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300年後に目覚めたら女魔王に世話されてて動揺が隠せない勇者の話

作者: 佐久矢この


エドワードが目を開けた時、最初に感じたのは体を包み込む柔らかな感触だった。重力を忘れるようなふかふかのベッド。頭の下にはほどよく弾力のある枕があり、体の上には軽いが暖かい毛布がかかっている。


「…ここは…?」


彼はぼんやりと呟きながら、天井を見上げた。石造りの美しいアーチ天井には、月明かりが薄く差し込んでいる。


ベッドから漂う花のような優しい香りに、彼はさらに混乱した。


「俺、死んだのか…?」


妙にかすれた声だ。

だが、記憶が徐々に蘇るにつれ、彼はベッドの上で急に跳ね起きた。


「待て、確か…魔神と…!」

慌てて体を動かそうとするが、全身に鈍い重さを感じた。


「おい…なんで俺、こんなに体が動かないんだ?」


呟きながらベッドに座り直そうとするも、柔らかすぎるマットレスに足を取られ、再び背中から沈み込んでしまう。


「このベッド、柔らかすぎるだろ…!」


エドワードは苦笑いを浮かべながら、体勢を整えようともがいていた。

テントが寝床の魔神を倒す旅に慣れた体には、違和感この上無い。


その時、部屋のドアが静かに開いた。


「目が覚めたのね」


涼やかな声が部屋に響いた。黒髪を揺らしながら現れたのはリリス。彼女の手には温かそうなスープのトレイが載せられている。


「お前…リリス!?」


エドワードは目を見開きながら叫んだ。


リリスはため息をつき、トレイをテーブルに置くと彼の方をじっと見つめた。


「そんなに驚かないで。ここは私の城。300年の眠りはどうだった?勇者様」

「300年…?」


エドワードは呆然としながらベッドの上で固まった。


「そう、あなたは300年の間ずっと眠っていたの」


リリスは肩をすくめながら言った。


「その体の鈍さを感じているなら、説明するまでもないでしょう?」

「でも、なんで俺がこんな……というより、俺は魔神を倒すための魔法陣を作っていて……」


はっと起き上がったエドワードは、べしゃりとまた布団に突っ伏したのも気にせずに精一杯の声を出した。


「魔王!お前、裏切ったな!」


リリスは少しだけ微笑みを浮かべた。


「お前、何のつもりだ。こんな…」

「監禁よ。魔王らしいでしょう?勇者を裏切って監禁」

「お前……」


エドワードは苦々しげに呟きながら、ベッドかは降りようとする。

しかし、足元を取られ、ずるりと座り込んでしまった。


「ふっ」


リリスが小さく笑い声を漏らした。


「笑うなよ!」


エドワードは恥ずかしさを隠すように叫んだが、リリスは余裕たっぷりの表情を崩さない。


「300年も寝ていたんだから、体が鈍るのは当然よ。いくら勇者だって、すぐに動けるわけないでしょう?」


リリスは冷静な口調で言いながら、ベッドの端に腰を下ろした。


「お前、馬鹿にしてるだろう」


エドワードは不満げに言いながら、ようやく体を起こした。


「いいえ、ただ事実を述べているだけ。それにしても、ふかふかのベッドがお気に召さないなら、石の床で寝直す?」


リリスの挑発的な微笑みに、エドワードはきっと睨みつける。

リリスは肩をすくめるように、冷たく言い放った。


「とりあえず落ち着きなさい。もし私があなたの命を奪うつもりなら、とっくにそうしているわ」


その言葉に余裕さえ感じられる。だがエドワードにはそれが癇に障った。


「なら、何のつもりだ?なぜ俺をこんなところに閉じ込めた!」


苛立ちを隠そうともせず、彼は怒りに任せて問い詰めた。


リリスは一瞬だけ瞳を伏せた。彼女が答えを探しているように見える沈黙が流れる。そして、静かに口を開いた。


「…話せばきっと、もっと怒るわね。でも、まだその時じゃないの」


その言葉は、核心を避けるようでありながら、確かな決意も感じさせた。


「ふざけるな!俺はお前を信じて…!」


エドワードの言葉が怒りと共に喉から漏れる。その途中で声が詰まり、彼自身もそれ以上何も言えなくなった。


リリスは悲しげな表情を一瞬だけ浮かべたが、それを隠すように顔を背けた。そして冷たい態度のまま、静かに立ち上がった。


「あなたが今は何も信じられないのも当然よ」


エドワードは体を動かそうと、再び床に手をついた。拳を握りしめ、全身の力を込めて立ち上がろうとする。しかし、膝が震え、足がふらついた。その場を離れようと一歩を踏み出した瞬間、力が抜けた体は無情にも床に崩れ落ちる。


