§5 「不作為(しないこと)」
僕は教室の窓から外を眺めていた。
今日は僕の心とは正反対に雲一つない快晴だ。
いまは4時間目の現代文の時間
今日は朝から紅葉と口を聞いていない。
昨日あんなことがあれば当然と言えば当然だ。
口を聞いていないという表現よりは、会話をしていないという表現の方が正しいかもしれない。
怒りの感情というものがあるわけではないが、言い様のないモヤモヤした気持ちがまだ心の中を漂っていて、話したくても話すことができないのだ。
決して「口も聞きたくない」とかではない。単純に気持ちの整理ができていないということだ。
僕はなぜあんな態度を取ってしまったのだろう……。
能力のことは自分の中ではとっくに整理がついているつもりだったし、もう過去のことだとも思っていた。
いや、これも違うか。過去のことにしようと努力をしてきたという方が正しいかもしれない。
結局は僕は能力のことをまだ過去のことにできていないのだ。
そう。僕には物心ついた時から能力がある。
「特定の人に対して命令することができる能力」
しかし、その能力には大きな制約というか、特徴というものがある。
その能力は、相手に『作為』を命じることができず、『不作為』のみ命じることができるのだ。
「作為」や「不作為」という難しい言葉を使うと分かりづらいかもしれないが、例を挙げると「そこをどけ」というのが「作為」の命令、「そこを動くな」というのが「不作為」の命令である。
そして、僕は「そこをどけ」ということを命じることはできずに、「そこを動くな」ということしか命じることができないということだ。
これだけ聞くと、すごいようなすごくないような何とも言えない能力であることは理解してもらえるだろうか。
特殊な能力を持っている点で言えば、僕は確かにすごいのかもしれない。
この現代社会において特殊な能力なんてアニメの世界でしか見たことないし、僕だって僕自身がこんな能力を持っていなければ特殊な能力の存在など信じなかっただろう。
ただ、よく考えてみてほしい。
巷で流行っているアニメとかで、例えば、相手の目を見て「ルルー○ュ・○ィ・○リタ○アが命じる・・・死ね」と命じることや、「我に従え」、「道を開けろ」と命じることは全て「作為」すなわち「すること」「させること」に当たる。
つまり、命令というのは「作為」を前提にしていることが非常に多く、「不作為」すなわち「しないこと」「させないこと」という守備範囲は非常に狭いのだ。
この能力のことは小学校からずっと一緒だった紅葉も知っている。
いや正確に言っておこう。
この能力を知っているのは身内を除けば紅葉だけだ。
さて、なぜ紅葉が僕の能力を知っているかというと、それは単純に「僕の能力が発動するところを見られてしまったから」に他ならない。
もちろん、幼い頃とは言え、公衆の面前で能力を披露したことはないし、この能力を他の人に知られてはいけないという認識はあったので、今ほどではないにしろ、能力は極力使わないようにしていた。
幼い頃にこの自制心を会得していたとは、自分で自分を誉めてあげたいくらいだと僕はいまでも思っている。
幼い頃なんて中二病全開のようなものなのだから、「特殊な能力」なんて聞いたら使ってみたくてたまらないだろう。魔法の詠唱までしてしまうかもしれない。
ただ、幼い頃の僕はそこはしっかり思い止まっていたのだ。
そうでなければ、今ごろ僕は国の機関の研究室でモルモットにされているか、客寄せパンダにでもされていただろう。
確かにさっきは何とも言えない能力と言ったが、それは「アニメとかに出てくる能力と比較すると」という話だ。
作為であろうと、不作為であろうと、命令ができる能力というものが、この現代社会に存在すること自体が本当に危険なことなのだ。
幼い頃の僕も「危険である」ことを理解していなかったわけではないが、「危険である」ことを理解しているだけでは、この能力のことを何も理解していなかったに等しいのだ。
もし、幼い頃の僕がもう少しだけこの能力を理解していたのなら、僕にトラウマを残すことになったあの事件が起きることもなかっただろう。
僕はあの事件以来、この能力は使っていない。
~キーンコーンカーンコーン~
お昼の時間を告げるチャイムが鳴る。
僕はハッと現実にかえる。
やはり昨日のことが心に引っ掛かってるのだろう。随分昔のことを思い出してしまった。
僕は右目で紅葉の後ろ姿を確認し、教科書をそっと閉じる。
そして、購買のパンを買うために教室を出た。