安易な油断がまねくこと
「本当に素晴らしいわ」
彼女は、ほう…と感嘆の吐息をもらす。
久しぶりの芝居見物に、気分が高揚していた。
日頃は、辺境地にある森で暮らしているため、王都にはあまり出て来ないのだ。
とはいえ、それは彼女の望む生活であり、不満はない。
(でも、たまに、こういうことを楽しむのも悪くはないわね)
1幕目が終わり、正面の舞台に緞帳が降りていく。
場内から大きな拍手がおくられており、彼女も同様に手をたたいていた。
休憩のあとの2幕目が楽しみだ。
この演題は、3幕目まである。
「とても気に入ったようだね」
声がかけられ、隣に視線を向けた。
彼女の夫が、そこには座っている。
黒髪、黒眼。
彼女の暮らすロズウェルド王国は、この大陸で唯一、魔術師のいる国だ。
その中でも、特異な魔術師。
ジェレミア・ローエルハイド。
彼は「人ならざる者」と呼ばれている。
それほどに大きな力を持っていた。
彼女も、知っている。
彼は彼女の夫、つまり、彼女は彼の妻なのだ。
サマンサ・ローエルハイド。
金色の美しい髪を結い上げるのにも、もう抵抗感はなかった。
サマンサは18歳になるまで、結い上げるような髪型をしたことはない。
特殊な体質だと知ったのは、彼と出会ってからだ。
それまでの彼女は、体型において「令嬢らしくない」とされており、貴族たちの嘲笑の的となっていた。
だから、サマンサは夜会が嫌いだったし、行く時も膨れた頬を隠すため髪を結い上げることはなかったのだ。
そもそも実家であるティンザー公爵家の屋敷を出ること自体も少なかった。
「あなたが、この席に高値を支払った価値はあった、と言っておくわ」
「日頃の細々とした小遣いを貯めて買った甲斐があったようだ」
「あら、あなた、お小遣いをもらっているの? 誰に?」
ローエルハイドは、ほかの貴族をよせつけないほどの資産家だ。
そして、彼は当主であり、誰かに「小遣い」をもらう立場ではない。
いつものごとく、彼特有の軽口を叩いている。
わかっているので、サマンサも軽く受け流していた。
「私が役に立つことをしなければ、ご褒美もくれない吝嗇家のご婦人からさ」
「それなら、私でないことは確かね。だって、私はあなたが役立たずな魔術師だと知っていて婚姻したのよ? とても大きなご褒美をあげたのに、吝嗇家だなんて、言われるはずがないわ」
「サミー、これほど素晴らしい女性が、私の妻であることを誇りに思うよ」
彼はいつだって、こうだ。
サマンサの言葉にムッとした様子も見せず、むしろ楽しげにしている。
サマンサをからかって怒らせるのが、彼の「趣味」らしい。
乗せられないように注意はしていても、無視するのも難しかった。
(彼は、怒っている私が魅力的だと言うけれど……そうやって、子供じみた真似をする彼も魅力的なのよね……困ったものだわ)
貴族らしく「表情」には出さないようにしつつ、内心では、そう思っている。
黙っていても魅力的だと誰しもが思うような風貌の彼に、いたずらっぽい視線を投げられると、どうにも具合が悪い。
怒っていたのも忘れ、なんでも許してしまいそうになる。
「しかしねえ、きみ」
彼が顔をわずかにしかめた。
わざとらしいものではあったが、少しばかり嫌な予感がする。
サマンサは、サッと視線を階下に向けた。
彼の視線から逃げたのだ。
彼女の「嫌な予感」は、おおむね外れた試しがない。
個室となっている2階席からは、1階席が良く見える。
普通ならば、1階席から見上げたり、同じ2階席の左右翼となっている席から、こちらも見えたりするのだが、この個室に限って、それはない、と断言できた。
彼は魔術師で、絶対に外から見聞きできない魔術をかけている。
「演目の内容について不満はないが、あまりにも夢中になっているきみの姿を隣で見ていなくちゃならない私のことも気にかけるべきだとは思わないか?」
「私を見つめていないで、あなたも舞台を見ていればいいだけよ」
「きみが隣にいるってのに、しげしげと見つめずにいろだなんて、最近のきみは、どうも“人でなし”に感化されているようだな」
彼との間には、観覧中に飲食できるよう小さめのテーブルが置かれていた。
さっきまでは菓子とケーキ、それに紅茶が並べられていたのだが、今はない。
あっという間に消えている。
テーブルごと彼が消してしまったのだろう。
くんっという感覚とともにイスもろとも彼のほうへと引っ張り寄せられていた。
サマンサは、ついっと眉を上げ、目を細めて彼をにらんだ。
「婚姻しても、あなたって、ちっとも変わらないのね」
「子ができたって変わりやしないさ。それは、あの子が産まれた時に、証明されたと思っていたのだけれどなあ」
その言葉に、ふわっと、サマンサの心があたたかくなる。
彼と婚姻し、サマンサが19歳になって4ヶ月後、子供ができたのだ。
幸いというべきか「彼」は黒髪、黒眼ではなかった。
サマンサ譲りの金色の髪に、ダークグリーンの瞳。
サマンサの瞳より少し深みのある色は、彼の「黒」が混じっているからだろう。
だとしても「人ならざる者」の資質を持っていないのは明らかで、2人はとても安堵している。
特にサマンサは、彼の実情を知っているだけに、心から喜んだのだ。
彼を失わずにすんだことも、彼の子をその腕にいだけたことも。
「王都に来ると、あの子を自分の腕には抱けないが、寂しくはないだろう?」
「そうね。こうして劇場に来ることもできるし」
彼がなにを言いたいのかは察していた。
だが、あえてはぐらかしている。
(お父さまったら王宮の仕事を休んでまで屋敷にいたがって……私は、お母さまにお願いしたのに……お兄さまも、あの調子では婚姻が遠ざかってしまうわ)
とにかく息子はティンザーの家族に大人気。
彼も理解を示し、あえてローエルハイドではなくティンザーにあずけている。
そうでなくとも、1ヶ月に1度は森の家を訪ねてくるのだが、それはともかく。
ティンザーの屋敷は、驚くほどの遊び道具であふれていた。
「さあ、次の幕が開くわよ? テーブルを元に戻してちょうだい。少しは役に立つ魔術師だということを自慢したいのならね」
彼が、ひょこんと眉を上げる。
さっきの「少しばかり」が「かなり」に変更された。
彼の表情に、嫌な予感しかしなくなっている。
「私は、常々、きみからの評価を高めたいと考えている。テーブルを出すなんて、そこいらの魔術師でもできるようなことでは、きみに申し訳が立たない」
瞬間、パッと室内の景色が変わった。
とはいえ、変わったのは室内だけだ。
個室の外に見えている劇場内の景色は、なにも変わっていない。
「あなた……まさか本気じゃ……」
「いかにも、本気さ」
言うなり、彼がサマンサを抱き上げる。
そして、テーブルの代わりに現れた「大きなソファ」に彼女の体を投げ出した。
クッションがきいていて、ふわんふわんとしただけで、乱暴に扱われたといった感じはしない。
だが、しかし。
サマンサは、自分を見下ろす彼の瞳に、ひくっと喉を引き攣らせる。
婚姻したからといって、彼を相手に「油断」するのは、はなはだ危険なのだ。




