§7 「私ね……人を殺したの」
僕と糸魚川先輩は屋上のベンチに腰を下ろす。
柏應の屋上は、よくある「立入禁止」のような屋上ではなく、空中庭園のようになっている。
屋上の中心には花壇があり、その周りにベンチが配置されている。
そのため、屋上でお弁当を食べている人もちらほらいる。
まあこういう場所でお弁当を食べているのは大抵はカップルで、いま僕の視界に入るだけでも、3組はカップルらしい男女を確認することができる。
ただ、今日はそれほど人が多くないという印象を受ける。
糸魚川先輩は、お弁当をベンチの端に置き、くるくると包みをほどいていく。
「今日は快晴ですね」
とりあえず当たり障りのない話を振ってみる。
「君から天気の話題が出るとは思わなかったわ」
「どうしてですか」
「天気の話題をするなんて、意外なことに、デートのいろはをわきまえてるんだなーと思って」
「デートのいろはも何も、これがデートであることをいま初めて知りましたよ」
僕は袋からガサガサとまずはカレーパンを取りだし、一口目を頬張る。
糸魚川先輩はお弁当をつまみながらも、終始、上機嫌だ。
「君は『快晴』と聞いて何を思い浮かべる?」
「そうですね……僕は中学校のときに習った天気記号ですかね」
「どうして?」
「印象に残っているからですよ。ほら天気記号で、『快晴』は『○』で、晴れは『○』に縦線、曇りは「『◎』じゃないですか?僕は当時、「◎」が「○」よりも上って感覚があったので、なんで「◎」が曇りなのだろうと考えたことがあったからです。まあいま考えてみれば単純なことで、『○』の中に描かれた縦線や丸は単純に雲を表していたってだけなんですけどね」
僕は、あの頃の僕はなんて創造力が欠如しているのだろうと、笑って話す。
「素敵なものの見方ね」
糸魚川先輩が微笑ましそうに言う。
「何が素敵なんですか?」
「そうね。快晴が曇りよりも上だと思ってる考え方が好きかな」
「そうですか? 普通だと思いますけど」
「普通なのかな? 私は快晴も好きだけど、曇りも好きだよ。だからどっちが上かなんて決められない。確かに晴れてるのは気持ちいいけど、曇りが欲しい時もあるの」
僕は快晴がいいことだと決めつけていた僕よりも糸魚川先輩の考え方の方がよっぽど素敵だけどなーと思いながら、焼きそばパンの袋を探す。
「そういえば、どうして僕を待ち伏せたりしたんですか?」
僕は訝しげに糸魚川先輩に尋ねる。
「あら。先輩が後輩をランチに誘っちゃダメなの? 最近の後輩はノリがよくないなー。そう思わない? 大久野島翔斗くん?」
「その『大久野島翔斗くん』ってやめてくださいよ。わざわざフルネームで呼ばなくていいですよ」
「名前で呼んでほしいの? 思ったより可愛いこと言うのね」
「名前で呼んでほしいなんて言ってません。フルネームで呼ばないでくださいと言っているのです」
「じゃあ翔斗くんって呼ばせてもらおうかな? よろしくね翔斗くん」
糸魚川先輩はニコッと笑う。嫌みを言ったつもりだったが、これはなかなかの悩殺ものが返ってきた。
「じゃあ私のことも翡翠って呼んでいいわよ」
「そうですか。じゃあ遠慮なく翡翠先輩って呼ばせていただきます」
「あら? 私は翡翠先輩と呼んでいいなんて一言も言ってないわよ。『翡翠』と呼んでいいと言ったの」
実は糸魚川先輩は僕と思考回路が似てるのではないだろうか。
「ふふ。冗談よ。翡翠先輩で許してあげる。」
「先輩は冗談が多すぎですよ。どれが本当かわからないです」
「ごめんごめん。これからはちゃんと冗談のときは冗談って言うから」
ああ・・・この人は冗談をやめる気はないんだな。
「ところで翡翠先輩? 本当になんで僕のこと待ち伏せてたんですか? 何か用があったとかですか?」
僕は当初の話題に戻す。
翡翠先輩は少し困ったような顔をすると、
「いや本当に大したことじゃないの。なんとなく翔斗くんと話してみたいなと思っただけよ。だから大したことじゃないの」
「なんかその言い方逆に失礼じゃないですか?」
「なんで? 話してみたいなってすごいプラス表現だと思うけど。普通の男子だったら悩殺されているところよ」
翡翠先輩は、なぜか自分の唇を強調して、悩殺ポーズをとってくる。
「『話してみたいな』って伝えるだけで相手が悩殺されているなら随分とイージーモードな人生を送ってきたのですね。僕が失礼と言ってるのは『話してみたいな』と言っている他方で『大したことじゃない』をめちゃくちゃ強調しまくってるところですよ。」
「ふふ。じゃあせっかくだから、また1つ質問させてもらっていい?」
僕の言葉は瞬時に流される。
「なんですか?」
「翔斗くんは何でロー研に入ろうと思ったの?」
唐突に真面目な質問がきたので、僕は一瞬たじろいでしまった。
「入ろうとした理由ですか? 単純に昔から弁護士になりたいと思ったからですよ」
「どうして弁護士になりたいの?」
「困ってる人の役に立ちたいからですかね」
「困ってる人の役に立つには別に弁護士に限らなくてもいいのではないの? 例えば警察官とか消防士とか。医者や看護師という選択もあるし。それでいてなぜ弁護士なの?」
この人は本当に法律家に向いている。質問されているというより尋問されている気分になる。
