6
舗装された道を歩いていた。
道端には仰向けに横たわる蝉、遠くには陽炎。疎らに建つ背の高い建物に少し、狭められた空。
見上げれば一筋の航跡雲が伸びている。
そして薄暗いリビングと、薪の焚べられた暖炉。
湯気の立つ木製のカップを手に椅子に座り、赤く燃えるその火を眺め続けている。
異なる光景が左右に展開していた。
視界の右側は屋外で空を眺め、左側では椅子に座って暖炉の火を眺めている。
二つの光景は視界の中心ではっきりと線引されるようには映らない。
緩やかに波打ち互いの境を曖昧にしながら、それでも交わる事なく再生されている。
ここには理解できる音が存在しない。
本来聞こえてくるだろう靴音や暖炉の薪が爆ぜる音も、全ての音が何か重く粘性のあるものを通したかのように歪んでしまう。
これは夢だ。目覚めれば思い出すことのできない記憶の観賞。
だが意味はあるらしい。
ウェズを追う為に必要なものを自分なりに考えた末、自らの記憶を探る事が役に立つのではないかと奴との会話から考えた。
それには意味など無く無駄に終わるかもしれない。
だが僅かでも力になる可能性があるならやるべきだと強く思った。
記憶を取り戻す方法がないかとハールバルズに尋ねたのは、出会ってから一月ほど経ってからだ。
――思い出せない記憶は、決して無くなってしまったというわけではない。全ての記憶は魂に記録されている。
記憶喪失になった者は魂から肉体への記憶の通り道を失い、記憶を掬い上げる事ができない。
その道を作るための魔法をハールバルズがかけた。
この奇妙な夢は記憶の通り道を作る際に生まれる副産物だそうだ。
だがどれだけ夢を観たところで通り道ができない限り、眼が覚めても夢の内容を覚えておくことはできない。
夢を観ている間は僅かばかりの懐かしさを感じる一方で、身に覚えが無いとも何かが訴えかけてくる。
ハールバルズはこうも言った。
――君が思うよりずっと辛く苦しいものになるだろう。それでも途中で止める事はできない。
何があろうとウェズを追わなければならない。何を言われても躊躇うつもりはなかった。
必ずこの手に取り戻す。
そう決意し魔法をかけられてから、いったいどれだけの夢を見てきただろう。
今観ているこの夢は初めて観ているのか、もう何度も再生されたものなのかすら判断が付かない。
しかしこんな然もない夢にさえ苦しめられてきた。
左右に映像が展開しているというのは、二枚のディスプレイを並べて映像を見ているのとは訳が違った。
右眼と左眼それぞれに、違う人間の視界を放り込まれたところを想像してほしい。
左右の夢で同時に首が振られた時は、それだけで脳がかき混ぜられたかのように錯覚した。
出来の悪いVRが可愛く思えてくる。
この夢を見始めて随分と長い間、目が覚めると同時に嘔吐いていた。
そんな日々の中で、ハールバルズ達と奴を追い様々な場所へ行った。
その先では戦う事があった。何の収穫もない日々もあった。
そして、その全てが徒労に終わった。
だが皮肉な事に人は順応する生き物だ。
次第に脳は慣れ、気づけば起き抜けに嘔吐く事はなくなっていた。
この手に残されたものは、中途半端な睡眠と疲弊した現実。
あと何度、意味の無い朝を迎えるのだろうか。
戻る兆しを感じさせない過去と目覚めれば消えるこの夢の中の思考は、アルコールで飛ばす今の記憶と等しく無価値だ。
いつまでも覚めることのない現実に囚われ続けている。
――鈍く乾いた音が響いた。
眼を開くと辺りは暗く、窓から差し込む仄白い光だけが部屋を照らしていた。
扉の外には気配がある。迎えに来たメリアが扉を叩いたのだろう。
控え目に鳴く虫の音を煩わしく思いながら、重い体を起こしてランプを点けて扉を開く。
「どうした?」白々しく尋ねる。
「夕食ができたわ」
「そうか、すまないな」
そう言うとメリアは頭を振った。
「お客様を持て成すのはホストの努めよ。お腹は空いてる? 」
「あぁ丁度空いてきたところだ」
「良かった。じゃあ行きましょう」
歩きだした彼女に付いて行くと、扉の前に辿り着く。
