迷い犬
1.
東京魔術倶楽部の一室に、チェス盤を挟んで向き合う二人の男がいた。一人はは帝大理学部教授の伊達政弘、もう一方は遊び人で知られる子爵家の次男、橘薫であった。天井から吊るされたランプが盤上を照らし、その陰影が戦況の緊張感を一層引き立てていた。
「チェックだ。」
伊達が駒を動かしながら淡々と言った。橘は盤を睨み、眉をひそめた。
「どうやら今回は本気のようだな。」
橘はつぶやきながら駒を手に取ったが、指先で弾くと元の場所に戻し、別の駒を動かした。
「……だが、勝負はまだわからん。」
橘はそう言ったが、伊達の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。伊達の優勢は明白だった。
そのとき、部屋の扉がノックされ、支配人が現れた。背筋を伸ばし、いかにも重要な話があるという顔つきをしている。
「お二人、少々お時間を頂きたく……」
「今、取り込んでいる。」
伊達は顔も上げずに言い放ったが、支配人は怯まず続けた。
「実は、さる身分のお方の飼い犬が行方不明になりまして。」
その言葉に、橘は興味深げに顔を上げた。一方、伊達は露骨に顔をしかめた。
「犬探しか。そんなもの、警察か使用人にでもやらせればいいだろう。」
「しかし、警察に頼むと事が大きくなりますゆえ……事情をお察しください。」
支配人は恐縮しながら言葉を選んだ。
「くだらない。」
伊達はため息をつき、駒を動かした。しかし、その手は明らかに悪手だった。
「チェックメイト。」
橘が笑みを浮かべながら指摘すると、伊達は一瞬だけ目を見開き、すぐに不機嫌そうに腕を組んだ。
「面白そうな話じゃないか。俺が勝ったんだから、行こうぜ。」
「何も賭けてはいなかったはずだ。」
伊達は不機嫌な視線を送ったが、橘は笑って取り合わなかった。
2.
行方不明になった犬の名前は「嵐号」。支配人から手渡された犬の写真には、警察犬時代の誇らしげな姿が写っていた。
「警察犬だったのか。」
橘は写真を見ながらつぶやいた。伊達は写真を受け取り、あからさまに嫌そうな顔をした。
「犬探しだぞ?私たちは便利屋じゃない。」
「まあまあ、面白いじゃないか。散歩だと思えばいいさ。」
橘は軽い調子で笑った。
支配人から渡された情報は乏しく、飼い主の名は伏せられていた。ただ、永田町近辺に住む人物らしいということだけが伝えられた。
「永田町っていえば、官僚とか政治家とかが住んでる場所だろ。」
橘は歩きながら口笛を吹いた。
「犬がこんなとこで迷子になるなんて、変な話だな。」
「変なのは、こんな場所に放り込まれた私たちの方だ。」
伊達は皮肉を込めた口調で返した。
二人は写真を片手に永田町周辺を回り、聞き込みを始めた。だが、誰も嵐号を見た覚えがあるとは言わなかった。高級住宅地と官公庁の間を行ったり来たりするうちに、二人は疲れ果てて道端で大きくため息をついた。
しばらくそこに立ち止まっていると、巡回中の警察官に呼び止められた。橘が犬の写真を見せて、迷い犬を探している事を説明する、すぐに解放されたが、さらに疲れが増した気がした。
「このままじゃ埒が明かないな。」
橘は疲れた声でつぶやいた後、何かを思い出したように顔を上げた。
「そうだ、キャンディがいる。」
「キャンディ?」
伊達は怪訝な顔をした。
「うちで飼ってる柴犬だよ。鼻が利くから、こいつに首輪を嗅がせれば嵐号を見つけられるかもしれない。」
伊達は半信半疑の表情を浮かべたが、他に手がない以上、橘の案を試すしかなかった。二人は魔術倶楽部に戻り、支配人に頼み込んで嵐号の首輪を借り受けた。
橘の実家に戻ると、小さな柴犬のキャンディが尻尾を振りながら飛び出してきた。橘が首輪をキャンディに嗅がせると、彼女は鼻をひくつかせ、しばらく匂いを追って周囲をうろうろした。
「どうだ?」
伊達が腕を組みながら見守る中、キャンディは急に方向を決めたように歩き始めた。
キャンディは軽快な足取りで街中を歩き回り、二人はその後をついていった。嵐号の匂いを追っているのだろうが、なかなか目的地にたどり着かない。
「お前の犬、本当に分かってるのか?」
伊達がぼやいた。
「鼻の良さは保証するよ。たまに回り道が多いだけだ。」
橘は苦笑した。
歩き続けて小一時間が過ぎた頃、キャンディはようやく足を止めた。目の前には一見普通の建物があったが、よく見ると「海軍細菌研究所」と書かれた小さなプレートが入口に掲げられていた。
「穏やかじゃないな。」
橘は眉をひそめた。
伊達も厳しい表情を浮かべた。
「犬がこんな場所に来る理由が気になるが、深入りすべきじゃない。」
周囲を警戒しながら建物を観察する二人だったが、これ以上の捜索は危険と判断し、その場を後にすることにした。
キャンディは二人の不穏な空気を感じ取ったのか、再び尻尾を振りながら歩き始めた。その背中を見て、橘は小さく溜息をついた。
3.
