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緋色のカクテル(後編)

4.

 橘が招待券を見せて「緋色会」の重い扉を潜り抜けると、そこはシャンデリアが煌めき、酒と煙草の香りが混ざり合う豪奢さと背徳感が交錯する空間が広がっていた。


 東京魔術倶楽部よりも賭けに特化している分、煌びやかさとギラつき感が強いと橘は感じていた。そこにはは、金銭だけでなく、人生そのものを賭ける者たちが集っていた。


 橘が内部へと進むと、賭場の中心に立つ男、本多康介を見つけた。彼は、ポーカーテーブルを囲む賭博師たちの中でも異彩を放ち、表情にはもはや若さの面影が見えなかった。康介の目は、深い淵のように暗く、常に次の賭けを求めているかのようだった。


 橘は、康介の隣に自然に座り、軽く頭を下げた。

「初めまして、橘といいます。今日の運勢を試しに来たんです。実はこの場所は初めてで、常連に見えるあなたに色々教えてもらおうと声をかけたわけです。」

 橘ははにかんだ笑顔で頭を掻いた。


 橘はギャンブルの技術と勝ち運で周囲の注目を集め、康介の興味を引きつけることに成功した。康介は、橘を見つめ、冷静だがどこか空虚な声で尋ねた。

「橘か……。今度ははどんな手札を引く?」


 ゲームを通じて橘は、科学者である伊達とは異なる、探偵としての観察力で康介の動きを読み取ろうとした。彼のベットの仕方、表情の変化、そして何よりも、カクテルを飲む瞬間を。


「このカクテル、試してみる?」

 康介が橘に特製カクテルを勧めた。橘は、一口だけ口に含み、注意深くその効果を感じようとした。すぐに飲み込まずに口の中に留めておいたが特に何も変化は無いように思えた。橘は康介の隙を見てハンカチにカクテルをそっと吐き出した。


 康介を見ているとカクテルを飲んだ直後に目が一瞬、虚ろになるのが分かった。そして、耳元で何かが囁かれるかのように、微かに口元が動いていた。「もっと賭けろ」「手を緩めるな」という声が、康介の心を支配しているかのようにも見えた。


 橘は、康介が次の賭けに手を出すたびに、どれだけ無謀かも観察した。彼は、負け続けても、まるで何かに取り憑かれたかのように、次々とチップを積み上げた。


「本多さん、こんなペースで賭けると、すぐに破滅しますよ。」

 橘が警告するが、康介は力なく笑って答えた。

「もう、破滅なんてとっくに覚悟の上さ。だが、これが楽しいんだ。勝てば何でも手に入る。」

 康介の言葉に橘は

「何でも手に入る?それは本当にそうですか?」

 と挑発的に尋ねたが、康介からの返事はなかった。


 その夜、康介は大勝ちした後、猛烈な勢いで負け続けた。だが、それでも彼は止まらない。橘は、康介の間近で、賭博に溺れていく彼の姿を見つめながら、心の中で考えた。

「これは、ただのギャンブル狂いじゃない。何かが、彼を操っている。」


 橘は、康介との会話の中で、彼の過去や現在の悩みを探った。

「本多さん、貴方は何を求めてこんな場所にいるんだ?」

 康介は、少しだけ本心を覗かせ、

「自由さ。全てを捨てて、何も考えずに生きられる自由。ここでは、それが手に入る気がするんだ。」


 その瞬間、橘は康介の心の隙間を見つけた気がした。康介の言葉から、彼が父親の期待や社会の枠から逃れるための手段として賭博を使っていることを察した。それは橘も同じだった。


 しかし、康介の次の行動は橘を驚かせるものだった。彼は、テーブル上に大量のチップを投げ出し、大声で宣言した。


「すべてを賭ける。」


 それは、もはや理性の枠を超えた行動だった。

「これは、ただのギャンブルじゃない。誰かが……何かが、彼を奈落に引きずり込んでいる。」

 橘は確信した。


5.

