戦友後楽 前編
四月の末。神林希総は箱根女学院のバレー部の三回目の強化合宿に臨んでいた。
引き受けた時にはどうなる事かと思ったが、箱女のお嬢様たちは一様にマイペースで協調性に欠けるが個々の身体能力は高かった。
例えば、中学時代にテニスで全国大会に出場した娘も居た。
「何故辞めたのか?」
と訊いたら、
「大会は中学までと決めていただけで、別にテニス自体を辞めた訳ではありませんわ」
と返って来た。
家にテニスコートがあって、子供のころから普通に遊んでいたという。両親の出会いのきっかけがテニスで、それで家にコートを作ったらしい。
「そう言えば僕の家にもコートはあったなあ。別荘に、だけれど」
彼女にとってテニスは文字通りのスポーツ=楽しみなのである。長身で反射神経も優れているのでオポジットに据えた。
他にも、変わり種として日舞の家元の娘さんが居た。動きは一見するとスローモーだが美しく、希総のプレーを一目で正確に再現して見せた。飛んだり跳ねたりは苦手そうなのでリベロとして使う事にした。
基礎的な動きに関しては全員がクリアしたので、後はこのメンバーを率いるセッターの腕次第だろう。
最大の難点は高さが足りない事だが、
「バスケ部から助っ人を呼んであります」
とセッター兼主将の大久保姫佳(の名前で活動している妹の風間唯衣)が言う。
「代わりに向こうの大会でもこちらから助っ人を出す約束なんですが」
現れたのは石川姉妹。姉の一美が三年で、妹の三佳子が一年である。
「え、二は?」
と訊いたら、
「間に次彦と言う男の子がいるそうです」
と返って来た。
「一回戦の相手は決まったの?」
「はい」
差し出されたトーナメント表を見る希総。
「まさか本当に引き当てるとは」
箱女の一回戦の対戦相手は中央高校。島津桃華と姫佳の妹風間唯衣(実は姉の姫佳)のコンビが居るチームである。
「これで双子姉妹の対決が実現する訳だな」
実績のない両校の対決が世間的に注目されることは恐らくないだろう。問題は、
「勝った方が県内三強の一角である南高と当たる事に成りますよ」
箱女は未だ公式戦で価値が無い。中央もまだ二回戦を勝った事が無く、これが初戦となるシード校の南高としては籤運に恵まれたと思っているだろう。
「今日は最後の仕上げとして軽い練習試合をする」
相手はいわゆるママさんバレーのチームであるが、セッターを務めるのはあの西条沙弥加である。
「沙也加さんの隣の方は?」
と唯衣。
「君はまだ会った事が無かったかな。沙也加さんの義理の母親である志保美さんだよ」
「総志さんにそっくり、総志さんの方が母親にそっくりというのが正しいですね」
息子ほどではないが母親の方も女性としては長身だ。イケメンで既に箱女の部員たちに囲まれている。
「性格は全く似ていないけれどねえ」
「総志と同じ顔で女性に愛想をふりまかれると複雑な心境だわ」
と沙也加も苦笑する。
試合は、六セット戦って最後のセットだけ箱女が取った。
「最後はこちらの体力が限界だったわね」
と沙弥加。
「箱女の選手たちは実戦経験が圧倒的に足りていないから、いい経験になったでしょう」
何よりも、負け続けても最後まで戦う気力が途切れなかったのは評価してよい。
「お嬢様と言う人種は、基本的に考え方がポジティブなんですよ」
と唯衣。
「うん。それには同意するよ」
希総は自身の母を思い浮かべていた。
「あの、サインを貰えませんか」
石川姉妹が差し出したのは高校生時代の沙也加が総志が並んで表紙を飾っている雑誌であるが、
「私で良いの?」
姉妹が持っていたのはバスケ雑誌の方であった。インターハイの特集で、バレー雑誌とのコラボで二人のツーショット写真が表紙を飾ったのは六年前になる。
「サインそのものは断らないんですね」
と唯衣が笑う。
「あの頃には結構書かされたのよ」
と言って自分の写真の胸の辺りに名前を書き込む。
「私はこれを読んでバスケを始めたんです」
バレー雑誌の方と両方が並んでいて、偶々取ったのがこちらだったらしい。
