地下鉄道
1.
雨上がりの浅草、街の喧騒が次第に増していく中、伊達政弘は雷門前で腕時計を確かめながら溜息をついた。時刻はすでに待ち合わせ時間を30分も過ぎている。丸縁の眼鏡越しに往来を見渡しながら、足元を行き交う人々を避けるように端へ寄った。
「橘が時間通りに来るなど、そもそも期待するべきではなかったか……」
独り言のつもりだったが、隣を通り過ぎた女性がちらりと彼を見て、眉をひそめた。伊達は軽く頭を下げ、再び時計を見た。
ちょうどその時、人混みの向こうから急ぎ足で駆けてくる小柄な男が目に入った。革靴を鳴らし、ダブルのスーツの裾を揺らしながら、橘薫がこちらに駆けてきた。
「遅くなった、悪い!」
息を切らしながら橘が言った。
「君が時間通りに来るとは思っていなかったが、さすがに今日は酷いな。」
伊達はやや冷たい調子で返した。
「いや、聞いてくれ、東京地下鉄道を使ったら予想外に遅れたんだ!」
「わざわざ電車に乗る理由があったのか?」
「ほら、浅草まで歩くのは退屈だろう?何か新しい景色を見たいと思ってな。」
伊達は眼鏡の奥で目を細め、少し呆れたような表情を浮かべた。
「その結果が大幅な遅刻か。寄席が始まるぞ。事前に席を押さえておいたが、無駄になりかけている。」
「寄席か……なるほど、それは申し訳ないことをした。」
伊達と橘は、急ぎ足で雷門をくぐり、仲見世通りを歩き始めた。道沿いの店からは香ばしい煎餅の匂いが漂い、人々は串団子や焼き芋を手に浅草を楽しんでいた。
「それにしても、寄席に行くと言うのは随分と風流だな。」
歩きながら橘が口を開いた。
「たまには頭を空にする時間が必要だろう?科学も魔術も、詰め込みすぎると結果が鈍る。」
「それにしても君が選ぶ娯楽がこれか。もっと上流階級らしい選択肢はなかったのか?」
「寄席を下に見るとは、君もまだまだ教養が足りないようだな。」
伊達の冷ややかな指摘に、橘は笑いをこらえた。
「いやいや、軽視しているわけではない。ただ、君が庶民の娯楽を楽しむ姿が少し新鮮だっただけだ。」
「そういうところが君の欠点だ。時代を知ることは、自分たちを知ることにも繋がる。」
橘は、話の途中でふと立ち止まり、焼き団子の屋台を見つめた。
「ところで、少し腹が減っているんだが。」
「……遅刻した上に寄り道か。席を取った意味がなくなる。」
「いやいや、伊達、そんなに怒るな。柔軟に付き合うのが君の懐の深さを示すのでは?」
伊達は再び溜息をつき、仕方なく財布を取り出した。
「せめて急いで食べろ。君のおかげで、私の貴重な休日が無駄になりつつある。」
二人が寄席小屋に辿り着いた頃には、すでに開演の時間を少し過ぎていた。小屋の入口からは観客たちの笑い声が漏れ聞こえ、扉の向こうには芸人が舞台で巧みに観客を引き込んでいる様子が伺えた。二人が席につくと、舞台上では若い噺家が見事な滑舌で話芸を披露していた。橘は少し身を乗り出して興味深げに聞き入り、伊達は微笑を浮かべながら静かに腕を組んでいた。
「これが君の言う、頭を空にする時間か。」
橘が小声で囁いた。
「そうだ。そして君に必要な時間でもある。」
「なるほど、確かに悪くない。感謝するよ、伊達。」
二人の声は噺家の話にかき消され、やがて笑い声の渦に包まれていった。
2.