 翌日の朝、橘は伊達の研究室に足を運んだ。伊達に昨夜の「緋色会」で手に入れた、カクテルの染み込んだハンカチを渡すためだった。


 橘は、実験テーブルに座り、前夜の経験を詳細に語り始めた。

「康介の側にずっといたが、俺には『もっと賭けろ』の声は聞こえなかった。」

 橘はポケットからハンカチを取り出し、それをテーブルに広げた。ハンカチは、特製カクテルの染みで少し茶色に変色していた。


 伊達は、興味深げにハンカチを手に取りった。

「これがそのカクテルか。」

 伊達はハサミで染みの部分を小さく刻み、その成分を分析するため、溶媒を使用して抽出を試みはじめた。


 分析作業を見つめながら橘は

「昨夜、康介は本当に正気を失ったように賭けていた。あれは、ただのギャンブル狂いとは思えない。」

 と言い、昨夜の事を思い出すように目を閉じた。

「彼の目は、まるで何かに操られているかのように空虚だった。」


 伊達は、橘に説明をしながら抽出液を試験管に移す。

「この抽出物から何らかの薬物反応が見つかるかもしれない。麻薬あるいは幻覚剤のようなものが含まれている可能性がある。」


 橘は、頬杖をついて少しだけ遠くを見た。

「彼は、親からのプレッシャーから逃れるため、賭博に走ったのかもしれない。しかし、あの異常な行動は尋常じゃない。あれは、何らかの暗示か洗脳の結果だろう。」

 言葉の前半は社会から逃げる自分を重ねているようにも聞こえた。


 伊達は、分析の手を止めずに話を続けた。

「確かに、心の隙間を利用した心理操作が存在する。だが、それだけではそこまで異常な賭け方の説明はつかない。もし、このカクテルに何か特殊な成分が含まれているなら、私はそれを科学的に証明する必要がある。」


 橘は少しの間、テーブルに伏せて考えた後、「康介の行動は、ただのギャンブル好きとは違う。あの賭場には何かが潜んでいる。俺には声が聞こえなかったのは、吐き出したからかもしれない。もしくは、康介が持つ心理的な弱点を狙った何かがあるのかもな。」


「この成分を特定できれば、解毒や予防策を考えることができる。橘に声が聞こえなかった理由として考えられるのは、カクテルが特定の人間にだけ反応するように設計されたものかもしれない。」

 伊達が溶媒に漬けられたハンカチを見ながら言った。


「その証拠を手に入れるためには、もっと内側に食い込まないと。次は、俺がそのカクテルを飲んで、何が起こるか確かめる。」

 橘は伊達に決意を伝えた。

「一人で探るのは危険すぎる。まずは成分の分析結果を待て。」

 伊達は真剣な顔で橘を止めるのだった。


 翌日、伊達は、橘を研究室に呼び出し分析結果を伝えた。

「クロマトグラフィーを用いた分析の結果、カクテルにはなんらかのアルカロイドとオピオイドが含まれていることが判明した。これが康介の異常な興奮や行動を引き起こした可能性が高い。しかし、声の謎はまだ解けない。」


 橘は、興味深げに聞きながら尋ねた。

「なるほど、科学がそれだけ証明してくれれば、あとは俺たちの力だ。どうする?」

「そうだな。私も一緒に緋色会へ行こう。二人でなら、何かが見えてくるかもしれない。」

伊達は慎重にそう提案した。


6.

 その夜二人は、「緋色会」の扉を叩いた。前回と同じく店内には豪華なシャンデリアが輝き、その光が落ち着きのない影を投影し、どこか異様な熱気に包まれていた。客たちはルーレットやカードに熱中し、目がギラギラと輝いている。空気は緊張と期待で張り詰め、まるで異界に足を踏み入れたかのようだった。


 バーカウンターには、「緋色特製カクテル」という酒が並んでいた。その一つ一つが、まるで宝石のように美しい赤い液体を湛えている。グラスの中で、リキュールは怪しくきらめき、その色は深い血のように見る者を引き込む魅力を放っていた。


