当惑困惑ご迷惑
アルサリア伯爵家の娘であるセラフィーナは、婚約者の屋敷に来ている。
呼び名だけは小ホールという、大広間。
そこにある豪奢なソファに腰かけていた。
クッションもフカフカだ。
当の婚約者は、あちこちに挨拶回りをしていて、ここにはいない。
それについて思うところはあったが、言わずにいる。
本音を晒した場合の、相手の反応がわかるからだ。
そして、それはとても癪に障る。
(別にいいわよ。あなたは、私の過去に、ずいぶんこだわりがあるみたいだけど、私は、こだわっていないもの)
嘘だ。
セラフィーナの婚約者は、どう考えても女性から誘いに、不自由していなかったはずだ。
彼は、とても女性の扱いがうまい。
大勢の女性を相手にしてきたのがうかがい知れる。
実際、本人からも聞かされていた。
『女性とのつきあいがなかったわけではないし、婚姻を考えたこともある』
結局のところ、婚姻はしなかったわけだが、考える程度には、親密な女性がいたということだ。
セラフィーナにはいなかったのに。
婚姻を前に、気持ちが不安定になっているのだろうか。
どういう女性だったのか、めっきり気になり始めている。
婚姻まで、あと半月をきっているというのに、彼が出かけていくたび、気持ちがしおれてしまうのだ。
以前は、こんなふうではなかった、と思う。
恋をしてから、すっかり変わってしまった。
いいこともあるけれど、悪いこともある。
くよくよしてしまうのは「悪いこと」のほうだ。
「待たせてしまったね、ラフィ!」
扉が開くなり、1人の男性が駆け寄って来る。
まさに「駆け」寄ってくるのだ。
ここのところ、毎日のように、この屋敷を訪れている。
最初は驚いたが、今では、思わず口元に笑みを浮かべてしまう。
セラフィーナも立ち上がり、男性を迎える。
いきなり、ぎゅっと抱きしめられるのにも慣れた。
栗毛色の髪と瞳のこの男性が、セラフィーナは大好きなのだ。
エセルハーディ・ガルベリー。
現国王の弟であり、婚約者の父。
婚姻すれば、セラフィーナの義理の父となる人物だった。
婚約者は、この父に対して辛辣なところがある。
正直、なにが気に入らないのか、セラフィーナにはわからなかった。
セラフィーナの父は悪い人ではなかったし、幼い頃には可愛がってもらった記憶もある。
だが、なにしろ体裁主義が甚だしい人だった。
貴族の体裁にばかりかまけているところが、セラフィーナは嫌いだ。
そのせいか、大人になるにつれ、父との距離はどんどん開いてしまっている。
婚約後は、ほとんど絶縁しているに近い。
それは、父が明らかに、王族との姻戚関係を利用しようとしていたからだ。
早い段階で、彼が父に釘を刺してくれてよかったと思っている。
寂しくないとは言わないが、彼の立場を利用されたくはなかった。
「寂しい思いをさせてしまったね」
「そのようなことはございませんわ、エセル殿下」
この呼びかたは、エセルハーディからの要望に寄る。
いや、切望というべきか。
1度だけ、「お義父さま」と呼んだことがあった。
呼ぶというより会話の流れでそうなっただけなのだが、それはともかく。
その際、エセルハーディに号泣されたのだ。
喜ぶエセルハーディに、今後もそのように呼んでほしいと言われた。
が、婚姻前に、そう呼ぶことは難しいとセラフィーナは答えている。
そこで、ひと悶着あり、婚姻後までは「愛称+敬称」で呼ぶことになった。
「こうしてエセル殿下と、ご一緒できて楽しいですわ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
体を離し、向き合って、ソファに座る。
見計らったように、お茶が運ばれてきた。
通常は、侍女が行うのだが、ここでは、時々、その習慣が変わる。
入ってきたのは、いかにも「執事」然とした男性だ。
