第二話
6
宏は家に帰ると父、雄太と話をするべくPCの前に座った。マイクの付いたヘッドホンを被ると無料通話のアプリを起動させて雄太の項目を選んだ。
程なくして父が出た……だが、開口一番、宏に伝えられたのは聞きたくない言葉であった。
「悪いな……宏、こっちで事故があってな……帰国が延びそうなんだ」
「……えっ……」
「モンスーンの影響で川が決壊して橋梁の一部が破壊されたんだ。それで、補修工事にひと月程度は必要になる……」
雄太の物言いは沈んでいたが、予定の変更はやむを得ないという意図が窺えた。
「……すまんな……」
雄太自身も予期せぬ事故でかなり追い込まれているようでその声色は疲労感が滲んでいる。
「ところで、医者は何て言ってる?」
娘の由香を心配した雄太が発言すると、宏は由香の病状を雄太に報告した。
「そうか……様子を見る他なさそうだな……」
原因不明の状況であったが生命の危険がないことに雄太は若干ながらホッとした声を出した。
「お前のほうはどうだ、学校は?」
「マズマズだけど……」
宏は自分自身の自律神経の異常を隠してそう答えた。
「そうか、お前には迷惑をかけるな……」
淡々とした口調で必要なことしか言わない父であったが、内心は穏やかでないのが語尾のトーンに出ていた。
「じゃあ、また明日な……」
父はそう言うと通信を切った。年頃の少年とその父親との会話というのは朴訥としたもので、それだけだったが親子間の距離感とはそんなものである。
宏は電話を終えて大きく息を吐くとベッドに身を投げ出した。
「また、あの夢、見るのかな……」
宏は昨日のことを思いだしてゾッとしたが睡眠を要求する本能には逆らえず、知らぬ間に眠りに落ちていた。
*
宏が目を覚ますと翌日になっていた。
「夢、見なかったな……よかった……」
得体の知れない存在に追い立てられる夢に内心おびえていたが、どうやら昨晩はそれを見ずに済んだようだ。睡眠をたっぷりとったことで宏の体調はすこぶる良く、ここ4,5日では考えられないような爽快感があった。宏は飛び起きると時計を見た。
「まだ朝の5時か…もうちょっと寝れるな」
宏は惰眠をむさぼるべく再びベッドに潜り込もうとした……だがその時である、宏は視野に入った照明に妙な感覚を覚えた。
『……なんかおかしい……』
宏がそう思った瞬間であった、見つめていた照明が歪み、ありえぬ形へと変貌した。
≪こんばんは≫
宏は聞き覚えのある声に驚愕した。
『これ……』
宏が震える声を出した時である、照明の合った空間が歪曲しそこから何かが現れた。それは目に見えぬ存在ではあったが、はっきりと感知できるものであった。
宏は思った、
『間違いない……昨日の……奴だ』
空間のひずみから現れたソレは口だけを現すと宏にむけて笑いかけた。
≪今日で、お、わ、り、って言ったでしょ≫
ソレは楽しげにそう言うと宏にサメのような幾重にも重なった歯を見せた。
『これ……夢なのか……』
宏はベッドをがばっと跳ね起きると、玄関に向けて走った―――命を懸けた逃避行の始まりであった。
*
玄関の扉を開けた先は思った通りの世界であった。この一週間、宏が精神的苦痛を与えられた空間である。禍々しい空気、歪んだ大地、五感を錯覚させる雰囲気、不愉快極まりない空間が宏の前に展開した。
『悪夢の世界だ……まだ夢を見たままなんだ……』
宏はそう自覚すると、今までの経緯から夢世界から脱出するべく『光』をさがした。
『あの光をみつければ……この世界から、逃げられるはずだ……』
夢世界からの唯一の脱出方法は『光』に触れることである、そうすることで宏はこの世界から抜け出して、現実の世界で覚醒することができた。
『どこだ……どこにあるんだ……』
宏は必死になって『光』を探した。
そして……
『あれだ、あそこだ!!』
宏はうっすらと輝く光柱の存在に気付いた。