扉を開ければ、部屋の中には暗褐色で厚みのある一枚板の大きなテーブルが並んでいた。
そのうちの一つに、木製のカトラリーと彼女が作ったであろう料理が並んでいる。
「テラはそこね」
勧められた席へと着き、改めてテーブルに並べられた料理を見る。
肉団子やトマト等の野菜が入った温かそうなスープ、白いチーズとサラダにパン。
そして嬉しいことに白ワインが用意されていた。
全て美味そうだが特に目を引いたのはチーズだ。とは言え、この中で一番美味そうというわけではない。
ブロック状にカットされ、質感はしっとりとしているが小さな穴が空き表面が少しざらついている。
この世界に来てから見かけたことのない種類のものだった。
「驚いたな。正直、もう少し質素なものを想像していた。それに何より美味そうだ」
「ありがとう。お口に合えばいいのだけど……それじゃあ食べましょうか」
そうして彼女は一呼吸程の間、眼を閉じ声に出さず何かを一言呟いていから食事を始めた。
「……祈らないのか?」
「もしかして気に触った?」
「いや俺も祈らないから大丈夫だ。ただ、珍しいと思っただけだ」
思わず小さな嘘をついていた。
実際、食前に祈らない者はいるし少数派であることは間違いない。
だがそういう者は得てして素行が悪いか世捨て人であることが多かった。
珍しいよりも意外だと強く思い、そしてそんな風に思った自分自身に驚いていた。
「食前の祈りを知らないわけじゃないわ。ただ……しっくりこないの」そう言って彼女は肩を竦める。
「気持ちはわかる。俺も似たようなものだ」この世界に来て数年経つが、摺り合わせができたものとそうでないものがある。食前の祈りはそうでないものの一つだった。
「なら私達、似た者同士ね」
そんな軽口をたたいてから食事に手を伸ばした。
期待に反する事無く食事は美味く、穏やかな空気の中で会話を楽しんでいた。
彼女は読書が好きだという。それならと旅の途中、何処かで聞いた話を掻い摘んで聞かせてみた。
呪いの果てに"竜になった男"
一つの身体に二つの魂を宿した"幸せな双子"
忘れられた"神々"
伝承なのか出任せなのかわからない話達は、彼女の好奇心を満たすことができたようだ。
そんな風に暫く雑談に興じているが、ずっと気になっていることがある。
この場所にあると思っていたものが見当たらない。
「ところであいつらはどうした?」
初めは途中でやって来るだろうと考えていたが、予想に反して一向に姿を見せない。
「先に食べたわ。今はたぶん……中庭で寛いでるんじゃないかしら」
荷物の確認をする前に見た、窓の外に広がるあの場所のことだろう。
「中庭か。部屋で休んでいる時に見たが、よく手入れしているな」中庭の様子を思い浮かべながらスープに入っていたトマトを口へ運ぶ。
すると彼女は「ありがとう。今貴方が食べたトマトもあそこで育てたのよ」と言いながら悪戯が成功したかのような笑みを浮かべた。
「それは凄いな……このチーズも君が作っているのか?」
「えぇそうよ。お味はいかが?」
「旨い。塩気がこのワインとよく合っているし正直に言って、かなり好みだ」
「それは良かった。けっこう楽しいのよ? チーズ作り。……まぁここでできる数少ない娯楽みたいなものね」
笑ってこそいるがその表情はどこか自虐的に映る。何か思うことがあるのだろう。
そんな彼女には悪いが、この話題は話の流れを変えるには丁度よかった。
「数少ない、か。そういえばこの家には君達以外に誰か住んでいないのか?」
「ここには私達以外、誰もいないわ」
「じゃあこの近くはどうだ? 他の岩の頂上にも建物が幾つかあったはずだが」
目覚めた湖から平原を超え、ここへ来るまでの間ずっと周囲を観察していたが人を見かけることはなかった。
そして奇岩群の頂上に点在する建物以外に建造物はない。だが遠くから見た限り、そこに人の営みは感じられなかった。
すると彼女は「あそこにも誰もいないわ。言ったでしょう? ここには私達以外、誰もいないって」と頭を振った。
「でもたまに迷い込んでくる人がいるの。貴方みたいにね」
「観光目当てで遭難するような間抜けが?」