「くそ…!」


彼の怒声が暗い部屋に響く。


そんな彼を見下ろしながら、リリスが小さく笑みを浮かべた。


「そう。あなたは300年眠っていたの。魔神の封印を維持するために」


リリスの声にはどこか冷静な響きがありながら、深い悲しみの色も混ざっていた。


「封印?あの陣はどうなったんだ?」

「あの陣は未完成だったの。とりあえず貴方を媒介として魔神を封印する陣に切り替えたわ」


リリスはゆっくりとその場に膝をつき、彼の顔をじっと見つめた。


「その魔神の封印はもう限界よ。そして…世界もまた、新たな破滅に向かおうとしている」


その言葉に、エドワードは拳を握りしめたまま、彼女の瞳を見返した。


「…お前を信じる理由がどこにある?」


リリスはその問いに答えることなく、立ち上がった。


「いずれ、すべてを話す時が来るわ。でも今は休んで。あなたに回復してもらわないと困るのよ」


彼女の背中が暗闇に溶けていくのを見送りながら、エドワードは胸の中に渦巻く疑念と怒りを抱えたまま、動けずにいた。






赤い空に響く戦場の音。剣が交わる鋭い音と、兵士たちの叫びが空気を切り裂いていた。その中心、エドワードは剣を振り下ろし、目の前に立ちはだかる黒髪の女と対峙していた。


「これ以上、魔族を進ませるわけにはいかない!」


エドワードは息を切らしながら剣を構える。その前に立つのは、黒い鎧を纏った女――魔王リリスだった。彼女の瞳には冷たい光が宿り、その手に握られた槍が月光を反射している。


