第2話 シュバルツの受難
シュバルツとの面会の二日後、ローゼルトは早速シュバルツを武人の道に進ませるための工作を始めようとしていた。
彼は、数年経ってシュバルツが軍務に耐えうる身体を手に入れられなければ文官として育てるつもりだっだが、シュバルツの身体の成長の為に努力を惜しむことはなかったのだ。
「そんなわけで今日からシュバルツ様の訓練の担当になったオズヴェルと言います」
その一つがシュバルツの目の前に立つ壮健な軍人オズヴェルである。正確に言えば彼は本職の軍人ではなく軍学校教官であったが、シュバルツからすれば大して違いはなかった。
「よろしくお願いします。ところでオズヴェルさんのことはなんと呼べば?」
「ふむ………特に拘りはありませんが訓練中は教官殿と呼んでいただければ」
「分かりました」
「それでは、本日の訓練内容ですが………」
オズヴェルの説明を聞きながらシュバルツは内心ゲンナリとしていた。彼の計画では今頃はローゼルトは文官になりたいと宣言した幼い孫の対応に迷いながらいたずらに時間を浪費しその間に自身は文官になるための準備を整え既成事実化しているはずだった。
それが何故かこうして汗臭い軍人とクソ暑い中訓練をさせられようとしているのだから彼の心も曇るばかりである。
「では、始め!」
オズヴェルの威勢のよい掛け声と共に始まった強化訓練は数時間にも及んだ。
夏場であることも考慮し本格的な運動は夕暮れに始まったがそれでもなおシュバルツは自身の体に尋常ではない量の汗が付着していることに気がつく。
「終わり!」
何度か気絶しそうになったシュバルツであったがなんとなく途中で休むのはこの鬼教官に負けた気がするので予定にない休憩以外は取らずに訓練を終えた。
オズヴェルは明らかに限界状態にあるにも関わらず弱音を吐かないシュバルツの評価を上げていたが本人にとっては割とどうでもいいことだった。
そして、次の日体調を崩したシュバルツは3日間寝込むことになりローゼルトの目論見は出鼻から挫かれることになるのであった。
ー·ー·ー
4日後、ようやく快復したシュバルツは彼の趣味である読書に勤しんでいた。
彼の読書は活字であれば何でも構わない、といった感じでひたすらページを捲るのだが好みのジャンルがないわけではない。
彼が最も好んだのは歴史書………とまではいかないまでも歴史に関する文学や偉人伝であった。
例えば彼が今手にしている本の題名は『ゼーデル地域におけるヘレニア人の移動が与えた影響』である。
へレニア人とは古代に西方から大陸全土に移動してきた民族であり歴史的にはへレニア人の大移動、と呼ばれていたりする。
シュバルツの住む大陸東方………ゼーデル地域では純血のヘレニア人というのはもはや存在せず土着のメソラ人との混血が殆どである。
とはいえ大陸の中にはヘレニア人が支配する地域も存在するし戦闘を得意とする彼らは各地で雇われる傭兵の中に多い。
シュバルツは先日戦ったアレクもまたヘレニア人だったな、と思い返していた。
「そういえば、あの若獅子はどうしているのだろう」
シュバルツは独り言のつもりで呟いたが彼の有能な従者はそれを問いかけとして受け取った。
幸いにもその従者は若獅子の処遇がどうなっているのかを把握していたのでそれを答えることができたのだった。
「それでしたら捕虜収容所に捕らえております」
返答があったことに少し驚くシュバルツ。とはいえ彼の興味は既にそちらに移っていたので従者の返答は中々好都合だった。
「ふむ。面会は出来るのか?」
「可能です。もちろん、格子を挟んで、となりますが。お会いになりますか?」
「ああ。用意してくれ」
「畏まりました。少々、お待ち下さい」
従者が部屋を出ていったのを見送りながらシュバルツは従者の名前を必死に思い出そうとしていた。