浅草の寄席で、ひとしきり笑いと人情噺を楽しんだ伊達と橘は、夜風に当たりながら東京魔術倶楽部へと足を運んだ。
寄席の喧騒から一転して、倶楽部の中は落ち着いた空間が広がっていた。柔らかな照明が木目の壁に影を落とし、奥のサロンからは小さな弦楽四重奏の音色が漏れていた。
「やはりここは落ち着くな。俺の家よりも、よほど居心地がいい。」
橘が軽口を叩きながら、倶楽部のラウンジに腰を下ろした。
「それは、君がこの場所で何も管理しなくていいからだ。」
伊達は呆れたように言って、運ばれてきたグラスの水を一口飲んだ。
テーブルには、軽食として季節の野菜のサンドウィッチと、カナッペが並べられている。橘は手早く一切れを摘み、口に運びながら言った。
「それにしても、寄席で腹を抱えて笑った後にこんな洒落た軽食を楽しむとは、実に贅沢だ。」
そんな会話をしていると、倶楽部の支配人である男が、静かに二人のテーブルに近づいてきた。彼は深い藍色のスーツを纏い、丁寧な微笑を浮かべていた。
「伊達様、橘様、寄席帰りのご訪問とは珍しいですね。お楽しみいただけているようで何よりです。」
二人が軽く頷くと、支配人は控えめに続けた。
「ところで、鉄道はお好きですか?」
「鉄道?まぁ、嫌いではないけど。」
橘が不思議そうに首をかしげた。
「好む、好まざるに関わらず、乗らざるを得ないものだろう。」
伊達は当たり前のことを聞くなという顔で答えた。支配人は軽く頷きながら、話を続けた。
「実は、先日開通したばかりの東京地下鉄道の稲荷町駅で、ある問題が起きておりまして。」
「問題?」
伊達がその言葉に反応した。
「ええ。運転手が体調を崩される事例が続いておりまして、中には稲荷様の祟りと恐れる者もおり、乗務を拒否する者も出始めております。」
橘は顔をしかめ、伊達の方を見た。
「今日、俺が乗った時は何も感じなかったぞ。しかし、祟り、とはずいぶん古めかしい話だな。」
「だが、祟りだと信じる者がいる以上、それが事態を悪化させる原因にもなる。」
伊達は支配人の話に興味を示していた。
「倶楽部の役員の中に鉄道会社の関係者がおりまして、この件を調査できる人物として、お二方を推薦した次第です。」
3.
次の日の夕刻、稲荷町駅に到着した伊達と橘は、地下鉄道の入り口で立ち止まった。入り口の周囲には、地下鉄を初めて利用する人々が興味深げに集まり、その賑やかさが新しい交通機関への期待を感じさせる。しかし、二人の目的は違っていた。
「まずは、ここで働く人々に話を聞いてみるか。」
伊達が懐中時計を確認しながら言うと、橘は肩をすくめて笑った。
「伊達がこの手の聞き込みに向いているとは思えないがな。」
「必要なのは情報だ。話術は君に任せる。」
二人は駅構内に入り、まず運転手たちが集まる控室を訪れることにした。室内には制服を着た若い運転手が数名おり、皆どこか落ち着かない様子を見せていた。
一人の中年男性が、二人に気づいて近づいてきた。
「お二人は、関係者の方ですか?」
「いいえ、ただ、事情を伺いに来た者です。」
伊達が簡単に名乗ると、橘がにっこりと笑って言葉を継いだ。
「こう見えて、彼は東京帝国大学の教授でしてね。技術的な助言をするために派遣されたんです。」
中年男性、田村と名乗る運転士は、疲れた様子で語り始めた。
「正直なところ、もうここで働きたくないという声が多くてね。特に稲荷町駅では、不思議なことが多いんですよ。」
「不思議なこと?」
橘が興味深げに身を乗り出した。
「たとえば、夜の運行中に奇妙な音を聞いたり、体がだるくなる感じがするという話です。中には、稲荷様の祟りだと本気で信じている者もいます。」
「音ですか?」
伊達は眉をひそめながら、田村に質問を重ねた。
「その音は、どのようなものですか?」
「低い唸るような音で……耳にははっきり聞こえないんですが、頭に響くような感じがするのです。」
「なるほど。」
伊達は頷きながら、メモ帳に詳細を記録した。
橘は、部屋の隅で落ち着かなそうにしている若い運転手にも声をかけた。
「君はどうだい?何か気になることはあるか?」
「いや、その……確かに何かを感じるんですが、どう説明したらいいのか。」
若い運転手は言葉を濁しながらも、橘に視線を向けた。
「でも、こういう話をすると、余計に怖くなるんです。」
4.