「うちの父が海東高校の卒業生だったと言う事も有りますが」
県内で絶対王者と言われていた海東高校のバスケ部だったが、西条総志の登場によりその地位を南高に奪われていた。
「真ん中の次彦は海東高校に進んでいて、今年はベンチ入り出来そうです」
「それだと総志のサインは貰っても困るかしらね」
と沙也加は苦笑する。
「あ、いえ。貰えるのなら、弟は大喜びすると思います」
と言う事で持ち帰ってサインを入れて返す事になった。
数日後に行われた箱女と中央の試合はフルセットの末に箱女が念願の初勝利を飾ったが、午後に三強の一つ南高に完敗した。スタミナの問題もあったが、午前中に手の内を見せ過ぎたのだろう。まあそうしなければ初戦の勝利も無かった訳だが。
宮園政彦と結婚して新居を構えた姉の総美の所でちょっとしたトラブルがあった。神林の警護担当が仕事を果たしたようだが、
「商店街全体で警備契約を結びたいの」
「それは現場の担当に言って下さい」
役員が直接首を突っ込む案件ではない。
「そこはもう済んでいるのだけれど、町内会全体で検討したいと言う話になって」
「団体契約ですか」
あれは普通にやると物凄く時間が掛かる。
「では優秀な人間を送るように手を打ちましょう」
団体契約の交渉には事務担当と技術担当が組んで当たるが、最初の説明会で技術担当として帯同したのは希総本人だった。参加者は五十名ほど。町内が百戸ほどなのでおよそ半分。初回としてはまずますの参加率だと言う。既に商店街で共同契約の警備システムが機能しており、常連客には既に浸透しつつあるようだ。
初めに個人契約の説明が始まる。団体契約が纏まらなくても、個人契約が何件か取れればこの説明会は十分にペイするのである。
個人契約は玄関の監視カメラがデフォルトである。他に玄関のカギを交換し安全性を高めたり、家の周囲の塀の改築も請け負う。外周の構造と長さは契約額の算定基準の一つだが、面しているのが道路か隣家かで乗数が違う。道路は交通量その他の要因によって基準額が違う。幹線道路の面している方が警備上は安全とみなされ、逆に滅多に人の通らない道は乗数が上がる。周囲の塀の構造も単価の基準になるが、構造が強固なほど安全とみなされて契約の基準単価が下がる。そこで事前の補強工事が意味を持つ。工事が外注だが費用の一部は神林で負担する。補強工事のみで契約を結ばない事も可能だ。それだけでも宣伝効果があり、工事経費の一部が系列企業に入る。
共同契約の場合、外周の計算は全体で行う。カメラの設置は内側に道路が含まれる場合が対象だ。道路を挟んで両側に店舗が並ぶ商店街では判り易く入口にカメラが設置されている。このカメラは安全の為だけでなく客層の調査も行えるようになっていて、各店舗の販売データと連動して商店街の売り上げに貢献しているらしい。
団体契約の算定用件は外周の長さでは無く戸数、そして監視カメラの設置数である。町内へ入るメインルートへの設置はデフォルトだが、町内がぐるりと塀で囲まれていない限り完全な出入管理には成らない。そこで内側にも数カ所の設置が行われるが、これが同意書を取り付ける際に議論の的となる。外周に塀を設けるプランも存在するがあまりお勧めできない。内と外とを分断することで余計な緊張関係が乗じるので通常は逆効果になるのだ。
ここからが技術担当の仕事だ。希総が背後のホワイトボードに地図を広げて指し示した基準案は境界地点に七か所、内側に五カ所の計十二か所である。
「これは地図を見た上で最適化したモノですが、実際にはこうなりません。絶対に」
内側のカメラ位置に付いては今後の交渉によって決まる。家の近くにカメラが置かれるのは誰しも嫌だろうが、子供やお年寄りの迷子防止に一定の効果を発揮する。個人契約のカメラは玄関だけなので外に出てしまえば追跡できないが、外にカメラがあれば早期に発見して保護できる。
「この基準案は契約額の算定に使用されます。つまり交渉でカメラの点数がどれだけ増えてもそれに伴って追加料金は発生しないと言う事です」