「人間の勇者、エドワード。あなたの力、確かに噂通りね」


リリスの声は冷静で、敵意に満ちていた。


エドワードは剣を構え直し、睨みつける。


「お前さえ倒せば、この戦争は終わる…!」


剣が放たれ、リリスの槍が受け止める。火花が散り、二人の力が均衡する中、リリスが静かに言葉を紡いだ。


「…戦争は終わらないわ。私たちの戦いの背後で、滅びの魔神がすべてを操っている限り」


エドワードは眉をひそめ、その言葉に戸惑いを隠せなかった。


「何を言っている…?」


リリスは剣を払いのけ、槍を地面に突き立てた。


「あなたがどれほど強くても、魔神の力には勝てない。それは私も同じ」

「…お前がそれを知っているなら、なぜ戦う」


リリスは彼の問いに冷たく答えた。


「戦わなければ、私の民も人間も全滅するからよ。でも、もう分かっている。私たちが戦うだけでは、魔神を止めることはできない」


その言葉に、一瞬の沈黙が生まれる。


「では…どうするつもりだ?」


エドワードが静かに問うと、リリスは深く息をつき、彼を見据えた。


「私たちが手を組むしかない。それ以外に方法はないわ」





そうして、魔神を封印するための旅は始まった。


ある夜、二人は魔神の封印に必要な古代の遺跡へ向かう途中、森の中で野営をしていた。焚き火の炎がゆらゆらと揺れ、星空が二人を見下ろしている。


エドワードは薪をくべながらふと呟いた。


「不思議なものだな。お前みたいな奴と、こうして同じ星を見ているなんて」


リリスは微笑みを浮かべた。


「敵同士が協力するなんて、皮肉なものね。でも…悪くないわ」


その言葉にエドワードは驚き、少し照れたように笑った。


「お前にも、そういうことを言う感情があるんだな」

「感情くらいあるわよ。ただ、表に出さないだけ」


リリスは焚き火をつつきながら答えた。


エドワードはしばらく星を見上げた後、静かに言葉を続けた。


「お前のこと、少し分かってきた気がする。最初は冷たい奴だと思ったけど…本当は優しいんだな」


リリスは一瞬目を丸くしたが、すぐに照れ隠しに笑みを浮かべた。


「その勘違い、直しておいた方がいいわよ」


焚き火の音だけが響く中、二人の間に穏やかな空気が流れる。星空が彼らを静かに見守っていた。




ついに魔神の封印の儀式を行う時が訪れた。

陣が描かれ、リリスがその中心に立ち、呪文を唱え始める。地面には複雑な模様が光を放ち、エドワードの足元に三角形の陣、リリスの足元に円形の陣が浮かび上がった。


「これで…すべてが終わる」


エドワードが剣を握りしめ、陣の完成を待つ中、リリスの表情が一変した。


「何をしている…リリス!」


突然、陣の展開が止まり、リリスがエドワードに向き直る。その瞳には、悲しみと決意が宿っていた。


「…ごめんなさい、エドワード」


リリスは低く呪文を唱え始める。その言葉の意味を理解した瞬間、エドワードの体に眠りの魔法がかかり始めた。


「裏切ったのか…!」


エドワードは剣を握る手に力を込めたが、徐々に瞼が重くなり、体が動かなくなる。


「あなたを裏切るつもりはなかった。でも…こうするしかなかったの」

「リリス…!」


怒りと失望が入り混じる声を上げながら、エドワードの体はぐらりと傾き、やがてその目は閉じられた。


陣がゆっくりと輝きを失っていく。

リリスはその場に膝をつき、小さく呟いた。


「勇者といっても…わたしよりは弱いのね…」





次の日、廊下をほとんど壁にもたれかかるようにして歩いていたエドワードは、冷たい石の床に倒れ込んだ。立ち上がろうとするたびに膝を崩し、苛立ちを隠せなかった。


「くそっ…!」


体に力が入らない。必死に支えようとするが腕が震えて壁にさえ掴まれない。


「だから言ったでしょ。300年も眠っていたんだもの、歩けるはずがないわ」


背後から聞こえてきたのは、涼やかで冷静な声だった。


振り返ると、リリスが軽く腰に手を当てながら立っていた。その瞳には少し呆れた色が浮かんでいる。


「お前のせいだろうが…!」


エドワードは歯を食いしばりながら言い返す。


「ええ、そうね。でも、今はそんなことを言っている場合じゃないでしょ」


リリスはため息をつき、彼に歩み寄った。


「何を――」


そう言い終わる前に、彼女は腕を伸ばし、容赦なく彼を支えた。リリスの冷たい手が彼の肩をしっかりと掴み、崩れ落ちそうな体を支える。


「魔王が勇者を支えるなんてな」


エドワードは皮肉を込めて言った。


「まあ、放っておいたら這いずり回る羽目になるでしょうし。それを見て笑うのも面白そうだけど…」


リリスは軽く微笑む。


「私がつき合う義理はないのよ」

「だったら放っとけよ」


エドワードが言い返すと、リリスは彼を支えたまま肩をすくめた。


「意外と重いのね。勇者ならもう少し軽やかかと思ったわ」

「お前が勝手に眠らせておいたくせに…」


エドワードは言いながら顔をしかめた。


「文句は後で聞くわ。それより、せめて部屋まで歩けるようになりなさい」


リリスは彼の片腕を自分の肩に回し、強引に歩かせる。


エドワードは力の入らない足を動かしながら、言葉を吐き捨てた。


「お前に手を借りるなんて屈辱だ」

「その屈辱をかみしめながら歩きなさい。次に自分で歩けるようになる頃には、プライドも少しは磨り減るんじゃない?」

「黙れ、魔王」


ようやく寝室にたどり着くと、ようやく部屋までたどり着くと、リリスはエドワードをベッドの端に座らせた。


ベッドの隣に置かれた小さなテーブルの上に、部屋を出る時にはなかった湯気を立てるスープの器とパンが置かれている。


「ほら、これで一息つけるでしょ?」


リリスは微かに笑みを浮かべながら、テーブルに置いてあった水差しを取る。

エドワードはその笑みに苛立ちながら、渋々水を受け取った。


「こんな親切な魔王は初めて見た」

「そうかしら?あなたが私に出会う前に会った魔王たちよりは、ずっと人道的よ」


リリスはそう言って肩をすくめた。


「その『人道的』ってやつが300年の眠りか。ありがたい話だな」


エドワードは皮肉を込めて言い返す。


リリスは冷静な声で切り返した。


「300年の間、魔神の脅威もなく世界が平和だったんだから感謝してほしいものね。それに、あなたを起こすのも簡単じゃなかったのよ」

「どうせ、お前が俺を生け贄にしようとした結果だろ」

「そうね。でも、生け贄じゃないわ。媒介にしたのよ」


彼女の言葉には、ほんの少しだけ寂しげな響きがあった。

エドワードはその言葉に少し戸惑いを感じながらも、素直に反応できなかった。


「…どうせまたお前の都合だろ」

「そうかもね。でも、今はその都合に従ってもらうわ」

「俺はお前の計画には乗らない。回復したらすぐここを出る」


リリスは少し微笑みながら、目を細めて彼を見た。


「そう。それなら、早く回復してちょうだい。あなたが元気になるのを手伝うのも、結構楽しいものね」


その言葉に、エドワードは小さく舌打ちをしたが、顔にはほんのわずかな苦笑が浮かんでいた。


エドワードは城の窓から外を眺めた。霧が山々を包み込み、どこまでも続く静けさが広がっている。ここは人里離れた山奥の城。リリスが結界を張り巡らせたことで、誰も入ることも、出ることもできない場所だ。