控室を出た二人は、次に駅近くの住民にも話を聞くことにした。夕暮れの商店街は活気があり、屋台や小さな店舗からは食欲をそそる匂いが漂ってきた。その中で、一軒の蕎麦屋の女将が、二人の質問に答えてくれた。
「稲荷様の祟りって話、最近よく耳にしますよ。」
女将はそう言いながら、暖簾を揺らして店の中を覗き込んだ。
「でもね、昔からこの辺りの人間は、稲荷様を大切にしてきたんです。祟りなんて、そう簡単に起きるもんじゃありません。」
「では、何が原因だと思いますか?」
伊達が静かに問うと、女将は少し考えた後で答えた。
「何か、空気が変わった感じがするんです。この地下鉄ができてから、風が違う気がするんですよ。」
橘はそれを聞いて、笑いながら伊達に目を向けた。
「空気が違う、か。君の得意分野じゃないか?」
「そうかもしれない。」
伊達はメモ帳を閉じて立ち上がった。
「橘、これ以上の聞き込みは時間の無駄だ。空調と音響設備を調べるべきだろう。」
二人はホーム階に降り、
「何か感じるか?」
と伊達は橘に聞いた。
「そうだな、はっきりとは分からないが空気が重いような気がする。」
橘が頬に手をあてて答えた。
伊達は持参した簡易的な計測器を使い、ホームの音響環境を調べ始めた。その結果、ホームに特定の低周波音が響いていることがわかった。さらに、それが新設された空調設備の稼働によるものだと突き止めた。
「この低周波が原因かもしれないな。」
「低周波?」
橘が首をかしげる。
「人間は耳で聞き取れない音にも影響を受けることがある。この音域の音は、体調や神経に敏感な人に不調を引き起こす可能性がある。」
二人は結果を支配人に報告し、それをうけた会社は、数日後、空調の設定を変更した。低周波音を解消した結果、運転手たちの体調不良は次第に改善し、祟りの噂も自然と消えていった。
5.
数日後、倶楽部を訪れた伊達と橘のテーブルに支配人がゆっくりと近づいてきた。
「素晴らしいお仕事をありがとうございました。これで稲荷様の祟りという噂も消え、鉄道会社の皆様も胸を撫で下ろすことでしょう。」
支配人は深々と頭を下げた後、少し神妙な表情を浮かべて続けた。
「本件とは関係のない話ですが、以前に潰された緋色会の背後にいた金主が、どうやらお二方を強く恨んでいる様子です。彼らは秘密裏に報復の機会を狙っているかもしれません。」
橘は、肩をすくめて笑った。
「緋色会の連中が恨むのは勝手だが、彼らがもう一度力を取り戻すことはあるまい。」
「とはいえ、警戒を怠るのは危険だ。」
伊達は真剣な目を支配人に向けた。
「支配人、ご忠告感謝します。我々も注意を払うつもりです。」
支配人は深々と頭を下げると、二人に新しいグラスを差し出した。中には黄金色の液体が注がれている。
「どうぞ、労をねぎらい、ささやかな祝杯を。」
二人はグラスを手に取り、静かに乾杯した。東京魔術倶楽部の一夜は、そんな穏やかな余韻の中で幕を閉じた。
ニュースで運転手が体調不良続出、お祓いしますと言うのを見て、お祓いの前にやることあるだろうと…
本当は稲荷さまの使いが子供の姿をとってお礼にしたかったんですけど、入れられず。