希総が帯同したのはこの一回きりで、後は本業の技術担当が受け持った。希総は名乗らなかったが、総美や他の技術担当から漏れて、それが神林家の本気度を知らしめることになったのだろう。三カ月で同意書が規定数を越えて契約が成立した。
一か所で契約が成立すると、直ぐに隣接する町内会から問い合わせがあった。一年余りで郡内地方の各所に情報警備網が広がっていった。
自治体からもこのシステムを採用したと申し入れがあったが、既に社長になっていた希総はこれを断った。
「やりたいならまずは公約として打ち出して選挙で勝ってくれ。その場合でもうちはそれに参加しないし、技術の提供もしないけれど」
民間企業が営利活動として行う際には悪用すれば罰せられる。しかし行政機関がそれを行えばだれも止められない。神林は警備目的だが、公的機関は監視は目的となるだろう。捜査機関への協力も手続き書類が提示されない限り行わない。唯一の例外は、公安活動への協力だ。これは治安維持と言う点で目的が一致すると信じればこそだ。
七月。婚約者の掟の誕生日を祝うために希総は外での食事に誘った。神林邸でも外食並、それ以上の食事は出せるが、それだと掟が寛げないだろうと言う配慮だ。
「こんなもので良いの?」
掟が希望したのはラーメン屋であった。
「だって、神林家では絶対に出てこないから」
「うちの料理人に発注したら、本気で研究を始めると思うけれどね」
食事の後は散歩。正式な結婚をした後には気軽に出歩けなくなるだろう。先程のラーメン屋でも、希総の顔は認識されたであろうが、店主はそれを顔に出さない処世術を見せた。
「総美さんの一件は、同意書が過半数を超えたらしいわ」
「へえそうなんだ」
「え、報告は受けていないの?」
「途中経過を逐一報告なんかしてこないさ。僕の方からも強いて聞かないし」
「現場は御曹司案件だって張り切っているのに」
「それは悪い事をしたかな。僕としては現場の空気を体験したかっただけなのに」
食事を終えて周辺を散歩する。
「懐かしいな」
希総が足を止めた公園は、母の希代乃が息子の誕生を記念して作らせたらしい。一口の柱に刻まれた開設日は希総の誕生日であった。
「半分が神林家の土地で、残り半分は西条不動産が取りまとめたんだ」
それ故に公園の名前は希望の星。希代乃と希総の一字と同時に西条不動産の社長(当時)である美星からも一字が取られている。
「僕は小学校に上がったばかり。母さんはいつもの白いワンピースに日傘。僕は半袖半ズボンにこれ」
と言って首に巻かれた紐タイを指で弾く。本人も覚えていなかったが、父親が愛用していたモノをねだったらしい。総一郎はいざと言う時に武器として使えると言って、使い方まで伝授した。
二人は公園内を進み、砂場の傍にあるベンチに座る。希総君はベンチの埃を払い、掟の為にハンカチを置いてくれる。
「僕と母さんはここに腰掛けて、その時も砂場で数人の小学生が遊んでいた。そしてその母親たちが左手の木陰で談笑していた」
希総は母の許しを得て子供たちに声を掛けて混ぜてもらった。
「服を汚すから駄目、とか言うのは無かったのね?」
「多少の汚れなら、神林のメイドたちが落としてくれたし、破れたら父さんが判らないように補修してくれたな」
「あの方、そんなスキルもあったの?」
「子供服は全部父のお手製だったよ。下着類は流石に母さんが用意してくれたけれど」
それもオーダーメイドだったが。
「僕と入れ替わりに母親の一人が母さんの方へ歩み寄って何か話し掛けていたけれど、距離があって何を話していたのかは聞こえなかったな」
聞こえたとしても小学校へ上がったばかりの六歳の子供では覚えていないのが普通だろう。
都合よく、翌日は休日だったので、朝食で希代乃と一緒になった。食事の後で掟が話を切り出すと、希総は席を外した。
「僕が居ると母さんが話しづらいかと思って」
掟を通じて聞いた話は希総の想像の範囲内であったが、
「一つだけ訂正しておくと、私の服装はワンピースでは無かったわ」
上はブラウスだったが、下はジーンズだったと言う。希総は大人しい子ではあったけれど、子育て中はパンツ姿の方が多かったらしい。
