冤罪
1.
東京魔術倶楽部は男性だけでなく上流階級の婦人たちの社交場としても賑わっていた。
その日、西洋風の調度品で飾られた部屋にある大理石のテーブルの上には豪華な絵柄が施されたタロットカードが広げられていた。
「伊達様、どうぞこちらへ。」
伯爵夫人が柔らかい笑みを浮かべながら手招きした。彼女は社交界でも名の知れた占い愛好家であり、その熱意をもって、魔術倶楽部での占い会をたびたび主催していた。伊達政弘はため息を押し殺しながら席に着いた。
「お断り申し上げたはずですが……。」
「まあ、そうおっしゃらずに。占いは時に、予想もしない形で私たちに答えを与えてくれるものです。」
伯爵夫人は優雅にカードを手に取り、伊達の言葉を受け流した。伊達は仕方なく背筋を伸ばし、
「では手短にお願いします。」
と席についた。
その様子を部屋の隅で見守っていたのは、橘薫だった。彼は倶楽部の装飾を眺めながら、口元に含み笑いを浮かべていた。伊達が冷たく目線を送ると、橘は肩をすくめた。
「だって伊達が断りきれないなんて珍しいからさ。」
伊達は橘に答える代わりに、軽く首をふった。
伯爵夫人がカードをシャッフルしながら、伊達に尋ねた。
「何か特別に占いたいことがございますか?」
「いいえ。」
伊達は短く答えた。
「私は占いに興味がありません。ただ、あなたの熱意に負けて席に着いただけです。」
「ふふ、それで十分ですわ。」
伯爵夫人は微笑みながら、カードを慎重に並べ始めた。
「では、カードが運命を語るままに―─」
最初のカードが表を向く。
「愚者(The Fool)」
伯爵夫人が軽く頷いた。
「新しい旅路、または予想外の出来事の始まりを意味します。あなたはこれから未知の道を歩むことになるでしょう。」
伊達は眉をひそめた。
「それが何を意味するか、具体的に教えていただけますか?」
「運命は具体的ではありません。次を見てみましょう。」
次のカードが表向き返された。
「吊るされた男(The Hanged Man)」
その瞬間、部屋の空気が一変した。橘の顔から笑みが消え、伯爵夫人の手も一瞬止まる。
「このカードは……犠牲、苦境、あるいは自己の価値観を問い直すことを示します。」
「ずいぶん陰鬱な話ですね。」
伊達が皮肉を込めて言ったが、その声には少し硬さが混じっていた。
最後のカードがめくられる。
「正義(Justice)」
「これは……裁きの象徴です。公正、または報い。しかし、それが必ずしもあなたにとって好ましい結果とは限りません。」
伯爵夫人の声には微かな震えが混じっていた。
「つまり?」
伊達が静かに問いかけた。
「あなたは間もなく試練の時を迎えるでしょう。」
伯爵夫人はカードを指でなぞりながら答えた。
「正しい道を選ばなければ、多くのものを失う可能性があります。」
伊達はテーブルに広げられたカードをじっと見つめた。視線の奥にあるのは、単なる不快感ではない。彼の内心で何かがざわついていた。
「占いは所詮、曖昧なものです。」
彼は立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。
「ご親切に感謝しますが、私の運命をカードに決められるつもりはありません。」
伯爵夫人は静かに微笑みを浮かべた。
「伊達様、運命は私達が選ぶものではなく、時に私たちを選ぶものなのです。」
倶楽部を出ると、橘が不機嫌そうな伊達を見ながら口を開いた。
「伊達は占いをあんまり信じてないんだな。」
「当然だ。」
伊達はすぐに答えた。
「あんなものに振り回されるほど暇ではない。」
「でも、結構真剣に聞いてたじゃないか?」
橘がからかうように言うと、伊達は溜息をついた。
「黙れ。」
彼らが未来にどんな嵐を迎えるのかを知る者は、まだ誰もいなかった。
2.
