表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

山桜

作者: そら

 桜の季節は人との別れと出会いの季節でもあります。こんな作品を書いてみたい気分になりました。

「何時ぐらいに帰ってくるの?」

玄関で登山靴を()いていると、背後で母の声がした。

「今日は近場だから早いと思う。昼過ぎには帰るよ」

「そう、気をつけてね」 

 パジャマ姿の母は、そう言うと寝室に戻っていった。


 月に1度か2度、気が向いたら俺は山に出掛ける。行くときは独りだ。普段は近場の1,000メートルほどの山、休みが取れれば1、2泊で日本アルプスにも出掛ける。 

 初めて山に行ったのは3年前の3月末だった。課長の中島(なかしま)さんが、仕事で失敗して意気消沈(いきしょうちん)していた俺を誘ってくれたのだ。 

 入社して2年、会社にも慣れてすべてが順調に感じていた。気が緩んでいたのか。俺のミスで会社は結構な額の損失を負った。晴天の霹靂(へきれき)だった。厳重注意だけで済んだが、肩身(かたみ)が狭かった。 

 会社にいると針の(むしろ)に座っているようだった。皆が俺のことを非難めいた眼差(まなざ)しで見ている気がした。早く挽回(ばんかい)しなければと気持ちばかり(あせ)った。会社を辞めるという選択肢が常に頭の中でちらついた。 そんなとき、課長から山に誘われた。

「おお、北川、お前、今度の日曜は暇か? 暇なら山、登りに行くぞ」 

 俺は、唐突(とうとつ)な誘いに戸惑った。課長と仕事以外の話をしたのはそれが初めてだった。

「課長、暇は暇ですけど、山なんて行ったことないです。登れるかな。登山靴もありませんし」 

 正直言うと、会社の上司と日曜日に出掛けるということにかなりの抵抗を感じた。できれば行きたくないというのが本音だった。 

 課長は、顔に笑みを浮かべたまま言った。

「大した山じゃない。衣塚山(きぬづかやま)っていうほんの1,000メートルぐらいの山だ。初心者ルートで往復4時間。スニーカーで十分だ。あと飲み物と昼飯と折りたたみの傘があればいい」 

 もしミスなんかしないで順風満帆(じゅんぷうまんぱん)だったら、なんとか理由をつけて(そく)(ことわ)っていただろう。でも、会社で居心地の悪い思いをしていたからなのか、俺は断らなかった。

「はあ、じゃあ、ご一緒させていただきます」


 当日課長は、最寄り駅まで車で来て朝5時に俺を拾ってくれた。課長は、取り留めのない世間話をしただけで、仕事の話はしなかった。6時には登山口脇の駐車場に着き、まだ薄暗い中、課長と俺は衣塚山を登り始めた。 

 初心者ルートの割に、登山道は随分と急峻(きゅうしゅん)だった。登山道と言っても、鬱蒼(うっそう)とした緑の中に、腰の高さほどの岩が階段状に(つら)なっているだけで道らしい道はなかった。 

 俺は必死だった。手も足も使ってよじ登った。顔からぽたぽたと汗が落ちた。汗は目にも入った。ちょっと連続して登ったと思ったら、すぐ小休止(しょうきゅうし)を取った。 

 痩せてはいたが運動らしい運動をあまりしない俺は、骨や筋肉が(きしん)で音を立てているような錯覚に囚われた。27歳の俺を尻目(しりめ)に、41歳の課長はほとんど汗もかかずに軽い身のこなしで登っていった。 

 大きな岩でできた階段と俺との格闘は続いた。小休止の頻度が上がっていった。ゼイゼイと息も荒くなった。 

 顔を上げるたびに、岩の階段の先で俺の様子を見ている課長の姿が目に入った。そして俺がもう少しで追いつくというところまで行くと、課長は背を向けてまた登り始めた。 

 全身を使って登山道とは名ばかりの岩場を一心不乱(いっしんふらん)によじ登っているうちに、俺は目の前にある岩の階段のこと以外何も考えられなくなった。 

 仕事でミスをして以来感じていた、胸に何か詰め物をされたような圧迫感が消えた。喉が締め付けられるような緊張感からも開放された。

「もう岩場は終わりだ」

突然、課長の声がした。顔を上げると、緑の向こうに青い空が開けているのが見えた。

「すぐ稜線(りょうせん)に出る。そうしたら緩やかな坂を少し登って頂上だ」 

 岩の階段ともうすぐお別れだと思ったら、急に体が軽くなった気がした。課長に遅れを取ることなく、後ろにぴったりとついて稜線に出た。 

 稜線は()せ尾根になっており、両側は鋭く切れ落ちていた。西側には緑に覆われた低山が連なり、東側には(ふもと)に広がる町が見えた。稜線を10分も歩くと、衣塚山の頂上に着いた。 

 重なり合いながら眼下(がんか)に広がる緑を頂上から眺めると、それまでの人生で経験したことのない心地よさに俺の心は踊った。春の風が汗まみれの(ほほ)を優しく()でた。 

 わずか1,000メートル余りの山に登っただけなのに、何か大きなことを成し遂げたような達成感を感じた。

「北川、どうだ、いい眺めだろ?」

隣りで課長が笑っていた。 

 頂上では、コンビニで買った(にぎ)(めし)を食べた。久しぶりに心から「うまい」と思えた。

 課長が持参したコッヘルとバーナーで湯を沸かし、紙コップにドリップコーヒーを()れてくれた。うまかった。本当にうまかった。 

 課長は、俺を見ずに青空を眺めながら言った。

「まあ、あんまり考えるな。考えたらどうにかなることだけ考えろ。考えてもどうにもならんことを考えるのは人生の無駄(づか)いだ。どうにもならんことを考えそうになったら山にでも登るといい」 

 下山(げざん)に使った谷道(たにみち)では、あちらこちらで山桜が咲いていた。


 その後、俺には名誉挽回(めいよばんかい)のチャンスが巡ってきた。単に幸運だったのかも知れない。でもお陰で、自分が納得するかたちで(あがな)うことができたと思う。 

 あの日以来、俺は「どうにもならんことを考え」ないために何度も山に登った。中島さんが山に誘ってくれたのはあのとき一度切りだったが、部長に昇進した今も思い出したように声を掛けてくれる。 

 そして今日、俺は余計なことを考えないためでなく、山に行きたいから山に行く。衣塚山では、そろそろ山桜が咲いている頃だ。


※登山の装備については、本作品内に言及のあるものだけでは不十分です。また単独山行は望ましいとは言えません。しっかり調べて、ご自分の体力・実力を考慮し、安全に十分配慮して登山を楽しんでください。


Copyright 2023 そら

 この物語の「中島さん」は、100%私の想像の産物です。でも誰にでも「私の人生にいてくれてありがとう」と思う人がいると思います。あなたの「中島さん」は誰ですか? 


 よろしければ、お読みいただき、評価、感想をよどうぞろしくお願いします。糧として、精進して参りたいと思います。


  この作品はNoteのそらのサイト(https://note.com/sora202107/n/n52f59fc780b5) にも掲載しています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