§8 「そういうところ律儀だよね」
僕は午後の授業は完全に上の空だった。
雲一つない快晴なぐらいに頭の中に何も入ってこなかった。
どうしても「人を殺したの……」と言った時の翡翠先輩の顔が忘れられなかったのだ。
翡翠先輩は確かに「冗談」と言っていたが、僕にはあれが「冗談」を言う人の顔には見えなかった。
~キーンコーンカーン~
6限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
僕は部活に行くために鞄に荷物を詰める。
いまの僕の心の中は、部活に行って真実を確かめたいとう気持ちが半分、全てを投げ出して帰ってしまいたいという気持ちが半分といったところだった。
正直なところ、部活で勉強をしたいという気分には到底なれなかった。
部活に行くとしてもそれは翡翠先輩に会うための何物でもない。
僕は席を立つと、鞄を肩にかけ、4階にある図書準備室へと足を向ける。
足取りは軽いわけではないが、向かうしかないとそういう感じだった。
僕は廊下に出る。
「ねぇ、しょーと」
後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くとそこには紅葉が立っていた。
僕は罰の悪さを感じて前に向き直ると、足早に歩みを進める。
「ちょっと待って! しょーと!」
今度は紅葉が大きな声を出しながら、僕の手を掴んできた。
僕はさすがに予想していなかった紅葉の反応に、つい向き直ってしまった。
「ちょっと……待ってよ……しょーと」
紅葉は消え入りそうな今にも泣きそうな声で僕に訴えかける。
さすがの僕もこんな悲しそうな顔を見せられたら観念するしかない。
「昨日は本当にごめんなさい。ちょっと昨日は感情的になっちゃって……。しょーとがあのことを気にしてるのはわかっていたのに……」
別に僕は怒ってるわけではない。ただ、どうしていいかわからなかっただけだ。
僕から謝るのも何かおかしい気もするし、普段みたいに接したくても、どうしてもうまくいかなかっただけなんだ。
「気にしてないよ」
僕はいまどんな顔をして紅葉と会話をしているのだろう。
自分ではこの感情をどう表現していいのか分からなかった。
この言葉も、僕の、僕なりの気持ちを全部乗せた言葉のつもりなのだが、この言葉では紅葉にはおそらく僕の思ってることの1割も伝わらないだろうと思った。
紅葉が不安そうに僕の手をぎゅっと握りしめる。
はぁ……。
「部活行くぞ」
僕はいま発揮できる精一杯の優しさをもって紅葉の手を引く。
「うん!」
紅葉の顔がパアッと明るくなるのが分かった。
「部活行く前に飲み物買っていかねー?昼から何も飲んでないんだよ」
「うんいいよ。じゃあ中庭の自動販売機行こうか?」
「そうだな。ここからならあそこが一番近いな」
僕は大事な幼馴染みを傷つけずに済んだだろうか、これでまたいつものように笑い合えるだろうか。
僕はそんなことを考えながら紅葉と中庭へと向かった。
「しょーと何飲む? 仲直りの印に奢らせてよ」
紅葉は自動販売機を指差してニコニコしている。
こういう紅葉の無邪気なところは嫌いじゃない。
僕なんかまだギクシャクしてる気でいたのに、紅葉の中ではすっかり仲直りなのだろう。
変に計算高い女よりも絶対こういう女の方がモテるだろうと、恋愛経験皆無の僕が言ってみる。
「いやいいよ。自分で買うし。あんまり奢られるのとか好きじゃないんだ」
「何そのこだわり。得するんだから別にいいじゃん」
「確かに金銭的には得をするかもしれないけど、気持ち的には得をした気にならないんだ。なんか申し訳ないというか、借りを作った気持ちになるというか、お返ししなきゃというか」
「ふぅーん、しょーとってそういうところ律儀だよね。まあいいや。じゃあわたしはこのこんにゃくゼリーにしよーっと」
「自動販売機にこんにゃくゼリーが売ってんのか」
「案外美味しいんだよ。美容にも健康にもいいし」
美容にも健康にもか。この発言を受けて僕の視線が自然と紅葉の胸に行ってしまうのは、男子諸君の一定の理解は得られるだろう。
紅葉は翡翠先輩のように長身ですらりとしているという感じではないが、胸元も含めて出るところは出ていて、むしろ女の子らしいと思ってしまう。
紅葉はそんな僕の視線など気にもせずに自動販売機にお金を投入している。
紅葉は幼馴染という点があるためあまりそういう目で見たことはないが、客観的に見ればかなりレベルの高い方だと思うし、告白した同級生を何人も知っている。
まあいずれも撃沈したという話であるが。
紅葉の特徴を挙げろと言われるとすぐには思い付かない普通の可愛い女の子だが、逆に可愛くて、無邪気で、巨乳であればまさに理想の女の子と言えるだろう。
紅葉がなぜ彼氏を作らないかは正直なところ謎でしかない。
「しょーとはどれにするの?」
「じゃあ僕はこれにしようかな」
黄色い缶コーヒーを指差す。
「あーこれマップスコーヒーじゃん。かなり甘いコーヒーでしょ」
「そうそう。まだコーヒーのブラックとかは苦くて飲めないけど、マッ缶は糖分が多目で脳が全然動かないなーってときに飲むと元気が出る気がするんだ」
「へぇー。しょーとってそういう迷信みたいの信じるんだ」
紅葉が首をかしげる。
「いや迷信じゃない。疲れたときには糖分、脳には糖分がいいというのは科学で証明されていることだ」
「そんなことより、知ってた? マップスコーヒーって千葉県限定なんだよ?」
「知らないな」
「はい。わたしの勝ちー」
紅葉が腰に手を当ててどや顔をする。胸が強調されているのはお約束だが、今日は胸を見る回数がたまたま多いだけだと自分で自分に言い訳してみる。
「マップスコーヒーは、確かに発売当初は千葉県、茨城県、栃木県を中心とした地域で販売してた商品だが、その後、販売地域が拡大し、いまでは全国販売されているという風に理解してたけど、まさか千葉県限定で販売してたとは知らなかったなー」
「うわ。なんとかぺディアかよ。性格わる」
紅葉は呆れたような目で僕を見る。
「正しい知識を教えてあげてるんだから感謝してほしいぐらいだな」
僕はこういうのが好きだ。こうやって自分の知識をひけらかすから、僕には彼女ができないのだと理解しているが、もうこれは性分みたいなものなのだろう。
「別にそんな性格になるんなら正しい知識なんかいらないし」
紅葉はあかんべーの仕草をする。
「ほら。部活行こうぜ。もう結構な時間だから遅れるぞ」
「やば。しょーと意味分からない雑学を喋ってるからこんな時間なんだよ」
僕は紅葉に叩かれながら図書準備室に向かった。