東京の春は冷たい雨と共に幕を開けた。その平穏を破ったのは、男爵であり東京帝国大学理学部教授の伊達政弘が詐欺と殺人の容疑で逮捕されたという衝撃的な報道だった。
事件は、東京の資産家・長岡正人の不可解な死を巡るものだった。邸宅で心臓発作による死亡と診断されたが、長岡が所持していた高価な宝石が喪失したことが発覚し、警察は不審を抱いた。そして目撃証言と匿名の密告により、伊達が犯人として浮上した。
逮捕は東京帝国大学の研究室で行われた。警視庁の刑事たちは研究の合間にコーヒーを飲む伊達を包囲し、冷静な声で逮捕状を読み上げた。
「伊達政弘男爵、詐欺および殺人容疑で逮捕します。」
一瞬、研究室の空気が凍りついた。助手たちが驚きの声を上げる中、伊達は冷静な態度を崩さなかった。
「荒唐無稽な話だ。しかし、警察の職務なら協力しよう。」
その穏やかな言葉の裏には、自分が緋色会に狙われているという確信があった。
逮捕に至った根拠は主に二つ。一つは、事件当日に伊達が長岡邸を訪れたとされる目撃情報。もう一つは、現場で発見された名刺に伊達の名前が記されていたことだった。だが、伊達はその容疑をきっぱりと否定した。
夜になり、伊達政弘はその男爵としての尊厳を保つよう、背筋を伸ばしながら留置所の共同スペースに足を踏み入れた。ここは、社会的地位や名誉が何の意味も持たない、罪人たちが集まる場所。警察署内の留置所は、彼が普段過ごす書斎やサロンとは全く異なる、冷たく荒々しい空間だった。
狭い部屋には、複数のベッドが壁際に並べられ、そこには彼と同じく罪を問われる身となった男達が、さまざまな表情で過ごしていた。誰もが不安や無念、あるいは諦観の表情を浮かべ、喧騒と静寂が奇妙に交錯する空間だった。伊達は一瞬、その雰囲気に圧倒されたが、すぐに平静を取り戻した。
伊達は、自分のベッドに座り、周囲を見渡した。ベッドはただの鉄製で、マットレスは薄く、毛布も粗末だった。部屋の隅では、小さな窓から漏れる光が唯一の外界との接続点であり、その向こうには自由が広がっているはずなのに、今は手が届かない。
彼の隣には、窃盗の容疑で捕まった若者が座っていた。その青年は、伊達の眼鏡と整った風貌に興味を示し、恐る恐る質問した。
「お前、何で捕まったんだ?」
「殺人の容疑だ。」
伊達が答えると、青年は目を見開き、
「人は見かけによらねぇな。」
と驚きの声を上げた。伊達は無表情で答えることもなく、ただ自分の頭の中で再び事件のシナリオを整理し始めた。科学者としての彼の思考は、留置所の狭苦しい環境の中でも活発に動いていた。だが、周囲の雑音や他人の視線はその思考を乱す。特に、一部の者は伊達の名前や地位を知っており、好奇心や嘲笑の目を向けてきた。
部屋の中心には、古びたテーブルがあり、そこでは何人かの被疑者がトランプやサイコロを使って時間を潰していた。伊達はその賭け事には参加せず、ただ一人、書籍一冊を持てる特権を利用して持ってきた科学書を広げた。しかし、光線は悪く、集中するにはほど遠い環境だった。
夜が更けると、部屋のどこかで誰かが泣き始め、その声が静かな牢内に響いた。伊達はその声を聞きながら、彼自身の無実を証明しなければならないという重圧を感じていた。
ここで過ごす時間は、彼にとって時間の無駄であり、屈辱だった。彼は科学者として、自分の知識と理知でこの状況から脱出する道を探るべきだと自分に言い聞かせた。
朝が来ると、留置所の職員が朝食を配り始めた。薄味の粥と少しの漬物。それは彼が自宅で摂る食事とは程遠いものだった。共同スペースで過ごす日々は、伊達にとって未知の世界への旅だった。彼は自分の理知と経験を活かしながら、無実を証明するための次の手を考えていた。だが、留置所の壁は厚く、外の世界とのつながりは限られている。その中で彼は、橘薫がどのように動いているのか、そして、自分の名前がどのように汚されているのかを想像するしかなかった。
3.