「そうね、そういう人もいるわ。それに盗賊とか、あと自殺志願者とか。正直に言うと、貴方はそういう類の人かと思ったの」
「盗賊だと?」
「悪いけどそっちじゃないわ」
「どちらがましかは一先ず置いておくとして、何故そう思った?」
「何となく、ね。――あぁこの人はきっと生きる気がないんだろうなって」
かなり失礼な事を言われているが、腹が立つことはなかった。
ただ一言「酷い話しだ」と呟くように言ってからワインへ手を伸ばす。
「ごめんなさい。でも知ってるかしら? 私、貴方の命の恩人なの」首を傾け上目遣いで此方を伺い始めた。
「あぁ。勿論知ってるとも」
「ついでに家に招待してご飯だって用意してるわ」
「あー、すまない。本当に感謝している」至れり尽くせりとは正しくこの状況をいうのだろう。
「私が好きでやってることだから気にしないで。ただ――」
「ただ?」
「今まで助けた人達は、お礼だって言って色々くれたわ」
助けたその代価を寄越せということだろう。
「メリア、一つ謝らないといけないんだが」
「何かしら?」彼女はどこか楽しげに見える。
「俺は何も持っていない。荷物の中身を全部見せてもいいし神に誓ってもいい。礼をしたいのは山々だが、渡せる物がないんだ」
「祈らない人の誓いに、どれだけの意味があるのかしら?」
予想外に痛いところを突かれてしまった。何かないかと考えるが何も浮かんでこない。
「……誓いは忘れてくれ。だが本当に何も無いんだ」
そう言うと彼女は「大丈夫、ちょっとした冗談よ」と彼可笑しそうに笑った。
「そうか。じゃあ俺を助けたのは只の善意からということか?」
「えぇそうよ。何か理由がないと駄目かしら?」
「そんなことはない。だが生きてるご飯と呼ばれたら、理由がないと思う方が難しいな」
瞬間、彼女は息を呑んだ。
そして黙ったまま此方を見つめている。これは暫くこのままだろうかと思った矢先「……起きてたんだ。テラは意地悪ね」と、あまり間を置かずに返してきた。
「言い訳せてもらうがあの時は君が来る直前、たまたま眼が覚めたんだ。だが直ぐにまた気を失った。だから顔は見ていないし、正直どんな声だったかもはっきりと覚えていなかった」
「鎌をかけたってこと?」
「悪いがそういうことだ。だが君で間違いないだろうとは思っていた。確証はなかったがな」確証は無いが彼女以外の可能性は限りなく低かった。
「やっぱり意地悪」彼女は再び微笑んだ。だが先程までとは違いどこか、乾いているように映る。
「そうかもな。それで、君は俺をどうしたいんだ?」
そう尋ねると彼女は何故か、先程よりもはっきりと驚愕の色を浮かべた。
だがそれも束の間、次第に眉をひそめその眼に呆れたきった光を宿す。今度こそ言葉を失ったようで、何か逡巡しているかのように見える。
どうしたものかと暫く様子を伺っているとやがて一言「貴方ってほんと、おかしな人ね」と呟いた。
「どうしてそう思った?」
「私は認めたわ。生きてるご飯って言ったことを。なのに貴方、まるで態度が変わらないじゃない」
「大して気にしていないだけだ。……話を戻すが、俺を助けた理由はなんだ? 本当に食料にするのか?」
改めて尋ねると彼女は視線を落としそっと眼を閉じた。
そして深く息を吐き顔を上げ、テーブルの上で手を組み此方を見据えた。
「お願いしたいことが二つあるの」
「お願いしたいこと?」
彼女は視線を逸らさず変わらない様子でそのお願いを口にした。
「一つ目は、私をここから連れて行ってほしい。貴方に付いて行きたいの」
それが聞こえた瞬間「駄目だ」と言いそうになったが何とか堪えた。
想定外のお願いに頭を抱えたくなる。正直に言ってしまえば、食わせろと言われた方がずっとましだ。
会話ができる事は時に余計な面倒を呼び寄せる。
「……もう一つは?」
「もう一つは……そうね、その話をする前にちょっと昔話に付き合ってもらえないかしら? その後で話すわ」
そう話す彼女は相変わらず視線を逸らす事はない。
「知ってほしいの。私のことを。それから選んでほしい……どうするかを」
だがテーブルの上で組まれた小さな手は微かに、震えていた。