二人は倶楽部に戻ると支配人に嵐号が海軍の細菌研究所にいる可能性を伝えた。それから数日後、倶楽部の応接室に呼び出された伊達と橘は、支配人から
「嵐号は家に戻りました。」
と伝えられた。二人は少しだけ肩の荷が下りた気がした。だが、支配人はさらにこう続けた。
「ただ……嵐号はその後、処分されました。」
橘は思わず立ち上がった。
「処分、とは?」
「詳しいことは申し上げられませんが、健康状態に問題があったため、やむを得ない判断が下されたとのことです。」
伊達は、支配人をじっと見据えた。
「それが事実かどうかはともかく、話の筋が通らないな。」
支配人は困ったような表情を浮かべ、頭を下げた。
「お二人にご協力いただいたことは、深く感謝申し上げます。」
橘はなおも食い下がる様子を見せたが、伊達は彼の肩を軽く叩いた。
「もういい。この件はこれ以上詮索しない方がお互いのためだ。」
不完全燃焼のまま、二人は応接室を後にした。
4.
その夜、東京魔術倶楽部のラウンジで橘と伊達は酒を飲んでいた。嵐号のショックが酒の力でようやく和らいだ頃、一人の若い海軍士官が彼らに近づいてきた。制服が引き締まった身体を引き立て、鋭い知性を感じさせる糸のように細い目を持つ男だった。襟元の階級章からは彼が少佐であることが伺えた。
「伊達さん、橘さん。」
少佐は一礼し、二人を手招きした。
「真相を知りたくありませんか?」
その一言で、二人の酔いは吹き飛んだ。
「君は何者だ?」
伊達が冷静に問いかけると、少佐は少しだけ微笑んだ。
「海軍少佐、河村と申します。嵐号の最期について、知りたくありませんか?」
橘が勢い込んで尋ねた。
「知りたいさ。あの犬が一体どうして処分されたのか、そして何が隠されているのか。」
河村は周囲を見回し、小声で言った。
「それならば、倶楽部では話せません。明日夜、港区の倉庫に来てください。」
地図が書かれたメモを渡し、河村はその場を立ち去った。
伊達は眉をひそめながら橘を見た。
「罠かもしれんぞ。」
「それでも構わない。伊達も気になるだろう?」
橘は即答した。
5.
