§2 「自己紹介をするのが筋でしょ」
「あら? 新入生さんね」
女性は僕の方に向き直りながら、落ち着いた動作で、さっきまで読んでいた本にしおりを挟む。
僕はどうやら一瞬気絶していたようだが、女性の優しくも芯のありそうな声で、放心していた魂は今しがたお戻りになったようだ。
もちろん、本当に気絶していたわけじゃないのは僕だってわかってる。
ただ、それくらいの衝撃を受け、何も考えられない状態になっていたということだ。
「あなたが一番乗りよ」
女性は僕の目をまっすぐと見つめていた。
色白で端正な顔立ちをしたその女性は、線が細く、ニーソックスに包まれた足がすらりと伸びていた。座っていてもスタイルがいいのはよくわかる。
透き通るような大きな瞳に、少し切れ長な目。
髪の毛は黒く艶を帯び、肩よりもはるかに長いロングヘアーが大人な女性を彷彿させる。
心なしか口元はうっすらと微笑んでいるように見える。
僕の心臓がバクバク言っているのがわかる。
確かに綺麗な人に出会ってしまったら、僕らのような恋愛経験のほとんどないような男は、為す術もなく感服し、いまの僕のように心臓がバクバクして、言葉すら発することができないということはアニメやドラマで見たことがあるので知っていた。
しかし、実際にこんな感情になるなんて僕にとっては初めてのことだった。
そのため、余計に自分の感情がコントロールできず、同時にどうしていいのかわからなかった。
「どうしたの?」
女性は僕の心を読もうとしているかのように、真っ直ぐと僕の目を見つめてくる。
「あの……司法試験研究部ってここで合ってますか?」
僕は既にショートしている頭をどうにかフル稼働させて言葉を振り絞った。
女性は「ふふっ」と今度は先ほどの微笑みではなく、完全なる笑みを浮かべると、
「そうよ。ここは司法試験研究部の部室。図書準備室よ。今日はあと20分したら新入部員への説明会が始まるのよ。大久野島翔斗くん」
女性は笑みというよりも今度はニヤニヤしながら僕のことをからかうような目で見つめてくる。
僕は、ふぅっと息を吐くと、もう一度、図書準備室内を見回した。
なんだろう。さっきよりは時間の流れがゆっくりに感じられるようになっていた。
この女性によるテンプテーションの効果が少しばかり薄まったようだ。
これは、僕が回りを見回したことによって少し冷静になったという要因もあるが、この要因はあくまでも「少し」であって、「大部分」には他の要因があった。
この「大部分」が何かについては僕はすぐに気が付いた。
それは、この女性が完璧に僕が求めている回答を与えてくれたからだ。
[今日]、[この図書準備室で]、[20分後に]、[司法試験研究部の新入部員の説明会が始まる]こと。
これこそ正に僕が求めていた答えだったからだ。
「最適解」という答えが相応しいくらいに完璧な回答だった。
まるで僕の心が見透かされてるのではないかと錯覚するぐらいに。
ただ、それと同時に1つ疑問が浮かぶ。
[どうしてこの人は僕の名前を知ってるのだろう]と。
「あの……」
「あっ! 自己紹介がまだだったわね」
僕が声を出したのと同時に女性が声を出す。
あそこまで最適解が出せる女性だ。僕がしゃべり出すであろうタイミングを狙ってしゃべり出すことも造作もないことだろうと勘ぐってしまう。
「私の名前は糸魚川翡翠。新潟県糸魚川市の『糸魚川』に、装飾品とかに使われる宝石の『翡翠』で糸魚川翡翠よ。確かに糸魚川市の糸魚川だけど、私は別に糸魚川出身でもないし、両親は父も母も千葉県の出身よ。そして、私はあなたの先輩である2年生。このロー研の部長を務めているわ」
女性は長い髪の毛をくるくるといじりながら少し視線を下に向ける。
この人がロー研の部長?
僕はこの人のことを何も知らないが、部長と聞いても何の違和感も無かった。
むしろ「そうだろうな」ぐらいの感覚であった。
僕はこの女性に魅力を感じると同時に、畏怖?尊敬?感服?言葉を選ぶのが難しいが、要は「すごい人なのではないか」という心証を抱いていたからだ。
「あの。糸魚川先輩……」
「君。さっきから『あの……』しか言ってないよ。私が自己紹介したんだからあなたも自己紹介をするのが筋でしょ。大久野島翔斗くん」
糸魚川先輩はさっきの最適解のときのニヤニヤを更に取り越して、今にも吹き出しそうな顔をしながら僕の顔を覗き込むかのように首を傾ける。
これは恋愛経験の少ない僕でもさすがにわかる。僕は糸魚川先輩にからかわれているのだ。
そう思うと少し癪に障る。緊張してここまできた後輩をなんだと思っているのだという気持ちも相まって、少しムッときてしまった。
「先輩は既に僕のことを御存知のようですが、僕の名前は大久野島翔斗です。広島県の瀬戸内にある島と同じ『大久野島』に、空を『翔ける』、北斗七星の『斗』で大久野島翔斗です。ちなみに僕は広島には何の縁もゆかりもない生粋の千葉県民です。僕は今日からこのロー研でお世話になるために図書準備室まで来ました。改めましてよろしくお願いします。糸魚川翡翠先輩」
僕は言わば当て付けのように糸魚川先輩の自己紹介を真似て自己紹介をした。
そう。僕は根っからの負けず嫌いなのだ。挑発にはどうしても乗ってしまうところがある。
「あはは」
糸魚川先輩は椅子にどっかりと座ると、けらけらと笑い声をあげる。
何だかわからないが、どうやら僕の自己紹介がお気に召したようだ。
僕は糸魚川先輩のすらりと伸びた足から目を背ける。
「からかっちゃってごめんね。私は君とお話ができるのを楽しみにしてたんだよ? 大久野島翔斗くん」
「はあ……」
「ごめんね」と言いながらこの先輩は全然反省していない。その上目使いがいい証拠だ。
「さて、おふざけはここまでにして、せっかくの機会だし、部長として、君に1つ質問させてもらうね」
「なんでしょう」
この完璧な先輩から繰り出される質問とはある意味、入部の試験に等しいものではないかと身構えてしまう。あまりにも難しい法律の質問とかをされたらさすがに答えられる自信はない。
「よーく考えて答えていいからね。弁護士を志す者は常に思慮深くあらねばならない」
「もったいぶらないでくださいよ」
「せっかちだね。じゃあ、質問。この図書準備室は、なぜ『図書準備室』って名前なんだと思う?」