勝敗のない世界で
彼の心臓は、これまでになく、ばくばくと波打っている。
驚くというより、焦り過ぎて、本当に息を止めていたからだ。
(アリスッ!!)
(うわっ! なんだよ、急に! いくら抑揚は伝わらねーからって……)
(きみは、シェリーに、人として会ったのかっ?!)
彼は、額を押さえ、アリスに即言葉で連絡を取っている。
即言葉というのは、特定の人物と会話をするための魔術だ。
会話の内容は、ほかの者には聞こえない。
ただし、瞬きには気をつける。
シェルニティは観察することに長けていて、些細な仕草も見逃さなかった。
彼が魔術を使う際、瞬きの間隔が長くなることを見抜いたのも彼女だけだ。
今は、魔術を使っていると知られるわけにはいかない。
とんでもなく、みっともないことになる。
(いや……ん~……まぁ、会ったっていや、会ったかなぁ……あれが、会ったって言えるのかどうかわかんねーけど)
(…………会ったのだね?)
(オレとして会ったわけじゃねーよ。シェリーは、リカだと思ってた)
焦っていたせいで、頭の中が整理できていない。
彼らしくもなく、頭上にハテナが乱立している。
(ていうか、ンな半年以上前の話、今さら持ち出して、なんなんだ? シェリーに、なんか聞かれたのか?)
(……半年? 今日の話ではない?)
(今日は、馬だよ。あんたのせいで、鼻ヅラ、ぺしってされたんだからな)
(今日ではなかったのか……)
(おい! オレが、とばっちりを食っ……)
ぱしっと即言葉を切った。
今日、人型のアリスと会ってはいないことに安堵している。
それなら、シェルニティの「教わりたい」は比喩だと判断できるからだ。
つまり、本気ではない、ということ。
「…………少し前に、エミリーとサラと街に行ったのよ、私……なのに……」
小さな声に、彼は額から手を離した。
シェルニティが、しょんぼりしている。
(街に……? 女性3人で、カフェに行ってきたのかと思っていたが……)
それなら、こんなふうに、しょんぼりしたりはしないはずだ。
女性だけで気軽に話をしたいだろうと、その日は、彼は遠慮をした。
どういうふうに過ごしたかは聞いていたが、買い物をしてカフェに行ってきたと、シェルニティは話している。
「……私は、誰にも勝てっこないわ……」
「誰かに勝ちたいのかい?」
シェルニティが顔を上げ、ちょっぴり寂しげに肩をすくめた。
なにか、彼女は引け目を感じているらしい。
その表情に、胸が痛む。
「あなたがつきあってきた女性たちに、私は勝てないでしょう? あなたに面倒をかけてしまうに決まっているし……自分にがっかりしているの」
「私がつきあってきた女性?」
「洗練されていて、ベッドの中でも……どういえばいいのか……あなたを満足させられる女性ということ」
ティーカップを割った時と同じく、彼の時間が、勝手に、しばし止まった。
それを、シェルニティは誤解したのかもしれない。
「せっかく、あの店で買った下着も、意味なかったわね。エミリーとサラは、私に似合っていると言ってくれたけれど、こういうことって下着の問題ではないもの」
ああ、まずい。
彼は、心の中で呻く。
シェルニティは、本当に、ちっとも、まるで、わかっていないのだ。
彼女自身が、彼にとって、どれほど魅力的であるかということを。
「シェリー」
「え……っ……」
シェルニティが、小さく悲鳴を上げた。
彼女の腰を両手で掴んで持ち上げ、彼の足にまたがる格好で座らせたからだ。
向き合い、顔をつきあわせている形になっている。
彼は、シェルニティの腰に腕を回し、軽く引き寄せた。
シェルニティの頬が、ほんのりと薄赤く色づく。
「きみを誰かと比べることなんてできやしないさ」
「でも、あなたは……」
「私が、愛を知ったのは、きみが初めてなのだよ、シェリー」
それは本当のことだ。
けれど、やはりバツが悪くはなる。
