緊張やら期待やら
彼の体に寄りかかったまま、レティシアは固まっている。
耳が、じんじんと痛い。
(む、無理……無理だから、マジで……腰抜け……いや、違う、腰が抜け……てるかもしれない……座ってるから、わかんないだけで!)
今までも、彼には、幾度となく額や頬に口づけをされていた。
特別なことでもなんでもない。
なのに、一瞬で、本の世界から引き戻されている。
しかも、耳元で囁かれ、魂が口から出てしまいそうだ。
(わ、私が本を落としたからってだけで……なぁあんにもおかしなことは言われてない……なのに……なのに……なに、コレ……ヤバいんデスけど……)
以前から、彼のことを考えたり思い出したりするたび、レティシアは「心の旅」もとい、ぽやぁとすることが多かった。
が、これは「心の旅」どころではない。
本気で、魂が、ひょろろろろっと抜け出そうな気がする。
「大丈夫かい?」
横から、ひょいと顔を覗き込まれ、ぶわっと顔が熱くなった。
座ったまま、気絶しそうだ。
(ぐぅう……素敵過ぎる……なんでもないことが、なんでもなくなるくらい……)
そもそも、彼は、レティシアの理想の男性。
その彼が、今は、自分の夫。
婚姻の式をすませても、未だ信じられない気持ちでいる。
とはいえ、これは現実なのだ。
彼は、彼女の「旦那様」であり、祖父ではない。
意識すると、じたじたしたくなる。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、わからないような気持ちだった。
落ち着けと言い聞かせるも、まったく効果はない。
心臓は、ばくばくし通しだ。
「もう読書は終わりにするかい?」
「……う、うん……き、今日は、ここまでで……」
「続きは明日」
パッと本が消える。
彼は、特異な魔術師だ。
通常、魔術には動作が必要となるが、彼には必要ない。
ポケットに手をつっこんだままでも、自在に魔術を操れる。
「では、寝ようか」
ずきゅーん、ばきゅーん。
擬音が心臓に刺さる漫画の1シーンが頭に浮かんだ。
まさに、そういう感じだった。
ともすれば、うぎゃあ!と叫んで、部屋を飛び出してしまいたくなる。
レティシア自身、わけがわからない。
好きな人に愛されていて、結婚できたのだ。
嬉しいに決まっている。
逃げ出したくなる理由などない。
にもかかわらず、裸足で逃げ出したくなる気分を止められずにいる。
「い、今頃、サリーたち、ど、どうしてる、かなぁ?」
なにか話していなければ、おかしな言動をしかねなかった。
同じ日に婚姻の式をした執事のグレイと、メイド長のサリーのことを思い出し、話題にしてみる。
とたん、きゅっと腰を抱きしめられた。
(い、いつの間に~っ? き、気が付かなかった……)
本に熱中していて気づかずにいたが、彼の腕が腰に回されている。
当然なのだけれど、やはり「男の人の腕」と感じた。
レティシアは意識し過ぎて、あわあわしている。
最早、まともな思考は残されていない。
「新婚旅行中だからねえ。サリーが、グレイを押し倒しているのじゃないかな」
藪蛇。
そんな言葉だけが、頭の周りをウロウロしていた。
そう、2人は、現在、新婚旅行中なのだ。
先に行くよう勧めたのはレティシアだった。
彼らは、レティシアたちより先に出かけるなんてと恐縮していたのだが、彼も、同意し、2人を送り出している。
色っぽいことから離れようとしたのに、むしろ、近づけてしまった。
このままでは、本気で、おかしげな声をあげてしまうかもしれない。
そんなみっともないことはできない、とは思うのだけれど。
(いい歳して……幼稚っていうか……落ち着きのなさが半端ないわ、私……)
自分でも呆れているし、やはり、わかってもいるのだ。
さりとて、感情というものは、いかんともしがたい。
彼の近くにいると意識するだけで、心が右往左往する。
突然に現れた憧れの芸能人を前に、サインを求めることもできず、オタオタしている、といった感覚に似ていた。
「私の妻は、とても可愛いね」
ちゅ…と軽く頬に口づけられ、本気で、くらっとする。
そして、ハッとなった。
(も、もしかして……これ……本気モード……っ?!)
彼は、女性の扱いに慣れている。
が、自ら口説いたことは、ほとんどないと聞いていた。
以前、ほんの少し「練習」されただけで、倒れそうになったこともある。
その後、本気モードを1度だけ体験したが、やはり膝が崩れそうになった。
(い、いや、待て、私……そう、そうだよ、私たちは結婚してる! そ、そういうことになっても、おかしくない! ていうか、なるほうが自然!!)
支離滅裂。
そんな言葉が浮かんだが、慌ててかき消す。
そもそも結婚して7日が経っていて、同じベッドに入っているのに、なにもないほうがおかしいのではないか。
普通なら「初夜」を迎えているはずだ。
(だよね~……読書とかないわ~……私、なにやってんの……)
思うものの、体が緊張してくる。
がっちがちの、かちんこちん。
腰に回されている腕にばかり意識が向いていた。
なにをどうしたいのやら。
彼のことが好き過ぎて、収拾がつかない。
もとより、性的なことは苦手で、あちらの世界にいた頃は、極力、避けていた。
そのせいで、こういった場合の取るべき態度がわからずにいる。
というのも、彼にふれられるのが嫌ではないからだ。
心地いいし、頭の端っこでは、ちょっぴりの期待もある。
しかし、それが、なにより恥ずかしい。
「レティ? 機嫌を損ねてしまったかな?」
「えっ?!」
焦って、振り向いた。
とたん、ぷっと笑われる。
その顔に、またしても、やられてしまった。
振り向いた格好のまま、レティシアは固まっている。
以前なら、からかわれた、と少し拗ねてみせることもできた。
なのに、今はできない。
そういういたずらっぽいことをするところも、好きだと思うだけだ。
なにより、彼の笑顔は、とても「素敵」だった。
一瞬で、目どころか心も囚われてしまっている。
彼の手が、そっとレティシアの頬にふれた。
近づいてくる唇に、どきっとする。
思わず、目を伏せた。
(キ、キ、キス~っ? は、初めての……っ……)
心臓が、ばっくんばっくんしている。
思考回路は、完全に停止状態だ。
苦しいくらいに息を詰めていた。
が、しかし。
ちゅ。
口づけされたのは額。
気づいて、ぱちっと目を開く。
彼が穏やかに微笑んでいた。
「そろそろ寝ようか、レティ」