「昔、僕は法律によって救われたことがあるんです。子供の頃のことなのであの頃は難しいことは分からなかったですけど、僕の心は法律で救われたんです。そのときの印象が強いというか……。まあいまでは目的と手段が逆転しているというか、何かをするためになりたいのではなく、弁護士になって何かをしたいになっていると言うか……。そうやってストレートに聞かれると難しいものですね」
「なるほど」
翡翠先輩は少し俯き加減になり考えるような顔をした。
考えるような顔とはどんな顔だと問われるとなかなか難しいが、目は開いているがその視線は何かを捕らえているわけではなく、頭の中のイメージを見ているようなそんな顔だ。
「最後にもう1つ教えて? 翔斗くんは弁護士になりたいの? それとも困ってる人の役に立ちたいの?」
僕は一瞬考える。
だが、僕の中では答えは一択に決まっていた。ただ、その一択という選択をしたことが、その一択を翡翠先輩に伝えることが適切かどうかを一瞬考えたのだ。
なんとなくこの質問には深い意味がある気がしたから。
「どっちもです。どっちかという二者択一では選べません。弁護士にもなりますし、困ってる人の役にも立ちます。困ってる人の役に立つ弁護士になりますし、弁護士になって困ってる人の役にも立ちます」
これが僕の答えだ。
翡翠先輩は少し驚いたような顔をしたが、すぐに満足そうな笑みに変わった。
「そっか。それがいいね」
翡翠先輩は弾むような声でうなずく。
~バタン~
屋上への出入り口のドアが閉まる音がした。
風だろうか。誰か屋上にランチを食べにきたが、引き返したということだろうか。
確かに今日の屋上は満員という訳ではないが、ある程度の人数はいる。
しかも、そのほぼ大部分がカップルだ。僕と翡翠先輩は当然カップルではないが、端から見たら男女が一緒にお弁当を食べているのだからカップルにしか見えないだろう。
僕が一人でお弁当を食べようと屋上に来てみたら、男女がベンチでわきゃわきゃしゃべってるなんて光景を見せつけられたら、そりゃ尻尾を巻いて引き返すだろう。
翡翠先輩もドアの音には気付いてはいるようだが、気にもしていない様子で卵焼きを口に運んでいる。翡翠先輩の手作りだろうか。
とりあえずは、何だか分からないが、翡翠先輩が上機嫌になってよかったと思った。
そういえば、僕も気になっていることがあったんだ。
この機会なので翡翠先輩に聞いてみよう。
「翡翠先輩。ロー研なんですけど、この前の説明会では先輩が全部仕切ってましたけど、他の先輩はどうしたんですか?」
質問をした瞬間、僕はこの質問はしてはいけない質問だったと後悔した。
なぜなら、いままで上機嫌だった翡翠先輩の顔からは表情というものが消えていたからだ。
「ひっ……翡翠先輩?」
「そうね……。確かにあの時に説明しておくべきだったわね。私の落ち度だわ。ロー研はね……私以外の部員は先輩も同級生も含めて全員辞めたわ」
翡翠先輩の言う「先輩」とは、「翡翠先輩の先輩」=現在の3年生、翡翠先輩の言う「同級生」とは、「翡翠先輩の同級生」=現在の2年生ということだろう。
翡翠先輩は尚も無表情だ。
無表情というのは何も考えていないという無表情ではない。
考えすぎて全ての感情を使い尽くしてしまったような本当の「無」表情だった。
でも僕は聞かずにはいられなかった。
「どうして他の先輩は全員辞めちゃったんですか?」
「……」
「……」
沈黙が流れる。
「私ね……人を殺したの」
僕は声も出せなかった。
人を殺した?翡翠先輩の言葉が何度も脳に反芻される。
どういうことだ。翡翠先輩……。
聞きたいことは山ほどあるが何を聞けばいいのかわからない。
僕は翡翠先輩をじっと見つめた。
「冗談よ」
「えっ? 冗談?」
「……冗談よ」
翡翠先輩は僕の方を見ずに、僕に聞こえるか聞こえないかの声で同じ言葉を繰り返した。
「みんなとはね、意見が合わなかったの。それでみんな辞めちゃった。部の方針についてね、私とみんなの意見が合わなかったの。そしたらみんな辞めちゃったの」
翡翠先輩の声はいつになく弱々しかった。
それからは僕も翡翠先輩も一言も発することなく黙々とお昼ご飯を食べた。
僕は途中で飲み物を買っていないことに気付いたが、この空気ではどうしても飲み物を買いに行くとは言い出せず、黙って焼きそばパンを丸飲みにした。
こんなにも味がしない焼きそばパンは初めてだった。
僕だって翡翠先輩には聞きたいことは山ほどあった。
ただ、これを聞くのは今ではないと思ってしまうほど、この沈黙は深かった。
~キーンコーンカーン~
午後の授業の予鈴が鳴る。
僕はこの予鈴を聞いて、正直なところ「助かった」と思ってしまった。
翡翠先輩はお弁当の包みをくるくると結ぶと、ベンチから立ち上がり、僕の方に優しい笑顔を見せて言う。
「このことはみんなにもちゃんと話すから。日はランチ付き合ってくれてありがとう。じゃあ部活でね」
そう言うと翡翠先輩はゆっくりと屋上の出入り口のドアの方に歩き出した。
僕は翡翠先輩の後は追わずに、ベンチに座ったまま空を眺めていた。
さっきまで雲一つ無かった快晴に、いつの間にか大きな雲がかかっていた。