§1 「図書準備室」
僕、大久野島翔斗は、「司法試験研究部」の部室に向かっていた。
放課後の学校というのは実に気持ちがいい。日常では、なんだかんだ騒がしく、人でごった返している場所というのが学校だと理解しているが、「放課後」という修飾語を加えるだけで、人っ子一人いないのではないかと思わせるぐらい静かな学校という場所に様変わりする。
たまに聞こえてくる音も、せいぜい運動部の掛け声か、金属バットで野球ボールを打ったときの「キーン」という音ぐらいのものだ。
僕はそんな放課後の学校の静けさを楽しみながら、階段を昇り、4階にある教室を目指していた。
「放課後の学校の階段」と言ってしまうと、語感だけだと非常に薄気味悪いというか、どこかで聞いたことのある映画の影響か、お化けや幽霊が出てきそうな感じがするが、この学校の階段には大きな採光用の窓が取り付けられており、いまの時間だとまだ十分に明るい。
僕は、今春、晴れてこの「帝應大学付属柏の葉高等学校(ていおうだいがくふぞくかしわのはこうとうがっこう)」に入学し、今日、司法試験研究部に入部しようとしているのだ。
「司法試験研究部」とは、「将来、法学部に進学し、弁護士になるための試験、すなわち司法試験に合格することを目標に、日々法律の勉強をする部活」という、一般的な部活というよりも、「課外講座」とか「ゼミナール」に近い存在だ。
高校では、このような部活は珍しいだろう。
確かに法律の勉強をするという点では、人生において非常に有益な部活ということができるかもしれないが、他校には同様の部活がほとんどないということもあり、当然ながら野球でいう甲子園、ラグビーでいう花園のような大会というものが存在しない。
こんな言い方をしてしまうとせっかくの高校の青春時代がつまらないものになってしまうのではないか。そんな部活に入る生徒なんてほとんどいないのではないかと思うかもしれない。
しかし、実際には決してそんなことはない。
帝應大学付属柏の葉高等学校、通称「柏應」の司法試験研究部、通称「ロー研」といえば、近隣の高校界隈ではかなり有名で、過去には弁護士を何人も排出している名門だ。
僕は手元の紙に目をやる。
そこには、丸みを帯びつつも整った文字で「16:00~ 4階・図書準備室」と書かれている。
この「入部の御案内」と書かれた紙によると、今日の16:00~から図書準備室において、今年からロー研に入部する生徒の初顔合わせと、活動内容の簡単な説明があるようだ。
活動紹介のところには、「①司法試験の勉強」、「②法律相談」と書かれている。
端的というか、無機質というか、無味乾燥な入部案内だろう。
体育会計の部活などはキャッチコピーをでかでかと入れたりして、実に色鮮やかな入部案内だった。
おそらく、この入部案内に惹かれてロー研への入部を決めるものはいないだろう。
かく言う僕も、この入部案内に惹かれてロー研への入部を決めたのではなく、小さい頃からの夢である弁護士に本気でなりたいと思ったから、このロー研への入部を決めたのだ。
いやむしろロー研に入部するために、この柏應を選んだと言っても過言ではない。
弁護士を目指せば将来安泰だろうとか、弁護士ならきっとモテるだろうという打算が全くないと言ったら嘘になるかもしれない。
しかし、僕は、昔から比較的正義感の強い方ではあったし、ある事件がきっかけなのかもしれないが、法律で救えるものがあるのなら救いたい、少しでも困ってる人の役に立ちたいといつしか思うようになっていた。
そんなことを考えているうちに、僕は図書準備室の前までたどり着いた。
「図書準備室」と書かれたプレートが教室の扉の前に掲げられている。
時計を見ると15:40。
20分前。少し早く着いてしまったようだ。ただ、いくら早く着いてしまったとはいえ、僕が一番乗りということはおそらくないだろう。
さすがの僕でも、部活の初日で、初対面の人がたくさんいるであろう部屋に入るのは緊張する。手に汗握るというほどではないが、手の平がうっすらと汗ばんでいるのを感じる。
僕は一呼吸おいてから、図書準備室の扉を遠慮がちに横に引いた。
~ガラガラガラ~
想像していたよりも重い扉を開け、これまた遠慮がちに図書準備室の中を覗きこむ。
僕はさすがに全員が揃ってるだろうとは思ってはいなかったが、既に何人かの部員は来ているだろうと予想していた。そして、先輩とおぼしき人が新入部員の緊張を解こうと一生懸命に雑談を振っている姿を想像していた。
しかし、僕の予想と想像はかすりもしていなかった。
図書準備室には、1人の女性がこちらに背を向けて座っているだけだったからだ。
僕は一瞬部屋を間違えたのかと思い、教室のプレートを確認した。
「図書準備室」
間違いない。ここは確かに16:00からロー研の説明会の開催が予定されている図書準備室だ。
だとすると日にちを間違えたか。いや確かに入部案内には今日の日付が記載されていた。
様々な憶測が頭の中をぐるぐる回っている。
女性はどうやら僕のことに気付いていないようだ。
少し冷静になろうと図書準備室を見まわしてみる。
僕は、冷静さを欠く場面になった場合は、周りを見渡し、状況を観察し、情報を整理するように日頃から心掛けている。
図書準備室は見渡してみると、想像していたよりも狭い縦長の部屋。部屋の真ん中には、議論などのときに使うのだろうか。偉い人が会議をするときに使うような長い木の机。
そして、木の机を取り囲むように、木の机とはどう見ても相性が悪そうなパイプ椅子が配置されている。
壁際には、何やら古そうな本や難しそうな本がぎっしりと詰まった本棚が並んでいる。
僕は背を向けて座っている女性に目を向ける。
女性はおそらく本を読んでいるのだろう。視線を下に落としている。
机の上には、きっと壁際の本棚から取り出したのだろう。難しそうな分厚い本が何冊か置かれている。
ここまで完璧に気付かれないと、逆に声をかけるタイミングが難しくなる。
いっそのこと後ろから脅かしてやろうかなどと考えるほど、僕はお茶目なキャラじゃないし、高校生活もこれからだというのに「あいつやばい」という白い目で見られたくない。
ただ、これでは埒があかないので、僕は意を決して、恐る恐る女性の背中に向かって話しかけてみる。
「あのぉ......」
女性は、僕の声に気付いてくれたのか、さらりとした長い髪をかき分けながら、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
僕と女性の目が合う。
僕はこの瞬間をなんと表現すればいいのだろうか。時間が止まったようだとでも表現すればいいのだろうか、それとも、雷が落ちたようなとでも表現すればいいのだろうか。
僕は女性の目から目を離せなくなっていた。
なぜなら、その女性が言葉で言い表せないほど美しく、いまだかつて出会ったことがないほど僕のタイプだったからだ。