伊達の逮捕を聞いた友人であり相棒の橘薫は激怒した。橘は伊達の無実を信じており、ただちに行動を開始した。
魔術倶楽部が秘密結社であるため、表立った支援は行われなかったが、 支配人は重い口を開き、
「伊達様を陥れたのは、緋色会の金主、ある有力な貴族です。」
と橘に告げた。
「彼の影響力は我々の想像を超えています。公にするわけにはいけませんが、橘様なら何かができるはずです。」
「魔術倶楽部の存在を暴露するわけにはいかない。それでも、伊達の無実を証明する。」
橘はまず一般的な方法で調査を始めた。彼は伊達の周囲の人間関係を洗い出し、密告者の正体を突き止めるべく奔走した。
橘は、まず伊達の逮捕に至った経緯を詳しく洗い出した。新聞に小さく載った記事には、「東京で発生した詐欺事件の容疑者として伊達政弘氏が拘束」
と簡潔に記されていた。だが、警察筋から得た非公式な情報によれば、彼を陥れた証拠は不自然に整いすぎていた。
「密告者がいた、と聞いている。」
かつて橘に協力した刑事が、こっそり耳打ちした。
「だが、その密告者の身元がやけに曖昧なんだ。伊達男爵の手帳に書かれたメモが決め手になったらしいが、その内容も疑わしい。」
橘は、その手帳の存在に違和感を抱いた。伊達ほど慎重な男が、そんな証拠を残すはずがない。そこで彼は、伊達の行動記録を独自に調査することにした。橘は、事件当日、伊達がある有名な時計店を訪れていたことを突き止めた。その店主は伊達家と古くから付き合いがあり伊達の人柄をよく知る人物だった。橘はさっそく店を訪れ、店主に尋ねた。
「伊達がこちらに来たのはいつ頃ですか?」
「確か、今年に入ってから一度来られましたよ。」
店主は奥の帳簿を取り出しながら答えた。
「修理票を見れば分かるでしょう。ここです、十三時半に依頼を受けています。」
その修理票には、はっきりと「伊達政弘」の名と日時が記されていた。橘はその場で修理票を写真に撮り、さらに店主から証言を得ることに成功した。
一方、橘は伊達の名刺が決定的な証拠とされていることにも疑念を抱いていた。その名刺は、事件現場に残されていたもので、警察の鑑定では伊達本人のものと判断されていた。だが、橘はその名刺を実際に見た瞬間、違和感を覚えた。
「紙質が違う。政弘はもっと質の高い紙を使っていた。」
橘は自身のコネを駆使して独自の鑑定を依頼した。その結果、名刺の紙は市場に出回っている安価な品であり、印刷技術も粗悪であることが判明した。伊達の実際の名刺は、特注のものを使用しており、この点が決定的な違いだった。
さらに調査を進める中で、橘は緋色会の残党がこの事件の背後にいることを掴んだ。彼らは伊達と橘の二人を潰すため黒幕の命をうけ、名刺を偽造し、さらに警察に密告を行ったのだ。
時計店の修理票と店主の証言、名刺の鑑定結果をもとに、橘は警察に再調査を請求した。速やかな再捜査の結果、伊達は釈放された。緋色会の残党も拘束されたが、所詮下っ端に過ぎず、事件の黒幕は見えないままだった。
4.
拘置所の玄関で、伊達は橘と再会した。その顔には疲労の色が浮かんでいたが、どこか安堵の表情も見えた。
「助けられたな、橘。」
「当たり前だろう。こんな目に遭ってる伊達を放っておけるわけがない。」
二人は並んで歩き始めた。雨上がりの東京の街は、水たまりが街灯の光を反射し、静かな夜が広がっていた。
「これで一杯おごってもらえるよな、伊達。」橘が軽口を叩くと、伊達は小さく笑った。
「電気ブランでいいか?」
「他に選択肢があると思ってるのか?」
秘密と陰謀が渦巻く日々の中、二人の絆はさらに強固なものとなった。
これは、割と初期からインテリ眼鏡を留置所に入れたら私が大満足という邪な目的で書こうと思っていた話です。
これ、あまりに好きな話だったので、週末にインテリ眼鏡野郎(配偶者)を名古屋市政博物館の雑居房に入れにいきました。へへ。
さらに同月、明治村でも(笑)