「総一郎様はギャップが面白いと言ってくれたし」
と笑う。
「あの子が公園に行ったのはあれが初めてではないわ。乳母車に乗せて何度か連れて行ったのだけど、手を繋いで歩いて行ったのが初めてで、結果的に最後になったから強く記憶に残っているのでしょうね」
さて問題は希総が砂が遊びに興じている間の話だ。入れ替わりに母親の一人が希代乃の方へやって来て世間話を始めた。希代乃が座ったままであったことが癪に障ったのか、
「立ち入ったことをお伺いしますが、ご主人はどちらにお勤めで?」
と訊いてきた。
「私シングルなので」
と交わす希代乃に、
「実はこの公園には暗黙のルールがありまして」
と説明を始めた。
「実はこの公園には暗黙のルールがありまして」
と説明を始めた。要するに公園に集まるママたちの間にヒエラルキーが出来ていたらしい。神林の本体に勤めるものが最上位で、以下子会社の社員、非常勤、それ以外と言う具合だと言う。
「貴女も神林にお勤めですか?」
と希代乃が訊くと、
「私は専業主婦ですが、夫は係長です」
希代乃が日常的に応対するのは部長以上なので、名前を聞いても部署までは判らなかった。
「社員同士の上下関係は社内では必要だけれど、それが配偶者にまで及ぶと言うのは理解できないわね」
と希代乃が失笑する。
「もしかして希代乃さまではありませんか?」
このタイミングで遠くから様子をうかがっていた一人が話に割り込んできた。
「あら、私をご存じなの?」
「ええ。お話をしたことはありませんけれど、小学校で二級上だったものです」
初めの夫人は割り込まれて不満そうに、
「貴方より二つも下なの。見た目よりもお若いのね」
希代乃はそれをスルーして、
「私の小学校時代を知っていて、今の私を見分ける人は珍しいわ」
小学生の頃の希代乃はぽっちゃり体型だった。
「あれはもう六年も前になりますか、テレビのインタビューでお見かけしました。希総さまも大きくなられましたねえ」
「テレビって、この方は一体?」
希代乃はここでようやく立ち上がって、
「名乗りが遅れました。神林希代乃と申します」
ボスママはここで相手の正体を知った。不穏な空気を察した他の母親もぞろぞろと集まってきたが、取り巻きの一人が希代乃に突っかかって来て事態をさらにややこしくした。
「もしかして、わざと名乗らずにいましたか?」
と掟。
「普通は話しかけた方が先に名乗るものではないかしら。そう言えばあの方は夫の名前は出したけれど、自分の名前は最後まで名乗らなかったわね」
「若い未婚の母だと侮っていたら、実は遥かに格上の存在だと知ったのだから、さぞかし動揺したでしょうね」
「彼女は私の服装を見て値踏みをしていたようだけど」
希代乃の服ははすべて専属の職人に作らせたオーダーメイドの一点モノなのでブランドのロゴなんかない。見る目が有れば良い生地を使っていると判る筈なのだが。
「それで何か手は打ったんですか?」
「少なくとも人事には手を出していないわ。妻が夫の役職を笠に着て威張り散らすのはおかしいけれど、妻の私的なトラブルで夫が懲罰的人事を喰らうのも違うでしょう?」
希代乃は自身の権力を極めて抑制的に使う。素性を隠していたのも悪意はなく、媚び諂われるのが嫌だっただけなのだろう。
「公園での暗黙のルールとやらは止めさせたけれど、それとは別にその手のトラブルを炙り出すシステムは必要だと思ったわ」
「それが例の目安箱ですか」
神林では社内ネットで社長である希代乃に直訴できるシステムが構築されている。すべてを希代乃が読む訳ではなく、AI秘書が精査するのではあるが。
「まあきっかけの一つではあるわね」
世に神林システムと称される希代乃が主導した一連の経営改革の一翼である。例外的に希代乃一人が対処してきたが、希総が入社すると彼にもアクセス権が与えられ、試験的に案件処理が任されるようになった。希総は同期入社の腹心を現場に送り込んで状況を確認させたうえで対処していったが、それは後の話。