§4 「その能力の話はするな」
「しょーと?」
ロー研からの帰り道、僕の横を歩く柏の葉紅葉が心配そうに僕の顔を覗き込む。
「ごめん。ちょっとぼぉーっとしてた」
今日は色々なことがありすぎて頭の中を少し整理する必要があった。
紅葉が図書準備室に入ってきてからというもの、誰かが号令をかけたかのように続々と新入部員が集まってきて、ほぼ定刻どおりにロー研の新入生への説明会は開始された。
ただ、正直なところ、説明会が始まる前の時間が濃すぎたおかげで、説明会の内容などほとんど記憶に残っていなかった。というより、刺激がなさすぎて印象にも残っていないという表現が正しいだろう。
記憶に残っているとしたら、どこの誰ともわからないやつが自己紹介をしていたという事実だけと、糸魚川先輩がロー研の活動は司法試験の勉強と法律相談が中心であると説明していたことぐらいだろうか。
それくらい糸魚川先輩と過ごした時間が衝撃的だったのだ。
「一緒に帰るのってなんか久しぶりだね」
紅葉が紅潮した顔を隠すかのように視線を少し下に向ける。
「そうだな」
僕はいま夕暮れの通学路を紅葉と一緒に歩いている。
僕の学校は千葉県の柏市というところにある。
「柏」といえば千葉県の中では人口も多く、栄えている町と言っても過言ではないと僕は思っている。
僕は学校は、その柏駅から徒歩20分。
歩くには少し遠いが、バスに乗るほどの距離でもないため、ほとんどの生徒は柏駅から歩いて登校する。
徒歩での登校も最初はだるいなーと思っていたが、いまではのんびりと通学路を歩いているのが心地いいと感じるくらいまでになった。
その理由がきっとこの大堀川の遊歩道だろう。
僕の高校の隣には、大堀川という川が流れており、川に平行して、歩行者専用の遊歩道が設けられている。
この遊歩道には車も通らない。言わば、僕たち歩行者の楽園なのである。昼間から道の真ん中を歩いていても誰にも迷惑をかけない。
春には規則正しく植樹された桜が満開となり、花見スポットとしても有名だ。
もちろん、この遊歩道も柏駅まで続いているわけではないので、遊歩道が途切れたところからは普通のビルに囲まれたアスファルトを歩かなければならないのであるが、僕はその点も含めて、都会と田舎がほどよく融合したこの学校の立地を気に入っていた。
「そういえば、なんで紅葉がロー研にいるんだ?」
「まぁねー。でも特に入りたい部活もなかったし」
「でも、お前法律とか興味なかっただろ?」
「法律はよくわからないけど、しょーとがいるならいいかなーって思って」
「おいおい。そんな適当な決め方でいいのか。お前、中学のときはテニス部で結構活躍してたじゃん」
そう。僕と紅葉は同じ中学校出身なのだ。中学校だけと言わず実は小学校も同じという実質的には幼馴染みたいなものである。
確かに本当に生まれた時からの付き合いというわけではないので、「そんなの幼馴染みでもなんでもないじゃないか」という異論は認める。
だが、親同士の仲が良かったというのもあって、小学校時代からよく2人で遊んでたし、一緒にお風呂に入ったこともある。
こんなにも幼馴染らしいエピソードがあるだろうか。
そして、神様は何を勘違いしているのだろうか。これだけならまだしも、僕は今年も、紅葉と同じ高校に通い、同じクラスに通い、同じ部活に通うことが確定したようだ。
腐れ縁というものにもほどがあるとさすがの僕でも思う。
神様はこのまま僕と紅葉に結婚しろとでも言うのだろうか。
「テニスー?もうテニスはやだよ。日焼けで真っ黒になるし。わたしは高校ではオシャレとかもしたいし、友達と渋谷とかに買い物も行きたいの」
「渋谷ではガングロギャルが流行ってるらしいから、ちょうどいいんじゃないか」
「いつの時代の話してるの? しょーとはわたしが黒焦げ女になってもいいわけ?」
「紅葉ならイケイケギャルとして時代を牽引していけると思ってるよ」
「ホントうざい。わたしは高校では文化系の部活に入るって決めてたの」
服装やオシャレなどに全く興味のない僕が言っても全然説得力がないかもしれないが、紅葉は十分にオシャレだと思う。
髪の毛は、ショートボブと言うのだろうか?肩よりも少し長いくらいにふんわりとまとめ、高校になって染めた明るい茶髪は、髪の毛を染めたことのない僕からしても似合ってるなと思わせるくらいだ。
首元には誰にもらったのかは分からないが銀色のペンダントを身に付け、耳にはハート型のピアス。制服のスカートも、もし紅葉の身長がそこまで低くなかったのなら、きっと男子は釘付けになってしまうだろうと思うぐらいに折り込まれていた。
「別にわたしはイケイケギャルなんか目指してないし」
「その割りには随分と髪の毛も明るく染めたんだな」
あっ気付いた?みたいな表情を見せた紅葉だったが、すぐに顔色を元に戻し、
「別に何部に入ろうとしょーとには関係ないでしょ。そんなにわたしがロー研に入るのが嫌なわけ?」
「そういうことじゃなくて、せっかくの紅葉の才能がもったいないなと思っただけだよ」
「何の才能よ。そういえば、説明会の前に糸魚川先輩と何話してたの?」
こいつ、もしや僕と糸魚川先輩の会話を聞いてたんじゃないだろうな。
紅葉はさっきのガングロギャルの会話から若干ご機嫌は斜めだ。