「こんなところに閉じ込められて、何をしろというんだ」


エドワードは苛立ちを込めて呟く。


「ここにいれば、あなたは安全よ。それだけで十分」


エドワードは振り返り、冷たい視線を向けた。


「安全だと?俺は檻に閉じ込められているだけだろう」


リリスは彼の言葉に動じることなく、静かに答えた。


「檻だと思うのはあなたの自由。でも、ここで力を取り戻さなければ、何も変わらないわ」

「それで、300年間何をしていたんだ?お前は」


リリスは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに冷静さを取り戻し、視線を逸らした。


「生きていただけよ」


その言葉の裏に何かを感じたエドワードだったが、深く追及する気にはなれなかった。ただ、彼女の静かな姿を見つめながら、胸の中に新たな疑念が生まれた。


「無理しないで。あなた、まだまともに歩くどころか、座ることすら辛いでしょう」


リリスはため息をつき、ベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろした。


「…そのスープ、俺に食べろってことか?」


エドワードは視線でスープを指しながら、挑むように言う。


「当然よ。でも、今のあなたにはそれすら難しいでしょうから、特別に魔王様が手伝ってあげるわ」

「冗談だろう?」


エドワードは顔をしかめたが、リリスは微笑を浮かべたままだ。


リリスはスープの器を取り、スプーンをゆっくりとスープに浸した。淡い湯気が立ち上り、部屋にほのかな香りが漂う。


「ほら、口を開けて」


スプーンをエドワードの口元に差し出すリリス。その仕草は驚くほど丁寧だった。


「こんなことをされるぐらいなら、俺は自分で――」


そう言おうとして腕を上げるが、途端に力尽きてベッドに崩れ落ちる。


「見たところ、それは無理そうね」


リリスは肩をすくめ、再びスプーンを差し出した。


「ほら、素直に食べなさい」


渋々口を開けたエドワードは、一口スープを飲み込む。その瞬間、彼の眉がわずかに上がった。


「…うまいな」


彼の率直な感想に、リリスは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。


「当然よ。料理には少しだけ自信があるの」


スプーンを器に戻しながら、次の一口をすくう。


「魔王が料理を作るとは思わなかった」


エドワードが皮肉を込めて言うと、リリスは冷たい目で見下ろした。


「魔王にも食事は必要なの。魔力の力の源よ。にしてもあなた、まったく毒を疑わないのね。不用心じゃない?」


その言葉には冗談めいた響きがありながらも、どこか本気の色が混じっていた。


「お前のそういうところが信用できないんだ」


エドワードは小さく鼻を鳴らしてから、魔王からスプーンを奪い取った。


「お前、本当に魔王か?こうして世話をしていると、ただの世話好きに見えるぞ」


エドワードがスープを飲み干しながら言う。


「あなたがまともに動けるようになったら、こんなこと二度としないわ」


リリスは器をテーブルに戻しながら言い放つ。


「そうか。それなら早く体力を戻すのが得策だな」


エドワードはベッドに深く体を預けながら、静かに息をついた。


「そうしてくれると助かるわ。いつまでもあなたの介護をしているほど暇じゃないの」


エドワードは小さく笑みを浮かべた。


「お前、案外こういうの嫌いじゃないんじゃないか?」


リリスは彼の言葉に目を細め、冷たく言い放った。


「そんなことあるわけないでしょう。でも…不思議と悪くないとも思うわ」


その言葉に、エドワードは少しだけ表情を和らげた。





広間の窓から差し込む朝日が石造りの壁を照らし、薄暗い部屋の中に明るさを広げていた。ベッドに横たわっていたエドワードが、ゆっくりと体を起こす。数日前には立ち上がることすらできなかったはずなのに、今ではその動きに力強さが戻っている。


「…やけに体が軽いな」


自分の腕を動かし、ぎこちなかった体が驚くほどスムーズに動くことに気づく。彼はベッドから足を下ろし、床に立つ。少しふらつきながらも、しっかりと足に力が入っている。


その様子を見ていたリリスが、扉の向こうからひょいと顔を出した。


「もう歩けるのね。随分と早い回復じゃない」

「お前、俺に回復魔法を使ったんじゃないか?」


エドワードはリリスを睨みながら問う。

リリスは小さく笑い、肩をすくめた。


「どうしてそんなことする必要があるの?」


その言葉に、エドワードはさらに目を細める。


「だって、この体の回復具合が普通じゃないだろ」

「300年寝ていたんだから、少し体を動かしただけでも元に戻るのかもしれないわね。…あなた、勇者なんでしょ?」


リリスは皮肉っぽく微笑みながら、彼の言葉を軽く受け流す。


エドワードは口を引き結びながらも、それ以上追及はしなかった。


「まあいい。とにかく、これなら外に出られそうだ」


広間のテーブルにリリスが姿を現したとき、彼女の手には一本の剣が握られていた。それはシンプルで実用的な剣で、エドワードがかつて戦場で使っていたようなものに似ていた。


「これを使って、少し運動でもしてみたら?」


リリスはエドワードに剣を差し出す。


「剣を渡していいのかよ」


エドワードは半笑いを浮かべながら、リリスの顔を覗き込んだ。


リリスは冷静に言い放つ。


「今のあなたにやられる気はしないわよ」


その言葉に、エドワードは肩をすくめて剣を受け取った。


「それでも、あまり油断しないことだな」


リリスは少し眉を上げ、余裕のある微笑みを浮かべた。


「油断する必要がどこにあるの?剣の握り方を忘れかけた勇者に負けるとは思えないけれど」


エドワードはその言葉にカッと反応し、剣を軽く振ってみせる。


「試してみるか?」

「やめておくわ。私が相手をするまでもないでしょうし、それに…まだその剣を振り回す元気があるかどうか確認してからね」


リリスは涼しい顔で彼を見つめた。





エドワードは広間の中央に立ち、剣を握り直した。鈍っていた感覚を取り戻すために、ゆっくりと剣を振り始める。彼の動きにはまだぎこちなさが残っているものの、徐々に力強さと鋭さを取り戻していく。


