悩みが深くて
彼は、2種類の書類を見ながら、考え込んでいる。
どちらにするかの最終的な判断は、話し合って決めるつもりだ。
とはいえ、自分の気持ちとして、どちらかを選んでおく必要はある。
どちらでもいい、というのが本音にあるとしても、無責任さからではないのだ。
(彼女が好ましいと思うのが、私にとっても望ましい。だが、私自身の意見を持たなくてもいい、ということにはならないな)
彼は、短めの黒い髪をかきあげる。
同じ色の瞳で、書類に書かれた日程を、再び、なぞっていた。
彼の「花嫁」であるところのシェルニティに、新婚旅行について、どうでもいいと思っている、などとは思われなくない。
おそらく、彼女は、そういうふうには思わないだろうが、彼自身の気持ちの問題なのだ。
丸投げしている感覚になるのが嫌だった。
とにかく、自分と彼女とのことなのだから。
(どちらも捨てがたいところだ)
1つは、一大観光地であるサハシーでの短期旅行。
短期といっても、日程は十日で組まれている。
サハシーは、ロズウェルド王国の観光地としては有名で、至れり尽くせり。
きらびやかな場所だけではなく、遺跡などを含め風光明媚な場所もある。
ただし、その分、値が張るのだ。
上級貴族ですら長逗留できないくらいに物価も高く、なににつけ金がかかる。
もちろん、彼は、金の心配などしていない。
ジョザイア・ローエルハイド。
現ローエルハイド公爵家の当主だ。
辺境地や、その周辺に自然災害並みの被害をもたらしても、それを復興させるに有り余る金銭的余裕があった。
ローエルハイドは特殊な貴族であり、ほかの貴族とは存在自体を異にする。
金など、彼にとっては、さしたる意味を持たない。
彼女が喜ぶのであれば、景観の良い小国を丸ごとひとつ買い取ったって、痛くも痒くもないのだ。
とはいえ、シェルニティは、そういうことを喜ぶ女性ではなかった。
彼女もまた、金には、ほとんど興味を持っていない。
畑仕事をしたり、魚を釣ったり、狩りをしたり。
金がないならないなりに、2人は暮らしていける。
暮らしに必要なものは、なんだって手に入るのだし。
彼は、特異な魔術師でもあるため、砂礫からでも素材を造ることができた。
そして、それを元にして、たいていの物は手造りする。
宝石だろうと、シルク糸だろうと。
ゆえに、サハシーで十日を過ごしても、なんら懐は痛まないのだ。
彼の迷いの原因は、そこではない。
もう1つの書類には、とある地方を巡る旅。
ひと月ほどの逗留の日程が組まれている。
のんびりとした、素朴な旅行だが、シェルニティに見せたい場所も多かった。
なにより、期間が長いのがいい。
(シェリーとの関係を進展させる機会とは言えるが……十日では短い。急な変化に戸惑わせたくはないしなあ)
シェルニティとは、毎夜、同じ部屋の同じベッドで眠っている。
が、それは言葉通り「睡眠」に過ぎない。
口づけはするけれども、それ以上の関係にはなっていなかった。
彼女は、貴族教育を受けているので、それなりに知識はあるはずだ。
だとしても、実際的なことは、なにも知らずにいる。
婚姻したからといって、あたり前のようにベッドに押し倒すのは気が進まない。
シェルニティを怯えさせたり、戸惑わせたりするのは、本意ではなかった。
ゆっくり彼にふれられることに慣れてほしいと思っている。
(とするならば、だ。やはり、こちらか)
のんびり、素朴な、ひと月を満喫する旅。
と、思うのだけれど、サハシーにしかないめずらしい物に、目をきらきらさせるシェルニティの姿も捨てがたい、と思ってしまうのだ。
旅行はいつでもできるが「新婚旅行」は、人生に1度きり。
思い出や記念に残るものにしたかった。
書類を両手に悩みつつ、彼は、口を開く。
視線は書類に落としたままだ。
「シェリーに、なにかあったというわけではないようだが、どうしたね?」
「あんたは、呑気をやってられて、いいよな」
ものすごく恨みがましい口調で言われた。
顔を上げると、ブルーグレイの髪と瞳の青年が立っている。
アリスタス・ウィリュアートン。
彼が懇意にしている、唯一といってもいい、公爵家の当主の兄だった。
普通は長男が当主になるものなのだが、アリスには致命的に礼儀の素質がない。
そのため、双子の弟リカラスが当主となっている。
公の場では使われることのないロズウェルド特有の「民言葉」でしか、アリスは話さないのだ。
というより、話せない。
昔からアリスは貴族言葉を嫌っていて、俗語とされている民言葉を好んで使っていたからだった。
「私は、これでも悩み深く過ごしているのだよ、アリス」
「あんたのせいで、とばっちり食ったオレよりマシじゃねーか」
彼は、ふと顔を上げる。
とばっちりという言葉に反応したのだ。
アリスは、あからさまに不貞腐れ顔をしていた。
今日、彼は、ひと月ほど過ごすことになるかもしれない地方の視察に来ている。
その間、森の家に、シェルニティは1人。
当然、危険を察知したり、彼女を守ったりするための魔術は施して出てきた。
とはいえ、あまりがんじがらめにしてしまうのも窮屈だ。
ほんの少しばかり不本意ではあったが、シェルニティお気に入りの「馬」だけは自由に出入りできるようにしてある。
アリスは、彼がいないのをいいことにして、シェルニティにベッタリしていると思っていたのだけれども。
「とばっちり、とは、どういうことだい?」
「どうもこうもねーよ」
よほど、へそを曲げているらしい。
アリスが腕組みをして、ぷいっとそっぽを向いた。
どうやら、シェルニティに「つれなく」されたようだ。
しかも、彼の「とばっちり」で。
「前から思ってたけど、よく平気でいられるよな」
「平気ではないさ」
「我慢できるってのを“平気”って言うんだよ」
「私は、シェリーを怯えさせる気はないのでね。きみのように即物的になれたらと思うこともあるが、そこまでの潔さの持ち合わせがない」
アリスが言っているのは、シェルニティと同じベッドで眠っていることに関してだろう。
もちろん、彼とて完全に「平気」なわけではない。
アリスの言う「我慢」が「平気」と同義ならば、平気と言えなくもないけれど。
(そういうことで、自分も“人”なのだと思うとは、驚きだ)
口づけを交わし、眠りにつこうとする前に、彼は、やはりシェルニティに、もう少しだけふれたい、と思ったりする。
それを「我慢」して、押し隠し、彼女に「おやすみ」を言うのだ。
シェルニティを前に、理性を維持するのが難しくなるたび、自分も「人」なのだと感じる。
愛する女性にふれたい、より親密になりたいと「人並み」なことを思ったりするのだから。
「過保護なんだよな。シェリーが怯えるかもって考えるくせに、怯えねーかもって考えはねーのかよ」
「私は、きみほど楽観的にはなれないものでね」
書類を魔術で王都の屋敷にある書棚にしまい、代わりに紅茶を出す。
アリスとシェルニティのことを話していたら、森の家に帰りたくなってきた。
紅茶を飲み終えたら、アリスは放っぽって帰ろうと思う。
「シェリーが気にしてたぜ?」
「シェリーが? なにを?」
「あんたとベッドをともにする時のこと」
がしゃん。
手からカップが滑り落ちて割れる。
アリスが呆れ顔で、目を細めていた。
「トーゼンだろ? シェリーは大人のオンナなんだぜ?」
その言葉にも反応できず、彼は、まだカップを握っているかのごとく、手を宙に浮かせていた。