「ちょっと話してただけだよ。部室に早く着いちゃったもんだから」
「だから何をー?って聞いてるんだよ?」
紅葉は素早く僕の前に回り込み、僕の歩みを止めた上で、僕の顔をじっと覗きこむ。
「しょーとさぁ、糸魚川先輩にデレデレしてたでしょ」
紅葉は刑事かと思わせるぐらい鋭い眼光で僕の目を見つめてくる。
紅葉のことは普段は「こいつバカだなー」と思うことも多いが、時々鋭いことを言ってくることがある。
今回も図星をつかれて若干言葉を窮している。
「デレデレなんかしてねーよ。普通に自己紹介してただけだよ」
「『普通に』ではなかったよね?」
「『普通に』ではないってお前もしかしてずっと見てたのか?」
「わたしの名前は、柏の葉紅葉。この柏の葉高校の『柏の葉』に、『紅葉』って書いて『もみじ』と読ませるんだよ。うちの高校と同じ名前だけど、高校の理事長が私のお父さんとかいうよくあるアニメの設定みたいなことはありません。」
どうやら紅葉には、糸魚川先輩との会話の一部始終なんてものではなく、ほぼ全部見られていたらしい。
僕は紅葉の鋭い視線に負けて、足元に視点を落とす。
「お前……完全に聞いてたわけだな……」
「随分と糸魚川先輩に気に入られてたみたいね」
「からかわれてただけだろ。あの先輩はそういう人なんだよ」
今度は紅葉が足元に視点を落とす。
「しょーとは糸魚川先輩のことどう思うの?」
「……」
「……」
「いや綺麗な人だなとは思ったよ。勉強とかすごいできそうだし、リーダーシップもあるし、人望とかもありそうだし、ああいうのを高嶺の華って言うんじゃないのか」
「『綺麗な人』で『高嶺の華』ねー」
紅葉は少し不機嫌そうな声を出す。
「いやそれよりも変わった人だなとも思ったよ。急によくわからない質問とかしてきたりして」
「糸魚川先輩は学年でもトップの成績を誇る才女だし、分け隔てなくみんなに優しく人望も厚い。みんなが憧れる先輩だよ」
学年トップクラスの成績か。これもこれで「まあそうだろうな」と何も驚きはしない事実だ。糸魚川先輩にはそう思わせてしまうオーラみたいなものがあるようだ。
「まあそう言われても驚きはしないかな。話していて圧倒されてしまったというか、そういう感覚は受けたし」
「でも、不思議だと思わない?」
「んっ? なにがだ?」
「なんで説明会に上級生は糸魚川先輩しか来てなかったの?」
そう言われると確かにそうだ。
今日の説明会の趣旨は、確かに新入部員の顔合わせと、部活の説明だったかもしれない。ただ、それだからと言って上級生が部長一人しか出席しないというのもおかしな話ではないか。
「今日は新入部員の顔合わせなんだから別に先輩が全員同席する必要はないんじゃないのかな」
僕はなぜか紅葉に対して苦し紛れな言い訳をしてみる。
「普通さ、どんな後輩が入ってくるんだろうって見たくなるのが先輩ってもんなんじゃないの。それにさ、仮にしょーとの言ってることが正しかったとして、部長ってさ、3年生がやるものだよね? それなのになんで2年生の糸魚川先輩が部長をやってるの?」
そう言われてみると全て紅葉の言うとおりなのだ。
僕は紅葉に返す言葉が見つからなかった。
「だからね……わたしは糸魚川先輩には何かあると思うの。あの人なんか危険なんじゃないかって思ってしまうの」
紅葉が嫌み半分、心配半分で僕に投げかける。
「確かにロー研の上級生に何かあるんだろうなということはわかるけど、糸魚川先輩が悪いかどうかなんてまだわからないだろ」
「なんでそこまでして糸魚川先輩の肩を持つの?」
「それは……」
「そんなこといつものしょーとなら真っ先に気付くじゃない。どれだけ糸魚川先輩に御執心だったのよ」
「おい。ちょっと待てよ紅葉」
「そんなに糸魚川先輩が好きなら、例の能力でしょーとのこと好きにさせちゃえばいいじゃん」
「紅葉。その能力の話はするな」
僕は自分でも驚くくらい冷たい声を出していた。
僕の声は、この場を一瞬で凍りつかせるほどの十分な冷気を帯びていた。腕の鳥肌が一斉に立つのが見ないでもわかる。
紅葉も相当驚いたのだろう。
驚きと不安に満ちた目を見開いて僕の方を怯えるように見ている。
その目は少し潤んでいるようにも見えた。
怒ってなかったかと言えば嘘になる。僕は紅葉の糸魚川先輩への悪口についていい気持ちはしていなかった。
でもあの声の根源はそこじゃない。
「しょ……しょーと……」
紅葉は声にならない声を出す。
「……」
「……」
「ごめ……」
「悪い。一人で帰るわ」
紅葉はきっと「ごめん」と言おうとしたのだろう。
僕はその言葉を書き消し、目の前の紅葉をかわして足早に歩き始めた。
僕は振り返らずに真っ直ぐに通学路を歩いた。
僕の視界にはもはや何も写らず、僕の耳にはもはや何も届かなかった。
心が凍りついた感覚。これは、おそらく糸魚川先輩への悪口に対する嫌悪、紅葉の話を受け入れられなかった自分への怒り、トラウマが抉られたときの不安、さっきの紅葉の顔を見たときの悲しみ、紅葉の言葉を聞かずにあの場を離れてしまった後悔。
様々な感情が混ざりあった冷たさなのだろう。
いずれにせよいまの僕にはプラスと思える感情は何一つ存在しなかった。
僕はこの冷気を纏いつつ、帰りの電車に乗った。