 橘は、そのグラスを手に取り、静かに呟いた。

「まるで吸血鬼の血だな。」

 彼の目には興味と好奇心が混じっていた。


 伊達は橘に警戒を促した。

「飲むのは慎重にしろ。」

 伊達はこのカクテルの影響力に懸念を抱いていた。


 しかし、橘は自信満々に、

「俺に任せておけ。」

 と言い、静かにグラスを口に運んだ。橘が飲み込んだのはわずか一口だが、隣にいた伊達は即座にその異常な効果を感じ取った。


 カクテルを飲んだ途端に、橘の顔色が変わり、普段の陽気さを失って見えた。目がギラつき始め、興奮が彼を襲っているのであろう。「もっと賭けろ」の声が、まるで実際に存在するかのように橘の頭の中で響き渡った。それは、まるで魔術師の呪文が効力を発揮したかのようだった。


 橘は、ルーレットのテーブルに走り、チップを次々と賭け始めた。伊達はその異常な行動を見て、すぐに彼を止めようとした。


「橘、正気に戻れ!」


 だが、橘は止まらない。チップがテーブル上で積み重なる速度は、まるで時間が加速しているかのようだった。


 伊達は、力ずくで橘を店の外へ連れ出した。

「これはただの酒の影響じゃない。君は理性を失っている。」

 外の冷たい空気が、橘の熱を持った身体を冷やし、多少の理性を取り戻させた。橘を心配した伊達は、車を手配し、自分の実家へと彼を運んだ。


 その夜、橘は奇妙な夢を見た。夢の中で、彼は無数の手に囲まれていた。それらの手は、まるで生き物のように動き、彼を賭博の世界へと引きずり込もうとした。

「もっと賭けろ」「失うものはない」と耳元で囁かれ、その声はどこまでも続くようだった。目が覚めた時、橘は冷や汗で全身が濡れていた。


 彼は、ベッドから起き上がり、夜の静けさの中で深い息をついた。

「これはただの酒の影響じゃない。」

 橘は確信した。

「何か別の力が働いている。」


 橘は、まだ夢の余韻に浸っていたが、決意を確かめるようにつぶやいた。

「なら、俺たちはこの賭場の闇を照らす灯りになるさ。康介を、そしてあの場所にいる人々を救うために。」


 薬物だけでは声の説明がつかないと感じた橘と伊達は、賭場の過去を調べ始めた。すると、数年前、この建物がかつては豪商の邸宅だったことがわかった。


 豪商は莫大な借金を抱え、絶望のあまり酒を大量に飲んだ後、屋敷で焼身自殺を図ったという。さらに、その時に使われたのが、このカクテルに似た赤いリキュールだった。


「その血のようなリキュールに、何かが宿ったのか……?」

 橘は不安げに言った。


7.

 橘と伊達は夜の静寂が訪れる頃、再び「緋色会」の扉を叩いた。今度は表の賭場ではなく、裏部屋への侵入を試みるためだった。賭場の喧騒を背にしつつ、二人はその秘密を暴くため、慎重に足を進めた。テーブルの下や壁の飾りが偽装された扉を探し、ついにそれを見つけた。


 隠された扉から続く狭い通路は、まるで別の世界へと誘う道のようだった。通路を進むと、怪しげな香りが鼻をついた。香水と薬草、それに何か不思議な化学物質の匂いが混ざり合っていた。


 奥の部屋に到着すると、そこには痩せた一人の男がいた。彼は調香師のような服装をしており、目の前には数々の瓶や試験管、そして調合用の器具が並んでいた。男は突然の訪問者に驚いた様子もなく、橘と伊達を見つめながら口を開いた。


「君たち、何者だ?」

 男の声は冷たく、探るような響きがあった。


「緋色のカクテルの秘密を暴きに来た。」

 伊達が冷たく言い放つと、男は静かに笑った。その笑みには、自信がにじんでいた。


「君たちもカクテルの虜になった口か?」

 男の言葉には、挑発的な響きが含まれていた。


 男は、自分が何をしているのかを語り始めた。カクテルに使われる赤いリキュールには、数十年前にこの場所で焼身自殺を図った豪商の「未練」が宿っているという。それはただのリキュールではなく、豪商の残した怨念や後悔が物理的な形を取ったものだと。