翌夜、二人は指定された港区の倉庫へ向かった。人気のない薄暗い通りを進むと、倉庫の一つがひっそりと開いており、中には河村が立っていた。
「ついてきて下さい。」
倉庫奥に進みながら、河村は海軍の細菌研究所について話し始めた。それは高度な病原体研究を行う場所であり、軍の極秘計画の中心だという。
そして、嵐号が研究所に連れ去られた理由は、狂犬病ウイルスを意図的に感染させるためだったと明かされた。狂犬病は、当時もワクチンが存在したが、現代でも発症すれば致死率100%の病気である。
「嵐号の飼い主は田中首相です。」
河村の言葉に、橘は息を飲んだ。
「つまり、あの犬を利用して暗殺を企てた。そういうことか?」
「その通り。」
河村は静かに頷いた。
「海軍の過激派が仕組んだ計画です。嵐号に狂犬病を感染させ、田中首相の元に戻すつもりでした。しかし、私はそれを阻止しました。」
伊達が目を細めて言った。
「どうやって?」
河村は一瞬目を伏せた後、再び二人を見た。「私が研究所に忍び込み、嵐号を処分しました。」
橘が激昂して詰め寄った。
「おい、それが正しい判断だったのか?」
「他に方法はなかった。」
河村はきっぱりと答えた。
「犬を逃がせば計画が実行される。真実を公にすれば、海軍の内部抗争が露見して混乱が広がる。それを避けるためには、嵐号をこの世から消すしかなかった。どのみち狂犬病に感染した犬は殺処分される。」
倉庫の冷たい空気が、張り詰めた緊張感をさらに強めていた。河村の告白を聞き終えた橘と伊達は、複雑な表情を浮かべたまま、彼に鋭い視線を向けていた。
橘が声を荒げ河村に詰め寄った。
「なぜ俺たちにこんなことを話す?これだけの極秘事項を、俺たちみたいなよそ者に話す理由があるのか?」
河村は一瞬目を伏せたが、すぐに二人を見据え、重々しく口を開いた。
「あなたたちが嵐号を探したのは、私が手を回したからです。」
河村の声には一切の感情がなかった。
「あの計画を阻止するために、嵐号の居場所を追う必要があった。だが、それを内部の人間が表立って行うことは不可能だった。あなた方はそのための駒として選ばれた。」
「駒だと?」
橘の声には怒りが滲んでいた。「俺たちはお前らの遊び道具じゃない!」
河村はその怒りを正面から受け止めるように言葉を続けた。
「巻き込む形になったのは謝罪します。」
しばらくの間を置き河村は静かに言った。
「私が真相を語ったのは、あなたたちに知っておいて欲しかったからだ。この国が抱える闇を。そして、正義を信じることがどれほど危ういものかを。」
橘は鼻で笑ったあと、河村を嘲るように
「随分と回りくどい話だな。」
と言い放った。
「だが事実だ。」
河村は一歩前に踏み出した。
「嵐号の事件を通じて、あなたたちは見たはずだ。この国の基盤がどれほど脆く、歪んでいるかを。そして、それを守るためには、時に手段を選ばない者が必要だということを。」
「お前がその『選ばない者』だとでも?」
伊達が冷たく言い放った。
「そうだ。」
河村は堂々とした態度で言い切った。
橘は河村から目を逸らした。嵐号の写真が頭に浮かび、胸が苦しくなった。
「そんなこと、俺たちには理解できない。」
橘の言葉に、河村は静かに頷いた。
「理解する必要はない。ただ、覚えていてほしい。物事の裏には必ず汚れ役がいる。誰しもその一人になる可能性がある。」
6.
倉庫を後にした二人は、無言のまま薄暗い通りを歩いていた。橘はふと立ち止まり、夜空を見上げた。薄くかかった雲の切れ間に星がぼんやりと瞬いていた。
「嵐号は、最後に何を思ったんだろうな。」
橘がぽつりと言った。伊達は手をポケットに突っ込み、寂しげな声で答えた。
「そんなことを考えたって、どうにもならないさ。」
「分かってるさ。でもさ……」
橘は言葉を飲み込んだ。
二人はそのまま歩き続け、橘の実家に戻った。玄関の扉を開けると、キャンディが小さな足音を立てて駆け寄ってきた。尻尾を振りながら橘の足元に飛びつき、甘えるように鼻を押し付けクゥンと鳴いた。
橘はキャンディの頭を撫でながら微笑んだ。「お前はいいよな。こんな世界の汚れに触れる必要なんてないんだから。」
伊達は無言でその様子を見ていたが、やがて小さくため息をついた。
「帰るぞ。これ以上、この話題に触れる必要はない。」
橘は頷き、キャンディの頭をもう一度撫でてから立ち上がった。
「そうだな。俺たちは前に進むしかないか。」
二人は夜の街へと歩き出した。その背中にはどこか重い影が落ちていたが、遠くには灯りが明るく揺れていた。キャンディは小さな窓辺から、二人の背中をじっと見送っていた。
河村少佐、初登場話です。
ファンの方、感想をぜひお願いいたします(切実)
自分の専門知識を活用したかったため書いた話です。
犬探しってコミカルなネタから、暗い話にしたため3人くらいに刺さった言われました。
ネタばらし役に軍人さん出したら準レギュラー……いやレギュラーになった上に河村編までやっちゃう存在に。
幸が薄いのがチャームポイントです!




