苦心惨憺
ユージーンは、ルーナの問いに、さして注意をはらっていない。
適当に答えているのではないが、深刻さは感じていなかった。
(俺に後ろ暗いことなど、なにもない。問われて答えられぬようなこともない)
そのため、毎日、聞かれても、同じ返答をするだけだ。
とはいえ、なぜかはともかく、ルーナが納得していなさそうだとは感じている。
ならば、納得するまで、この問答を続けるだけのことだった。
ユージーンにとって、なにより大事なのは、ルーナなのだ。
生まれてからずっと大切にしてきたし、これからも大切にすると決めている。
ルーナをあやすのは得意だが、泣いてほしくはない。
ルーナが泣くと、本当にどうすればいいのかがわからなくなり、あやすことしか考えられなくなる。
ユージーンには、少し間が抜けたところがあった。
だが、頭は悪くない。
むしろ、非常にいい。
にもかかわらず、ルーナの泣き顔だけは、あやす以外の対処法を見つけられずにいる。
大事に大事に、手塩にかけた育ての子。
そのルーナも、いつしか大人の女性となっていた。
とはいえ、彼女が、ユージーンとって誰よりも「大事」であるのは変わらない。
そして、ユージーンは庇護欲が強く、無自覚に振り回すところがある。
結果、未だにルーナの世話を、せっせと焼いていた。
王宮の私室の部屋の壁をぶち抜き、彼女のために湯殿を作らせるほどに。
おかけで、ベッドに入る直前まで、2人は王宮で過ごしている。
もちろん、ウィリュアートンのおかかえ魔術師に、ルーナの母に少しでも異変があれば、即座に連絡を入れるよう指示もしていた。
ユージーンは、すでにユージーン・ウィリュアートンとなっている。
2人の婚姻後、ルーナの父トラヴィスは、ユージーンに当主の座を譲った。
ルーナの母サンジェリナの傍にいたかったからだろう。
サンジェリナは、もうそう長くはないのだ。
あと1年か、もって2年と言われている。
屋敷にある2人の寝室に戻り、ベッドに腰かけた。
当然のごとく、ルーナは、ユージーンの膝の上。
またがってはいないが、横向きに座っている。
赤味がかった髪を、繰り返し撫でた。
濃褐色の瞳が、ユージーンを見つめている。
見つめ返しながら、思った。
(お前は、目がはっきり見えておらぬ時より、俺を見ていた)
ユージーンが、初めてルーナと会ったのは、ルーナのお披露目の夜会だ。
覗き込んだとたん、髪を掴まれた。
その時の、まだ鮮明には見えていなかったはずのルーナの瞳を、ユージーンは、今でも忘れずにいる。
あれから16年。
美しく成長したルーナは、ユージーンの妻となった。
が、外見はともあれ、中身は、それほど変わっていないと思っている。
ユージーンに、いつまでも甘えてくるところやなんかは、3歳の頃と同じだ
そんなルーナが可愛くて、せっせとルーナの世話をし、甘やかし放題。
ユージーン自身は、単に、本当に、ルーナが可愛くて、愛しいだけだった。
1度目の恋に破れはしたが、その傷を癒やしてくれたのもルーナなのだ。
ルーナがいてくれたからこそ、ユージーンは、敗れた恋を吹っ切れている。
なにしろ、ルーナの世話で忙しく、憂鬱になっている暇すらなかったので。
「ルーナ……ひとつ、お前に詫びておかねばならんことがある」
「新婚旅行のことなら、別にいいよ?」
「良いのか? 巷では、婚姻後の新婚旅行が流行っていると聞くが」
「ジーン、仕事が忙しいでしょ? それに、私もお母さまのことがあるし」
「む。そうであったな。長く王都を離れる時期ではないか」
婚姻後、半月ほどが経っていた。
本来、新婚旅行は、式が終わり次第、出かけていくものとなっている。
ローエルハイドで、同時に行われた2つの式を取り仕切っていたユージーンは、その辺りのことには詳しいのだ。
新婚旅行が先延ばしになったのを、ルーナが落胆しているのではないかと、少し心配していた。
「それに、5年経っても十年経っても、私たちは、ずっと新婚だもん」
「ルーナ、それは違うぞ。新婚と呼ばれるのは1年程度とされ……」
言いかけた口がふさがれる。
ルーナが、唇を「くっつけて」きたのだ。
3歳の頃から、ルーナには、ユージーンに口をくっつける癖があった。
婚姻を決める直前まで、ユージーンは、ルーナのそれを「口くっつけ癖」としており、口づけだと意識したことはない。
(婚姻した自覚がないのは、これのほうなのではないか?)
