氷砂糖って冷たいもんやと思ってた
「梅雨まだ明けへんのか。もう8月やのに。今年は夏、ないんかな」
来週末まで、すべての枠が雨マークで覆われたテレビの天気予報を眺めて、涌井がぽつりと言った。
「甲子園もなくなったしな」
瀬尾が隣でカップラーメンをすすりながら返事をする。
新元号2年目8月1日。近ごろずっと、パッとしない曇りや雨の日が続いていた。
毎夏あれほど鬱陶しいはずのセミは、今年はまだ数回しか鳴かない。外に出ても、辛うじて汗ばむのは額や背中ではなく、マスクで蒸れた鼻から下だけ。
「けど明日、花火大会あるで」
「えっ?どこで?」
「あつ森」
「ああ…なんやねん」
ガチの花火大会行きてえ〜、とベッドで寝転がる涌井を横目に、瀬尾はスープに溶けたワンタンのひとかけらを飲み干した。
梅雨が明けたって、花火大会も海もプールもバーベキューもどうせ思いっきり楽しめないご時世なら、いっそこのまま晴れなくていいと瀬尾は思っていた。
「涌井、彼氏できた?」
「まさか。この状況で男なんか誰にも会ってないわ、ここ最近」
「そう」
「瀬尾は?」
「いや、私もおらんよ」
「まあそうよな。出会う気失せるよな、そもそもこんな自粛続きで」
そう言って涌井がへらっと笑うと、口元から2次元の吸血鬼のキャラクターみたいな、大きな八重歯がのぞいた。
瀬尾はこの八重歯が好きだった。普通ならコンプレックスで、矯正したいと思うはずのそれが、あくまでチャームポイントになりえてしまう彼の、そのルックスのずるさが好きだった。
今からちょうど2年前。涌井が瀬尾に別れを切り出し、10年来の男友達と付き合うことになったと告白したのは、確か今日みたいな雨の日だ。
あの時はもう秋だったけど。
瀬尾は女で、涌井は男で、2人は恋人同士だった。でも途中で涌井がその関係を諦めた。彼にとってのその役割は、もう瀬尾ではダメだった。
でも涌井は、その男友達とはつまらない理由であっさり別れていた。その後何人か付き合う男はいたけど、どれも本気とは言えないようだった。
瀬尾も涌井の後に付き合った彼氏とは、あまり長く続かなかった。
その後いろいろあって、2人はまた同じ部屋に住んでいる。ぼろアパートの六畳一間。あまりお互いのことについて話さない生活が続いた。
瀬尾がこの部屋にいる時の、妥協とかりそめの友情では取り繕いきれない、むせ返るような未練に、涌井はいつまでも気がつかなかった。
「私は涌井のメアリー・オースティンでいようと思ってる」
「なんやそれ」
「見てない?フレディ・マーキュリーの生涯最後のガールフレンドやで」
「ああ、あの映画な」
「うん」
お前ミーハーやもんな、と涌井が言いかけたとき、瀬尾が何かを差し出した。
体温計のような形の白くて細長い何か。真ん中には、赤い線が2本。涌井はそれがなんだかすぐに分かった。
2年前まで、ハラハラしながら2人で何度も見てきたものだ。
「瀬尾…これって」
「お先に」
「え?」
涌井が思わず顔を上げると、瀬尾は悲しそうでも嬉しそうでもなく、カップラーメンの底にへばりついたワンタンを箸で引き剥がすときのような、つまらなそうな顔で言った。
「お先にバイバイさせてもらうわ、あんたの人生から。この先あんたにとっての“何”にもなれない、不甲斐ない自分から」
もう1度一緒に住み始めた2人には、身体の関係はなかった。仮に瀬尾が涌井にそれを望んでも、涌井はそれを受け入れることはできなかったからだ。
だからこの赤い2本線は、涌井の“せい”じゃない。
「荷物は昨日で全部まとめ終わって、もう新しい家に持っていってあるから。なんか置き忘れてたら捨てといて。気が向いたら遊びにも来る」
「これお前、誰との…」
「ほな」
瀬尾は早口でそう言うと、空になったカップラーメンの容器を流しで洗って、台所のゴミ箱に捨てた。それからつけていたキーホルダーを鍵からを外し、その鍵を涌井に手渡した。
「…世界で3番目に、あんたのこと好きでいる」
瀬尾は、やわらかく笑った。そのタイミングで涌井のスマホが鳴る。ゲイ専用デートアプリのマッチング通知だった。
彼女が部屋を出て行った後で、涌井は散々泣いた。中身のたくさんあった箱ティッシュを、1つ使い果たした。