リリスは壁際に立ちながら、腕を組んでその様子を見ていた。

その首筋に、鋭く動いた勇者の剣先が触れた。

首に剣を向けられたというのに、リリスは一歩も動かず、表情すら変えなかった。


「少しは動けるようになったじゃない」

「お前、魔王のくせに意外と親切だな」


エドワードは息を整えながら言う。


「親切だと思うなら、その剣を振るのをもう少し丁寧にしたら?」


リリスの言葉には皮肉が混じっていたが、どこか楽しげでもあった。

エドワードは軽く息を吐き、剣を振る動きを止めた。


「お前、俺がここを出るのを待ってるんだろう?」

「そうね。でも、今のあなたじゃすぐに力尽きて戻ってくるのが目に見えているわ。だから、もう少し準備していくことね」


リリスは優雅に笑みを浮かべた。

エドワードはその笑顔を見て一瞬戸惑ったが、すぐに顔を引き締めた。


「俺は戻るつもりはないからな」

「それならいいわ。私の手間も省けるし」


リリスは軽く肩をすくめ、その場を去った。


エドワードは彼女の背中を見送りながら、剣を握り直し、深く息を吐いた。


「やっぱり、あいつは何を考えているのかわからないな…」


冷たい風が古い石造りの城の廊下を吹き抜ける。その音が静寂を切り裂き、どこか寂しさを漂わせていた。


エドワードは、広い廊下を歩きながら窓の外を見た。窓から見えるのは深い山々の景色。人里離れたこの場所が、彼にとって檻であることを示している。


「ここが…俺のいる場所か」


彼の呟きは、石壁に吸い込まれていった。






静かな庭に剣の音が響く。エドワードは息を荒げながら剣を振り続けていた。その鋭い振り下ろしが何かを切り裂く音がした。だが、次の瞬間――。


「くそっ!」


彼の手から赤い血が滴り落ちた。慣れた剣が指を滑り、柄の部分で手のひらを切ってしまったのだ。


「情けない…」


エドワードは自嘲気味に呟きながら手を押さえ、傷口を確認する。


そこにひんやりとした風を連れてリリスが現れる。いつものように冷静な表情だが、その紫の瞳には少し心配そうな色が浮かんでいた。


「そのままにしておくと悪化するわ。貸しなさい」

「放っておいてくれ」


エドワードは苛立ちを込めて背を向ける。


だが、リリスはため息をつき、強引に彼の手を掴んだ。


「私が用意した剣を使ったのよ。その責任は取るわ」


冷たい指が傷口に触れる。その感触にエドワードは一瞬驚いたが、言葉を飲み込んだ。リリスの指先が滑らかに動き、治癒魔法が淡い光となって傷口を包み込む。


「…冷たいな」


エドワードはぼそりと呟いた。


「魔族は体温が低いのよ。今更気づいたの?」


リリスは淡々と答えたが、その声にはどこか柔らかさがあった。


傷が完全に癒えると、彼女はふっと手を離し、横顔を見せたまま言った。


「これでいいわね」


エドワードは彼女の顔をじっと見つめた後、口を開いた。


「お前にも…そんな優しいところがあったんだな」


リリスは目を丸くしたが、すぐに焚き火をつつくような仕草で手元を直し、言った。


「勘違いしないで。ただの義務よ」


その言葉とは裏腹に、彼女の耳元が少し赤く染まっているのをエドワードは見逃さなかった。





広間のテーブルの上に置かれた朝食。パンとスープが静かに湯気を立てている。その横でリリスはどうやって調達しているのか分からない新聞を広げていた。


エドワードは不審そうに問いかけた。


「お前は食べないのか?」


リリスは新聞から目を離さず、淡々と答えた。


「あなたが起きるのが遅いから、先に食べたわよ。勇者というよりは眠り姫ね」

「こんなところで寝ていられるのも久しぶりだ。誰かさんが300年前に暴れ回ってくれたおかげで」


リリスは新聞をパタンと畳み、エドワードをじっと見つめた。


「その分、あなたは300年眠ったじゃないの」

「その原因を作ったのは誰だと?」


二人の間に短い沈黙が流れるが、リリスは微笑みを浮かべる。


「それで、スープの味はどう?」


エドワードはスプーンを取り、一口飲んだ。


「…悪くない」


リリスは微かに口元を緩めながら、「当然よ。料理は得意だから」とだけ言った。


その穏やかな瞬間にも、二人の間にはまだ乗り越えるべき距離が横たわっていた。






城内はすっかり静まり返り、夜の闇が全てを包み込んでいた。


エドワードは寝付けずに散歩がてら薄暗い廊下を歩いていたが、ふと耳を澄ました。どこからか、静かで柔らかなソプラノが聞こえてくる。


「…歌?」


思わず足を止め、音のする方へと歩き出した。声の主が誰かを考えるまでもなく、すぐに分かった。リリスだ。だが、彼女が歌っているなど想像もつかなかった。


声のする執務室の扉が少しだけ開いており、隙間から明かりが漏れている。エドワードはそっと覗き込んだ。


そこには机に向かいながら、書類に目を通しているリリスの姿があった。普段の冷静で厳しい表情とは違い、どこか穏やかで静かな雰囲気を纏っていた。彼女の口から紡がれる歌声は低く優しく、彼女が魔王であることを忘れさせるような美しさがあった。


