感じたのか、少将はまた少し眉をひそめた。


 隣で聞いていた橘が口を挟んだ。

「先生の言うことを疑うなら、お嬢様がこのまま声を失ったままでも構わない、ってことですよ?」

 その言葉に少将の表情が険しくなる。

「そんなことは言っていない!」

「ならば、服用を続けてください。」

 伊達は冷静に話をまとめた。


「この7日間が勝負です。その間に何が起きても、決して焦らないこと。ご自身の決断に迷いが生じた時こそ、呪いが力を増すものです。」

 将官は渋々ながら頷き、小瓶を大切そうに握りしめた。


 その間、河村は独自の情報網を駆使し、黒幕の存在を探り続けていた。

「黒幕は思ったよりも手近なところにいました。」

 数日後、河村が戻ってきて告げた言葉に、伊達と橘は眉をひそめた。

「誰だ?」

 橘が尋ねると、河村は報告書をそっとテーブルに置いた。そこには少将の側近として仕える参謀の名前が記されていた。


「そいつを排除すれば、全てが終わるのか?」橘が鋭い目で河村を見据える。

「いいえ。」

 河村は軽く首を振りながら言った。

「参謀を排除しても、お嬢様の声がすぐに戻るわけではありません。ただ、少将の決断を惑わせる要因を取り除くことができます。」

「では、そちらはお前に任せる。」

 伊達が冷静に告げた。

「こちらは予定通り、時間を稼ぐことに専念する。」


 河村はいつもの笑みを浮かべ、軽く一礼した。

「お任せください。こういう厄介事を片付けるのが私の仕事ですから。」


 数日後、黒幕である参謀はその座を失い、少将の周囲からは姿を消した。


4.

 7日後、同じホテルの一室で

「呪いは解かれた。お嬢様の声は取り戻せるだろう。」

 と伊達は静かに言った。

 少将の顔には安堵の色が浮かんでいた。

「本当に、感謝している。」

しかし伊達はその言葉を軽く受け流し、

「呪いが解かれたからといって、それですぐに元通りというわけではありません。」

 と冷静に指摘した。


「長い間、声帯を使っていなかった影響があります。リハビリが必要です。専門の医師にかかるといいでしょう。海軍であれば、知り合いに河村という軍医がいます。彼に相談すれば然るべきところに紹介してくれるはずです。」

 伊達の言葉どおり、その後、令嬢の声は徐々に回復していった。


5.

 伊達と橘は魔法倶楽部にて、残ったエルダーフラワーのエキスでティータイムを楽しんでいた。

「エルダーフラワーのお茶だなんて、あれで信じる方がどうかしてるよな。」

 橘が苦笑交じりに言うと、伊達は肩をすくめた。


「どんな手段でも、結果が出ればいいんだ。それが相手の心を落ち着けるものなら、なおさらだ。」

 伊達が軽く言い放った。


 河村少佐がどこからともなく現れ、糸目のまま微笑んだ。

「さすが伊達さんと橘さん、お見事でしたね。」

「次はお前が前に出ろよ。」

 橘が不満そうに言うと、河村は大袈裟に手を振って笑った。

「それはご勘弁を。私はこうして後ろから見ているのが性に合っているんです。」


 伊達はため息をつき、空を見上げた。

「妖精も対価も、もうたくさんだ。」

 橘がふっと笑い、

「次はもう少し楽な依頼にしようぜ。」

 と肩を叩いた。


 東京魔術倶楽部の扉が静かに閉じ、二人の影は路地裏へと溶けていった。


エルダーフラワーのお茶、

咳に効くので風邪のひきはじめによく飲んでました。

美味しくはないです。

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