「私は、このリキュールに特別な成分を加えた。精神を揺さぶり、依存させる力がある。豪商の未練が、飲む者の心を操る。そして、賭博に溺れさせる。」

 男は、まるで芸術家が自分の作品を讃えるかのような口調で続けた。

「これは、科学と魔術、そして人間の欲望が交錯する最高の調合だ。」


 橘は、彼の言葉に思わず笑みを浮かべる。

「なるほど、そういうトリックか。しかし、そんな方法で人を操るなんて、卑怯じゃないか?」


 男は、肩を竦めながら

「人々は、自らの欲望に従って動く。私はただ、その道を示しただけだ。私の名は赤沢。覚えておくがいい。」

 と言い、話が終わるか終わらないかのうちに、机の下から何かを取り出し、煙幕を張って逃走をはかった。


 煙はたちまち部屋を覆い、橘と伊達の視界を奪った。二人は咳き込みながらも、赤沢の逃走を止めようとするが、彼はすでに部屋を出た後だった。


「くそっ、逃げられたか!」

 橘が叫ぶ。


 しかし、二人はすぐに状況を把握しなおし部屋を見回した。裏部屋には、赤沢が残した重要な証拠が無造作に置かれていた。棚には、緋色倶楽部の裏で行われていた不正と薬物の取引に関する資料が保管されていた。


 帳簿には、会員の名前、取引の詳細、そしてリキュールの製造方法や成分までが記されていた。これが警察に渡れば、緋色会の闇を白日の下に晒すことができるだろう。


8.

 しばらく後、依頼人の息子、本多康介は以前の穏やかな生活を取り戻していた。

「本当に助かりました。」

 依頼人が深々と頭を下げると、橘は苦笑しながら言った。

「まぁ、もう呪いのカクテルは無いけれど、ギャンブルはほどほどにと康介くんにお伝え下さい。」

 自分でもどの口がとは分かっている。


 伊達は、静かに言葉を添えた。

「人を狂わせるのは呪いではない。欲望だ。」


 その夜、橘と伊達は、落ち着いた雰囲気のバーで一息ついていた。静かなジャズの旋律が流れ、グラス越しに見る夜景は、東京の華やかさと静寂を同時に映し出していた。


「結局あの声は豪商の呪いだったのか?」

 橘が尋ね、伊達は、冷静に考察する。

「おそらく、破産して焼身自殺したとの噂が原因だろう。心理的な暗示が、声という形で現れたのだ。橘の場合は、支配人から聞いた話が暗示になったのであろう。」


「ロマンがないねぇ。」

 橘は、少し残念そうに笑った。


 伊達は、ムッとした顔で、ボーイに何かを囁いた。しばらく後、赤い色が印象的なブラッディマリーが二人の前に運ばれてきた。


 それを見て、橘は笑い、

「案外、性格悪いな。」

 と言ったがその目には愉快そうな光が宿っていた。


 二人は、グラスを合わせ、科学と魔術、そして人間の深淵に挑む旅の次の章を予感しながら、静かに乾杯した。


挿絵(By みてみん)

【登場人物紹介】

伊達政弘

明治26年(1893年)3月9日生まれA型


理学部教授として東京帝国大学で教鞭をとる若き学者。生真面目で寡黙、理論を重んじる性格の持ち主で、幼少期から名門家系としての教育を受けて育ったため、礼儀作法や古典文化にも通じているが、学問一筋の道を選んだ。


橘薫の元家庭教師でもあり、彼の奔放な性格には多少手を焼いているものの、最終的には友人とも言える関係を築く。


弟1人あり。

東京帝国大学理学部卒業、同大学院修了。

趣味は乗馬。空手が黒帯。

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