「星の光に 眠りよ届け

月が優しく お前を包む

夢の中では 小鳥が歌う

お前の幸せ いつまでも」


その旋律は単純で、まるで子供をあやすような調子だった。エドワードはその歌声に聞き入るうちに、扉を開けるタイミングを失ったまま立ち尽くしていた。


「…いつまでそこで聞いているつもり?」


不意に歌声が止まり、リリスの視線がこちらに向いた。


「あ…悪い」


エドワードは少し慌てながら扉を押し開けた。


「お前が歌うなんて思わなくて、つい聞き惚れてた」


リリスは机から顔を上げ、腕を組みながら少し呆れた表情を浮かべた。


「魔王が歌うのは変かしら?」

「正直、変だな。お前がそんな柔らかい声を出せるなんて、思ってもみなかった」


エドワードは素直に答えながら、執務室の中に足を踏み入れた。


「これはただの古い子守唄よ。母親が子供を寝かしつける時に歌うものだって聞いたわ」


リリスは視線を窓に向けながら言った。


「お前の母親が歌ってくれたのか?」


エドワードが問いかけると、リリスは少しだけ沈黙した後、小さく首を横に振った。


「私は母親の顔を知らないの」


リリスの言葉にはどこか遠い響きがあった。


「生まれた時から父の元で育てられたけれど、彼も私と会うことがなかったわ。わたしはただの後継ぎ。魔王の役目を継がせる、それが全てだったから」

「父親と会ったことがないのか?」


エドワードは意外そうに尋ねる。


「一度だけあるわ。魔王の引き継ぎの儀式の時に」


リリスは淡々と答える。


「彼からは“魔王として必要な力”だけを与えられた。彼にとって私は娘ではなく、次の魔王だったのよ」

「…ずいぶん冷たい家族だな」


エドワードの言葉には少し怒りが混じっていた、

それをリリスは涼しく流す。


「さあ。人間の普通の家族が分からないから、あなたが今どんな風に思っているのか分からないわ。父母に会えなかったことより、そのほうが悲しいかもしれないわね」

「え?」

「わたしたち、同じ敵と戦った戦友じゃないの」


リリスはにやりと笑った。それは妙に艶かしい。


「あなたのご家族は?」

「大家族だったよ。弟と妹がたくさんいた。……もうみんなこの世界にいないだろうな」

「……そうね」

「お前は、家族と会いたいと思わないのか?」


リリスは首を傾げながら、うーんと考える素振りをした。

夜着の間から、やはり美しいカーブが見えている。


勇者が必死にそこから目をそらそうとしているのを目線だ感じながら、ふふと笑った。


「魔族にとっては、それが普通よ。感情に流されることは、役目を果たす上で邪魔になるから」


リリスは冷静に言い切ったが、その表情にはわずかな寂しさが浮かんでいた。


「でも、この歌はどうやって知ったんだ?」


エドワードは尋ねた。


「宰相が教えてくれたのよ。魔族にも、親が子にこうして歌を歌ってあげる習慣があるのだと」


リリスは小さく微笑みながら続けた。


「その話を聞いて、私も覚えてみたの。誰かに歌うためではなく、ただ…なんとなくね」

「それで、あの優しい歌声か。お前にもそんな一面があったんだな」


エドワードは少し驚いたように笑った。


「あなた、からかっているの?」


リリスが軽く睨むように言うが、エドワードは首を振った。


「いや、本当にいい声だったと思う」

「そう」


リリスは短く答えたが、その頬がほんの少し赤く染まっているのにエドワードは気づいた。


「それにしても、お前がこんなに感傷的なことをするなんて、ちょっと驚きだ」


エドワードは軽口を叩きながら椅子に座る。


「魔族にも感情はあるわ。ただ、それを表に出すことが少ないだけよ」


リリスは窓の外を見つめながら答える。


「ああ。そうだった。そう言っていたものな。じゃあ、その歌はお前の感情を出してるってことか?」


エドワードの問いに、リリスはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと振り返る。


「…そんなつもりはないわ。ただ、歌うと少しだけ気が紛れるだけ」


彼女の声は静かだったが、どこか真実を隠しているようにも聞こえた。


エドワードはそれ以上言葉を挟まず、ただリリスの横顔を見つめていた。






エドワードが城内の廊下を歩いていると、上の階から軽い足音と共に、かすかな物音が聞こえた。


顔を上げた瞬間、階段の上でバランスを崩したリリスが足を滑らせ、そのまま階段から落ちてきた。


「おい、危ない!」


叫び声を上げる間もなく、エドワードは剣を放り投げて走り出し、両腕を広げて彼女を受け止めた。予想以上の勢いに、強い衝撃が全身を走る。


「おい、大丈夫か?」


腕の中のリリスを見下ろしながら、エドワードは息を整える。彼女の黒髪がふわりと揺れ、驚いたように閉じていた瞳がゆっくりと開いた。


リリスは冷静を装いながら、「問題ないわ。ただ少し足を滑らせただけ」と呟いた。


しかし、エドワードは腕の中にいる彼女の体の軽さに目を見張る。


「お前、本当に軽いな…」