普通の貴族令嬢は、自ら口づけてきたりはしないものだ。
女性からの直接的に過ぎる行為は、はしたないとされている。
ルーナの貴族教育は、ユージーンが行った。
きちんと厳しく教えたとの自負はある。
「ダメだった?」
上目遣いで訊かれると、非常に具合が悪い。
軽く咳払いをして、ルーナから視線を外した。
「駄目ではない。だが、いかん」
「意味わかんない」
「お前は、今、どういうつもりで、口をくっつけたのだ」
ルーナが、きょとんと首をかしげる。
ユージーンからすると、明白な問いだ。
ルーナは、ユージーンの「嫁」なのだから。
「どういうって……ジーンのことが好きだからしたんだけど」
「なにをした」
「え? 口づけ」
ふう…と、溜め息をつく。
これだから「駄目ではないけれど、いかん」のだ。
ルーナには、きちんと教えたつもりでいたが、当時は実践まではしなかった。
どうやら、正しく学べていなかったようだ。
「ルーナ、お前がしたのは、口をくっつけただけのものだ」
「あ! また口くっつけ癖だと思ったんでしょ? そんなことないのに! 私は、口づけしたの!」
「いいや、違う」
ユージーンは、クイッと、ルーナの顎を持ち上げる。
そのまま唇を重ねた。
ルーナの、ただ口をくっつけるだけのものとは違う。
重ねた唇を軽く押しつけ、それから緩く噛むようにして重ね合わせた。
繰り返しつつ、舌でルーナの唇をなぞる。
濡れた唇からは、小さな音が聞こえた。
その音が、2人の唇が重なっていることを、明確に伝えてくる。
(む。これ以上すると、俺がもたん)
ちゅ…と、音を立ててから、唇を離した。
ルーナは、まだ目を伏せている。
頬が赤く色づいていた。
「ルーナ? もしや寝てしまったか?」
「寝るわけないでしょっ?」
ぱちっと、ルーナの目を開く。
ユージーンは頭はいいが、間が抜けていた。
そして、情緒というものも抜け落ちている。
だから、ルーナが余韻に浸っているという考えは、ちらとも頭をかすめない。
「これで、わかったであろう。口づけとは、口をくっつければよいというものではないのだ」
「そりゃそうだけど……教えてくれる人がいなかったんだもん」
これからは自分が、と言いかけて、やめた。
ユージーンには、ユージーンなりの「苦労」があるのだ。
毎夜、ルーナの髪を乾かし、着替えを手伝い、寝かしつけて。
毎朝、ルーナの髪を整え、服を着せ、食事をさせ。
ルーナに用がなければ、一緒に王宮の執務室で過ごしている。
が、しかし。
2人は、まだベッドをともにしていなかった。
2人の寝室ではあるが、ベッドで眠るのはルーナだけだ。
ユージーンは、少し離れた場所に置かれたカウチで寝ている。
「女からするのは、はしたないとか言うくせに、ジーンからしてくれることって、ほとんどないし。私が覚えられないのは、ジーンのせいだからね!」
ぷんすかとしたルーナは、ユージーンの膝から降り、布団にもぐり込んだ。
その姿を見て、ユージーンは、いろんな意味で「苦心」している。




