私設美術館
1.
冬の夜、東京魔術倶楽部の広間は、柔らかな灯火と談笑の声に包まれていた。伊達政弘は話の輪には加わらず、重厚な肘掛け椅子に腰掛け、持ち込んだ専門書を黙々と読んでいた。
伊達の帝大理学部教授としての厳格な佇まいに反して、その傍らにいる橘薫は、軽快な調子で会員たちとカードゲームを楽しんでいた。橘は子爵家の次男で遊び人として知られていたが、その頭の回転の速さと観察眼は、伊達を時折感心させるものがあった。
そんな中、紳士的な風貌を持つ村井が二人に近づいてきた。村井は魔術倶楽部の古参で、都内に私設美術館を持つ財界人だった。彼は深刻な表情で語り始めた。
「実は、私の美術館に収蔵されているティアラに、怪盗から予告状が届きましてね。来週の夜、必ず盗む、と。」
話を聞いた橘は、目を輝かせた。
「面白いじゃないか。こういうの、俺は大好きだよ。伊達はどうだい?」
「興味深い話ではありますが、私は暇ではないのです。」
伊達はそっけなく言ったが、橘がまるで子供のようにワクワクしている様子を見て、ため息をつきながら承諾した。
2.
「時間があるから、寄り道をしようじゃないか。」
橘が言い出したのは、村井の美術館に向かう前のことだった。伊達は、いささかうんざりしたような表情を浮かべながらも、頭ごなしに否定はしなかった。
「どこへ行くつもりだ?」
「東京府美術館だよ。『巴里―東京新興美術展』を見に行こうじゃないか。ピカソやエルンストの作品が出ているんだ。」
その名を聞いて、伊達は小さく肩をすくめた。科学者として理路整然とした美の原則を好む彼にとって、前衛芸術はどうにも理解しがたい代物だった。だが、橘が目を輝かせて話し始めると、これにもまた仕方なく付き合うことにした。
東京府美術館の広間は、さながら異国の空気に包まれていた。巴里の香りを運んできた116点の前衛絵画が、壁一面に飾られている。大勢の観客が会場を埋め尽くし、賛否両論の声が飛び交っていた。
「ピカソの『座る女』だ。どうだい、先生?」
橘が指差したのは、鮮烈な色彩と歪んだ形で描かれた女性像だった。伊達は眉間に皺を寄せて、絵に目を向けた。
「どうも奇妙だ。人間の形をここまで歪める必要があるのか?」
橘は口元に微笑を浮かべながら、講釈を始めた。
「それがキュビスムの魅力さ。形を分解し、再構築することで、表面だけでは見えない本質を描こうという試みなんだ。」
「本質、ねぇ。私にはただの抽象化にしか見えないが。」
伊達は小さくため息をつき、目をそらした。
会場を一通り見終わる頃には、橘はすっかり上機嫌になっていた。
「どうだった、伊達?少しは前衛美術の良さが分かったかい?」
「美術を超えて、これは哲学の領域だな。」と伊達は苦笑した。
「私は論理で物事を解き明かす人間だが、こういった曖昧なものを否定するつもりはない。ただ、どうも自分には向いていない。」
橘は満足げに頷いた。
「それでいいのさ。何も分かる必要はない。ただ感じることが重要なんだ。」
二人は、タクシーに乗り込み、次の目的地である村井の美術館へと向かった。
3.
深い静寂が東京の夜を包む中、美術館だけが厳戒態勢に置かれていた。ティアラは頑丈なガラスケースに収められ、村井の指示で複数の鍵が施されていた。館内にはガードマンが巡回し、外部からの侵入に目を光らせている。見物客が居ないにも関わらず、煌々と灯る館内の照明が、静かな緊張感を際立たせていた。
橘は、ケース越しに輝くティアラをじっと見つめながら、軽い口調で尋ねた。
「さて、怪盗はどう動くと思う?」
隣で腕を組んでいた伊達政弘は、まるで興味がないかのように答えた。
「案外、来ないかもしれないな。」
その予想は意外にも的中した。夜が更けても怪盗らしき動きは一向になかった。ガードマンたちが慎重に巡回を続ける中、時折聞こえるのは館内の時計の秒針が刻む音だけだった。
だがその時、隣室から突然ガードマンの叫び声が響いた。
「火事だ!火事だ!」
橘と伊達はすぐさま隣室へ駆けつけた。部屋の中央には焦げたキャンバスが黒く焼け焦げたまま立てかけられており、あたりには焦げ臭さが漂っている。
ガードマンたちは慌てながらも、最新式の消火器を使い、火を消し止めることに成功していた。まだ一般には普及していないその消火器は村井が念のために準備させたもので、その判断が被害を最小限にとどめていた。
橘は眉をひそめながら、
「密室で絵が燃えるなんて不自然だ。」
と言い、伊達に目配せをした。
伊達は無言でキャンバスに近づき、焦げ跡を観察した後、空気を嗅いだ。
「ニンニクのような臭いがしますね。」
そう一言だけ言った。
「ニンニク?」
橘が怪訝そうに繰り返す。伊達は軽く肩をすくめ、村井に向き直った。
「まずは換気をお勧めします。この部屋に留まるのは賢明ではない。」
それだけ告げると、伊達さっさとその場を後にした。
4.