「きみの言うように、いっとき私は欲望に身を任せていたがね。きみとのことは、欲望ではない。そりゃあ、まったくないとは言えないさ。きみは、とても美しくて魅力的だからね。だが、欲望だけではないから……簡単ではないのだよ」
「簡単ではないって、どういう意味?」
「欲望だけなら、もうとっくに、きみを押し倒している、という意味さ」
シェルニティが、瞬きを繰り返していた。
正直、とても恰好が悪い、と思っている。
本当には、こうした繊細な事柄は、もっとスマートに進めたかった。
だが、シェルニティに誤解させたままにはしておけない。
なにより、彼女に引け目を感じさせたくないのだ。
「そうだったの? あなたは面倒に感じているのじゃないかと思っていたわ」
「少しも面倒ではないが、確かに、初めてではあるね。これほど我慢するのは」
「なぜ我慢をしているのかしら? あなたには、その権利が……」
「それさ。それだよ、シェリー」
体を前にかしげ、こつんと額をぶつける。
そして、シェルニティの瞳を見つめた。
「婚約しているとか、婚姻をしたとか、権利だとか、そういう理由で、きみに私とベッドをともにしてほしくない。義務みたいに言われると、私も傷つくだろう?」
けして、シェルニティを責めるつもりはない。
彼女は特殊な境遇で育ったため、いろんな感情が未発達な部分がある。
知識としての「男女のいとなみ」と、彼の求めるものが違うとわからなくても、しかたがないのだ。
だからこそ、その「分からなさ」に、つけ込みたくはなかった。
本に書かれていることを正しいとしていれば、彼女とベッドをともにすることは簡単だっただろうけれども。
「義務……そうね、そう言われると、私も傷つく気がするわ」
「だから、きみは、勝敗にこだわる必要はないのさ。今まで女性とベッドをともにすることはあったが……」
少しずつでも、シェルニティの理解が追いついてくれればいいと思う。
仮に、新婚旅行中に、そうしたことがなくても。
「愛を交わすのは、きみが初めてだからね」
ふわんと、シェルニティの頬が赤く染まった。
それから、さらに、赤味が増す。
「あなたの率直さに私も誠実であるべきだと思うの。だから、あの……笑わないでほしいのだけれど……」
「きみにくすぐられても、笑わないと誓うよ」
「それなら言うわ。くすぐらずにね。私……最近、あなたにふれたいと思ったり、ふれられたいと思ったりするのよ。時々は私からも口づけたい、とか……これってやっぱり、はしたないことかしら?」
彼は、笑いはしなかった。
けれど、にっこりする。
「とても嬉しい変化だね」
「本当に?」
「今はどうだい? 私に口づけたいと思っていない?」
わざと、首をかしげてみせた。
シェルニティが、思わずといったふうに、にっこりする。
「私は慣れていないから、じっとしていて。それと、目も閉じてくれる?」
「目を閉じて、遺跡の石像よりも、じっとしているよ」
彼は、そう言って目を伏せた。
シェルニティの手が、彼の頬をつつんでくる。
唇の重なる感触に、鼓動が速くなった。
「これは、どうも……まいった」
「まあ、あなたったら! 石像より、じっとしていると言ったのに!」
「うーん、でも、これはしかたがないなあ。私も人なのでね」
今度は、彼のほうから口づける。
重なった唇から、答えが返ってきた。
きっと2人の結論は同じだ。
(新婚旅行先は、ローエルハイドのアドラント領ひと月コースに決まりだな)
この話は、ふわっとした主人公の成長も含め、書きたいことが色々とありました。
人が多過ぎて、分かり難くなるかもしれないと不安になりつつ、それぞれのカラーを感じて頂けますようにと思いながら、書いておりました。
完全シリアスで書いてはいましたが、重い話というより、せつない感じを出したいと思っておりました。