焦げ茶色の短い髪に、深い青色をした瞳。
その目と目の間には、いつも悩み深そうな皺が刻まれている。
「さすがはヴィッキーだ。ちゃんとラフィの好きなケーキも用意しているね」
香りのいい紅茶と、セラフィーナ好みのケーキが、テーブルに並べられている。
落としたり、壊したりするのが恐ろしくなるような綺麗なティーセットに皿。
けれど、こうした物にも、少しではあるが慣れてきた。
「さぁ、召しあがれ」
「ありがとうございます。いただきますね」
エセルハーディに答え、ヴィクトロスにも笑顔を向ける。
元々、ヴィクトロスは、婚約者の屋敷の執事なのだ。
セラフィーナは、まだヴィクトロスのことを、よく知らない。
ただ、ものすごく優秀な執事だということは、わかる。
(残念だけれど……トビーでは、こうはいかないもの。でも、トビーは、私に忠実だわ。私が、お父さまに叱られた時も慰めてくれたのはトビーよ)
5歳の頃、こっぴどく父に叱られたことがあった。
その時に慰めてくれたのが、トビーことトバイアス・ダリードだ。
婚約者の計らいにより、トバイアスは伯爵家からセラフィーナ付きの侍従として、屋敷に迎えられていた。
(そういうところは優しいのよね。私には、皮肉しか言わないけど!)
ちょっぴりイラっとしたのと、美味しかったのとで、セラフィーナは、ケーキをパクパク。
エセルハーディが、にこにこしながら見ていることにも気づいていない。
「ところで、息子はどこかな? 毎日、こんな可愛らしいレディを置いて放っつき歩く気がしれない。サンディに心を奪われていなければ、間違いなく私が求婚していたよ、本当にね」
「エセルハーディ殿下。恐れながら、オリヴァージュ殿下の前で、そのようなことは仰られないほうがよろしいかと」
「こんなに可愛らしい婚約者を、放っておく息子が悪いのだよ、ヴィッキー。婚姻してもらえるだけでありがたいと思わなくちゃならない立場だろうに」
セラフィーナには、なぜエセルハーディが「息子に婚姻は無理」だと思い込んでいたのかはわからない。
が、その思い込みのおかげで、セラフィーナは、とても感謝されている。
エセルハーディは、よく「息子のどこが気にいったか」を訊いてくるのだ。
(私が式の当日に逃げるかもって心配してるんでしょうね。わからなくもないわ)
心の中で、つんっとして、そう思う。
ここ数日、放置されているのは事実だった。
エセルハーディがつきあってくれていなければ、へこたれていたかもしれない。
これまでつきあってきた女性に会いに行っているのだろうかと、不安にならずにいられないからだ。
「エセルハーディ殿下、オリヴァージュ殿下より、ご連絡が入っております」
「忙しいと伝えてくれないかな。あの子のことだ。どうせ、また、私に、ガミガミ言うつもりなのだよ」
ヴィクトロスが、セラフィーナに視線を投げてくる。
セラフィーナは、小さくうなずいた。
エセルハーディが「がみがみ」言われているのを見たことが、何度かある。
それほど言わなくてもと、思うくらいの言い草だったのを覚えていた。
そして、セラフィーナは、エセルハーディが大好きなのだ。
エセルハーディは、とても「あの」彼の父親とは信じられないほど、可愛らしい人だと思う。
他愛もない話も楽しく、ホッとできた。
皮肉や嫌味の応酬をすることもない。
とりとめのない話をしながら笑っていた時だ。
「殿下がおいでになります」
淡々とした口調で、ヴィクトロスが告げる。
直後、扉が叩かれた。
苛立ちが伝わるほど、乱暴な叩きかたに、セラフィーナは顔をしかめる。
(なんなの、いったい! エセル殿下をいじめたら、たたじゃおかないわよ?)
自分ばかり勝手をしている彼に、楽しい時を邪魔されるのは迷惑だ。
内心の憤慨を隠し、セラフィーナは、困り顔のエセルハーディに笑ってみせた。