シュバルツの名誉のために言っておくが決して彼は従者の存在を軽んじている訳ではない。彼は日頃から仕えてくれてる従者に感謝しているし信頼を置いている。
だが残念なことにウェルノアイゼンの肩書を持つ以上、祖父や父に紹介される他家の人間の名を優先して覚えるのは当たり前なのである。
「面会の許可が下りましたのでこちらへ」
結果、名前を思い出せなかったシュバルツは首肯して従者について行く。
次の日には使用人名簿を見てセイラスという名前を確認したのだがそれはまた別の話。
まあ、シュバルツの前を行く従者は特になんとも思っていなかったので名前を覚えていようがいまいが問題はなかっただろうが。
こういうのは自己満足の為にも必要なのだということなのだろう。
「こちらです」
捕虜収容所………見るからに監獄、という雰囲気を醸し出したその建物は街の外れに存在した。
地下1階、地上3階のその建物は周辺の建物と比較して異様に大きかったが収容人数は意外に少なかった。
そして問題の若獅子、アレクは地下一階の独房に囚われていた。
「アレク·ウェールシア·イーゼル」
「うん?…………ああ、ウェルノアイゼンの少女みたいなお坊ちゃんか」
シュバルツは目を細める。戦場ではあれだけ艷やかに光っていた赤髪はボサボサになりその風貌は虚ろ。今の彼を見ても誰も若獅子とは例えないだろう、と思っていた。
「………貴様、シュバルツ様に対して何という口の利き方か!」
アレクの暴言に対して従者が吠える。少し間が開いたのは客観的に見てその暴言が正しいからであるだろう。
「いや、だってその通りだろ?」
「まあ、そうだね。私はひ弱だしウェルノアイゼン家のお坊ちゃまには間違いない」
飄々としたアレクに掴みかからんとする勢いで口を開いた従者を遮りシュバルツが発言する。
端的に言ってしまえば音がよく反響する監獄では従者の声は少し煩かった。
「だが、イーゼルの若獅子よ。君はその坊っちゃんに負けたのだがね」
シュバルツは安い挑発を行う。彼は地味に少女と揶揄されたことを根に持っていた。
「ふん………同数なら勝てたさ」
「そういうのを負け犬の遠吠えというのだよ」
「…………」
イーゼルの若獅子は成熟した獅子ではなかった。そしてシュバルツにとってアレクが挑発にのってきた時点で第1段階をクリアしたと言えた。
「同数なら……と言うが十万対十万ならどうだ?」
「勝てる」
アレクは即答する。彼は十万どころか一万の軍勢さえ率いたことはなかったが目の前の少年もまた同じであろうと考えていた。
「本当に?」
「あたりまえだ」
「…………ウェルノアイゼン家の人間である私が十万の軍勢を率いるとき、その部下には相応の人間がいる。君にはいるのかい?」
「……なるほど。そういうことか」
存外に素直だな、とシュバルツは思った。彼はアレクが自分より年上で戦慣れしている、という認識でいたが年上といっても年代で言えば彼らは同じである。
アレクもまた思春期に入る前、あるいはほんの少し足を踏み入れたばかりの少年に過ぎない。
「そう。君が私に負けたのではなくイーゼルがウェルノアイゼンに及ばなかっただけのことなのだよ」
「………」
ある意味で自分が貶められるよりも無情な一言。アレクもそれに対し思うところのないわけではなかったがそれ以上にシュバルツが言いたいことに興味があった。
「証明したくないかい?同数で戦えばイーゼルの若獅子は私どころか誰にも負けない、と」
「なにが言いたい」
「私の部下になりたまえ。十万の軍勢を率いさせてやるよ」
それはとても陳腐な誘い。
本来ならば一笑に付すべき言葉。
考えるまでもなく馬鹿らしい提案。
だが、シュバルツの紅い瞳にアレクは既に呑まれていた。