§13 「『§』ってマークは何?」
「法律とは、社会秩序を維持するためのものである。これを言い換えると,法律とは『人間の幸福を守るもの』ということもできる」
先生の授業は「みっちりしごいてやる」という言葉とは裏腹に実に淡々としたものであった。
いや、確かに法律の勉強というのは、すごい教授が教えるから面白いとか、科学のように実験があって盛り上がるとかいう類のものではないことを僕は知っている。
得てして、法律の勉強とは、淡々と、粛々と、無感情に、無感動に行われるものだ。
ただ、それでも僕のように法律の魅力に取りつかれてしまう人は一定数存在する。
僕のような人間は,1人で法律書を読んでいるときも知的探究心は留まることを知らず、1つ気になることがあったら,いろんな文献に当たって気付いたら朝になっているということもザラにある。
ましてや,今日は「法律の専門家」である先生の講義を受けられるというだけで、淡々であっても新鮮で、無感動でもなくむしろ感動的で,興奮がおさまらないというのが正直なところだ。
そんなことを考えながら左隣の紅葉に目をやると、これはこれで案の定であるが、目は虚ろで、時より船を漕いでいる。
「ほんとにこいつは」
僕は先生に気付かれないように紅葉の脇腹を肘で小突く。
「むにゃ」
一瞬はこっちの世界に戻ってきた紅葉も、また数分、いや数十秒後にはあちらの世界に戻ってしまう。
「おい紅葉、起きろ。先生にぶっ飛ばされるぞ」
僕は紅葉の耳元で小声で呟く。
「うぅーん。だって、難しい言葉ばっかりで全然わからないんだもん」
「まだ基礎の基礎じゃないか」
「そういわれてもなー。例えば黒板に書いてある『§』ってマークは何?」
紅葉は指でマークの形を宙に描く。
ああ、そういうことか。法律の初学者は僕らが当たり前だと思っていることも当たり前ではないのか。紅葉に言われてハッとする。
黒板には
§199
と書かれていた。
「あのマークはセクションサインって言って法律では条文番号を指す時に使うんだ。法律以外だと小説の章を表す番号として使うこともあるかな」
「ということはあれは『199条』って意味なの?」
「そうそう。いまは刑法の話をしてるから正確には『刑法第199条』の殺人罪についての話だよ」
「しょーとは何でも知ってるんだね」
「何でもは知らないよ。知ってることだけ」
どこかで聞いたことあるような台詞を僕はキメ顔でそう言った。
「そういえば、紅葉はセクションサインがなぜあの形『§』をしてるか知ってるか?」
「当然知らな〜い。形に意味なんかあるの?」
紅葉は不思議そうに首を傾げる。
「『§』は2つの『S』を表してるんだ。セクションとサインの頭文字をそのまま形にしてるんだよ。よーく見ると『S』が2個つながってるように見えるだろ」
「あーホントだ。言われてみれば確かに」
「些細なことにもちゃんと意味があるんだよ」
「なんかそこまで知ってると逆にムカつくよね。しょーとペディア」
「ごらっ!お前ら私のありがたい授業で無駄口とは何事かー!!」
と怒声と同時に、先生から物凄い勢いでチョークが飛んできた。
うわっ!!
チョークは僕の頬すれすれのところを掠めていった。
チョークを投げるとかいつの時代の先生だよ。
「すいませんでした」
「すいませんでした」
僕と紅葉はとりあえず頭を下げておく。
先生はふんっと鼻を鳴らすと,また黒板に何やら文字を書き始めた。
「わからないところは後で教えてやるからいまは静かにしておこう」
僕は恐る恐る紅葉に耳打ちすると、先生から配られたレジュメに目を落とした。