美術館を後にすると、橘が早速伊達を問い詰めた。
「で、どういうことだ?あの臭いの正体は?」
「白リンだ。」
伊達は淡々と答えた。
「白リンは自然発火性を持つ物質だ。水中で保存され、空気に触れると酸化して発火する。つまり、誰かが白リンを水から取り出し、キャンバスの裏に塗布しておいたのだ。そして、照明の熱も使い温度を上げ、発火させた。タイミングを計算すれば、あの状況が作れる。」
「つまり、あの火事は仕組まれていたってことか!」
橘が興奮気味に言った。
「その通りだ。これを仕込んでおけば、誰もいない隣室で火が起こることを演出できる。ガードマンの叫び声で皆が隣室に引き寄せられる間に、仮に本当にティアラを狙う者がいれば隙を作れるが……。肝心の怪盗は現れなかった。」
伊達は冷静に答えた。
「これは推測だが、あの絵は贋作だ。おそらく保険金目当ての自作自演だろう。そして怪盗の予告状も、おそらく村井が仕組んだ演出だ。我々はただの観衆として利用されたのさ。」
橘は、眉をひそめて腕を組んだ。
「それで、どうするつもりだ?警察に話をするのか?」
「するわけがない。」
伊達は即答した。
「私は警察でも保険会社でもない。こんな茶番に付き合わされたのは不愉快だが、真実を暴いても何も得られん。」
5.
伊達と橘は、美術館を出るとそのまま近くの路地へと足を運んだ。どこからか漂う夜食の匂いが、わずかに空腹感を刺激する。橘が少しだけ怒ったような声で話しかけた。
「伊達、あっさり引き下がるのも癪じゃないか?利用されっぱなしで帰るなんて、男として面白くはないな。」
伊達は眼鏡を外して拭きながら、静かな調子で答えた。
「君が面白がるために、この世は存在しているわけじゃない。そもそも、この茶番が公になれば村井がどうなるか想像してみろ。怪盗を仕立て上げ、保険金詐欺まで企てたとなれば、美術館どころか彼自身の評判も地に落ちる。」
橘はしばらく腕を組んで黙っていたが、やがて皮肉な口調で
「相変わらず、どこか冷めてるな。でもまあ、気持ちは分かるよ。結局のところ、俺たちは夜の興行の“特等席”に座らされただけって訳だ。」と言った。
伊達は眼鏡をかけ直し、少しだけ苦笑いを浮かべると、橘の肩を軽く叩いた。
「村井の手際は案外良かった。君の好きな演劇やマジックショーと違って、観客が結末を知らずに済む分、余韻が残るだろう?」
橘は一瞬眉をひそめたが、すぐに茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべた。
「余韻が残りすぎて、喉が渇いた。どうだ伊達、一杯やらないか?」
伊達は時計をちらりと見て、少しだけ考え込むふりをした。
「この時間なら、あそこがまだ開いているかもしれないな。」
橘が目を輝かせて、伊達を引っ張るように歩き出した。向かった先は、二人が時々足を運ぶ酒場だった。しっとりとした木製のカウンターと古びたランプの明かりが心地よい空間だ。
席に着くなり、橘はウイスキーを注文し、伊達の方を向いてニヤリと笑った。
「先生、どうせなら今夜くらいは真面目な話は抜きにして、気楽に飲もうじゃないか。」
伊達は目を細めながらグラスに注がれた酒を持ち上げた。
「そうだな。今夜の茶番の続きを考えるよりは、君の戯言を聞いている方がまだマシだ。」
二人は笑い合い、酒場の奥で静かに語らい始めた。外では夜風がひんやりと吹き抜け、街灯の明かりが路面をぼんやりと照らしていた。彼らが次にどんな事件に巻き込まれるのかは、まだ誰も知らない。
怪人二十面相的な話で、伊達先生が化学の知識をスマートに発揮を目指しました。
そして伊達も橘も、正義の味方ではありません。くさいものに蓋もします。
感想、⭐︎お待ちしております。