彼は無意識にそう口にしてしまい、リリスが少し眉をひそめた。


「魔族の体は人間より効率的なのよ。余計な脂肪が少ないだけ」


冷静に返す彼女の言葉には、自信が込められている。


だが、エドワードはなおも疑念を抱いた様子で彼女を見つめた。


「いや、いくらなんでも軽すぎるだろ。お前…本当に魔王なのか?」

「何を言っているの?」


リリスはその言葉に怒りを感じたのか、少し険しい表情を見せる。


「いや、最近お前、階段で滑るわ転ぶわ、随分と弱くなったんじゃないかと思ってな」


エドワードは軽い冗談のつもりで言ったが、その言葉にリリスの表情が一瞬固まる。


「弱くなった…?」


リリスは彼をじっと見つめ、少しだけ唇を噛んだ。


「私は魔王よ。弱くなったと思うなら、試してみる?」


エドワードはその視線にたじろぎながらも、「いや、別にそういう意味じゃない。ただ…お前、本当に大丈夫なのか?」と問い返した。


その言葉に、リリスは一瞬だけ目を伏せた。だが、すぐに顔を上げ、冷静な口調で答える。


「魔王が弱くなるわけないでしょう。ただ、この城であなたと過ごす間に、少し気が緩んだだけよ」

「気が緩んだ魔王ってのも珍しいな」


エドワードは苦笑いを浮かべながら彼女をそっと地面に下ろした。


リリスは服の乱れを整えながら、静かに彼を睨んだ。


「次に同じことを言ったら、あなたの方を階段から落としてあげるわ」

「それでも俺が受け止めることになりそうだな」


エドワードはからかうように言ったが、その目はどこか真剣だった。


リリスはため息をつきながら立ち上がり、エドワードを見上げた。


「あなた、本当に余計なことばかり考えるのね」

「いや…その格好で転んできたら、余計なことを考えない方が無理だろ」


エドワードは目を逸らしながら言った。

眠る前だったのか、リリスは薄い夜着姿で、細い体には似つかわしくないふっくらと柔らかそうな胸の谷間が見えている。


「何のこと?」


リリスが不思議そうに問い返すと、エドワードはさらに視線をそらし、軽く咳払いをした。


「いや、別に。お前が魔王だってことを忘れそうになっただけだ」


そう言う彼の耳元が赤く染まっていることに、リリスは気づいた。

リリスは少しだけ微笑みを浮かべ、軽く髪を直しながら答えた。


「忘れてくれても構わないわ。むしろ…それも悪くないかもしれない」

「お前、何を言ってるんだ?」


エドワードが問い返すと、リリスは優雅にくるりそと背を向けた。


「弱くなったかどうか、あなたが試す勇気があるなら、いつでも受けてあげるわ」


その声には誇りと余裕が混じっていた。


「…やっぱりお前は分からないやつだ」


エドワードは剣を拾い上げ、小さく呟いた。その胸の奥で、妙な高鳴りが続いていることに気づかないふりをしながら。






夜の庭園は静寂に包まれ、星々が冷たく輝いていた。エドワードは剣を振り終え、空を見上げていた。


その背後に、リリスが静かに現れる。


「まだ訓練していたの?」

「ああ、寝る気になれなくてな」


リリスも空を見上げる。


「…星が綺麗ね」


エドワードはその横顔を見つめ、「300年経ったなら、俺の知り合いはもう一人もいないだろうな」と呟いた。


リリスは一瞬表情を曇らせたが、静かに答えた。


「人の寿命は短いものね」

「魔族はどれくらい生きるんだ?」

「長生きして5000年くらいかしら」

「…お前はいくつなんだ」


リリスは少し照れたように微笑んだ。


「レディに年を聞かないで」


二人はしばらく星を見つめ続け、エドワードはその瞬間だけ心が軽くなったように感じた。






朝日が差し込む城の広間で、エドワードはテーブルに広げられた新聞を読みながら、無意識に拳を握りしめていた。


記事には「人間と魔族の間で高まる緊張」「新たな戦争の危機」といった見出しが踊っている。


「またかよ…」


エドワードの低い声が静寂を破る。


リリスが部屋に入ってきた。手には紅茶のカップを持ちながら、彼の顔を一瞥する。


「何か面白い記事でもあった?」

「こんなことになるくらいなら、俺が300年前に魔神を完全に倒しておくべきだった…!」


新聞をテーブルに叩きつけるように置き、エドワードは歯噛みした。


リリスは冷静に彼の前の椅子に腰を下ろし、優雅にカップを置いた。


「あなた一人の力でどうにかなる問題じゃないわ。だから私たちは協力したのでしょう?」

「お前と?冗談だろう」


エドワードは吐き捨てるように言い、リリスを睨みつける。


しかしリリスは微動だにせず、その瞳には魔王としての揺るぎない覚悟が宿っていた。


「私は必ず、魔神を倒すわ。次はあんな失敗はしない」


リリスの静かな言葉がエドワードを沈黙させた。だが、彼は眉をひそめ、険しい表情のまま問い詰める。


「……どういうことだ?」


リリスは一瞬だけ視線を逸らし、深く息を吐いた。


「…あの時の陣のことよ。覚えている?」


エドワードは驚きに目を見開いた。


「陣?300年前のあの魔神を倒す儀式のことか?」


リリスは小さく頷き、静かに語り始めた。


「あの陣には、生贄が必要だったようなの。陣が発動した瞬間、それが、あなたに設定されてしまったの」


その言葉に、エドワードは絶句した。頭の中に混乱が走る。


「俺が…生贄?」


ようやく出てきた言葉はかすれた声だった。


リリスはその視線を受け止めながら続けた。


「でも私は、あなたを生贄にすることを躊躇した。だから、儀式を中断し、不完全な形で魔神を封印した。そして、あなたを眠らせることで命を繋いだのよ」

「…お前が、俺を殺さなかったのは、そのためだったのか」


エドワードの声には戸惑いと苦悩が滲んでいた。


リリスは目を伏せ、静かに頷いた。


「そうよ。でも、不完全な封印では限界があった。魔神の復活は近いわ」


エドワードはしばらくの間、何も言えなかった。拳を握りしめたまま、リリスを見つめている。


リリスはその沈黙を破るように言葉を紡いだ。


「でも、今回は違う。私は300年を費やして、生贄を必要としない新しい陣を完成させたわ」


エドワードは驚きに顔を上げた。


「生贄を使わない陣?そんなことが可能なのか?」

「可能よ。ただし、これにはあなたと私が再び力を合わせる必要がある」


リリスの瞳には決意が宿っていた。


「お前と協力するしかないのか…」


エドワードは苦々しく呟いたが、その言葉にはわずかに迷いが混じっていた。


「信じられるかどうかは分からない。でも…一緒に戦うしかないんだろう?」


彼は手を差し出した。

リリスはその手を見つめ、小さく微笑むと、そっと自分の手を重ねた。


「そうね。また背中を預け合いましょう」






夜空に無数の星が瞬いている。冷たい風が静寂を運び、城の庭園にはリリス一人の影が立っていた。黒髪を風に揺らしながら、彼女は月を見上げている。


「…魔神を倒すには未届け人と生贄が必要」


静かな声が夜に溶けるように響く。


リリスはゆっくりと目を閉じた。300年前の儀式の記憶が、今も鮮明に蘇る。未届け人には魔王、自分が選ばれ、生贄にはエドワード――勇者が設定されていた。


「私は、あの時すべてを変えることができたはずだったのに…」


リリスは唇を噛みしめた。


彼女は勇者を守るために儀式を中断し、不完全な封印に持ち込んだ。それが彼女の選択だった。


しかし、封印が完全でないことは分かりきっていた。300年という時間を稼いだに過ぎない――その代償をいま、世界が迎えようとしていた。


これは、リリスの罪だ。


リリスは魔族の民を愛している。

人間を面白い生き物だと思っている。


それでも、あの陣が生け贄を必要とし、それが勇者だとわかった瞬間、儀式を中断してしまった。


リリスの罪だ。


「強い力を持つ者しか生贄にはなれない。でも、私は強すぎて、生贄になることすらできない…」


彼女の声には、かすかな自嘲が混じっていた。


あの儀式には、2人の強き者が陣を発動させる必要がある。


そして、その2人の中でも弱き者が生け贄、強き者が見届け人となる。


強さを大切にする魔族のご先祖が作ったにふさわしい魔法陣だった。


リリスは元々、自分が勇者よりも弱いのではないかと思っていた。

生け贄役は自分だと高を括っていた。


それがどうだ。

いざ陣が勇者を生け贄役に選んだ瞬間、リリスは正しく発動することができなかった。


これはリリスの罪だ。


この300年間、彼女は力を弱めるために少しずつ自分を追い詰めてきた。魔族としての力を極限まで抑え、魔力の消費を続け、300年間何も食べず、ただ魔神の復活に備えていた。


「今なら…今なら、私が必ず生贄になれる」


リリスはそっと拳を握りしめ、夜空を仰ぎ見た。


遠く、城の中でエドワードが眠る部屋の窓に明かりが灯っている。彼がそこにいることを思い浮かべるだけで、胸が軋むような痛みが広がる。


「あなたには…もうこの呪いを背負わせたくない」


その言葉は誰に聞かれるでもなく、風に消えていった。


彼女はエドワードに真実を告げていない。告げるつもりもない。300年前も、そして今も、自分が背負うべきものだと信じている。


「私は、必ず魔神を倒す。それが魔王としての役目であり、私の唯一の贖い…魔神を倒したら、あなたは人間らしく、普通に恋をして、普通に可愛い子どもができて、普通に孫たちに見守られながら死ぬの」


それは、リリスが小さい時に宰相からもらった絵本に書いてあった人間の物語だ。

ちっぽけで弱くて優しい人間の物語。


夜空の下、星は何も語らない。ただ、その冷たい光だけが、彼女の決意を見守っているようだった。


魔王、恋する乙女だな……

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― 新着の感想 ―
何とも美しく、切ない関係ですね。ただ一人、勇者の目覚めを待ち、今度は自分が生贄になろうとする女魔王。彼女の胸中には、勇者への愛が育っていたのでしょうか。  本音を申しますと、この後に勇者が覚醒して元凶…
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