『あそこに行けば……』
宏はそう思うと光柱に向かって駆け出した。
だが、その背中に呪詛の言葉が投げかけられた、
≪逃げられると思ってるのか……≫
その言葉が耳に入るや否や宏は体の自由がきかなくなるのを感じた。
『何だ……一体、何なんだ……』
宏は足が前に進まなくなるのを感じた、まるで自分の足がコンクリートのかたまりになったように。
『クソッ……こんな所で……』
宏は足を引きずるようにして前に進もうとした。
≪無駄な、あがきだ……この世界からは逃げられない≫
ソレは男か女かもわからぬ声でそう言った。
≪しかし、美味そうだ……お前の心は≫
ソレはそう言うと宏の前に回り込んだ。
≪もう我慢できない……食べたいんだ……≫
ソレは声を震わせて歓喜にむせぶと宏の前に姿を現した。
『お、お前は……』
宏の前に現れたのは見覚えのあるモノであった。それは妹の絵に描かれていた異形の者であった。
≪もう、遅い、お前は食べられるしかないんだよ~≫
たどたどしい口調でそう言うと異形者は大口を開けた。夢の世界でも影があるのであろう、異形者の影は宏の影と重なりあった。
『嫌だ……死にたくない……』
宏は何とか逃れようと手足を動かそうとした。
≪あがけ……そのほうが美味くなる……≫
異形者はそう言うと大口を開けて口から唾液をこぼした、夢にもかかわらず宏の嗅覚には不快な異臭が飛び込んくる。
『クソッ、死ねるか、こんなところで……』
生に対する本能が宏の体に訴えかける、
『……まだ……何もしてないんだ!!』
宏はそう思い、再びその足を動かそうとした。
*
だが……体は動かなかった、見事なほどに……そして、宏の中で絶望が生まれんとした。
≪苦しみは、蜜の味、もっと、もっと、もがけ!!≫
異形の者は首を360度回転させると、悦びの声を上げた。
≪苦しんで蜜を絞れ、苦しめ……≫
異形の者が二の句を告げようとした時であった、夢世界に耳をつんざくような爆音が響いた。宏は何かと思い大きく目を見開くとその眼の前には……なんと異形者の腹部に穴が穿たれていた。
宏は何が起こったかわからずただ茫然とした。
『一体……どうしたんだ……』
宏が状況を確認しようと辺り見回すと、その視野に1人の少女の姿が映った。
『何だ、この娘は……』
宏は視野にとらえた少女の容姿に思わず息をのんだ。
7
焦げ茶色のブーツ、紺の行燈袴、赤い矢絣の小袖、一見すると大正時代の女学生のように見える。
だがその左手に握られたものは女学生の持つ物ではなかった。
『……ショットガン……』
少女の左手に握られていたのは水平二連式の散弾銃であった。全長70cm、黒光りする銃身、蒔絵と螺鈿が施された銃床、二本の引き金、一見すれば雅な工芸品にも見える。だがその銃口から上がる煙はそれが玩具でないことを知らしめていた。
少女はそれを片手で軽々と持つと照準を定めた。
『俺を狙ってるのか……』
宏は自分に向けられた銃口に恐れをなした。
その時である凛とした声が瘴気渦巻く夢世界に響いた。
『頭を下げろ!!!』
少女はそう言うと容赦なく引き金を引いた、再び爆音が耳をつく、宏は自分が撃たれたと思った。
宏が恐る恐る目を開けると先ほどの娘が目の前に立っていた。
『弾は当たっていない』
少女はそう言うと座り込んだ宏を一瞥した。
細いおとがい、透明感のある白い肌、すっと通った鼻梁、一つ一つのパーツもさることながらそのバランスは絶妙であった。
『何、この娘……超、かわいい……』
宏は不謹慎にも目を奪われたが、窮地を救ってくれた少女にとにかく感謝の言葉をかけようとした。
『あの……ありが…と…ござい……』
言い終らぬうちであった、再びショットガンが火を噴いた。耳元で炸裂するショットガンの銃声に宏は棒で殴られたような衝撃を受けた。
『お嬢、左だ!』
『わかってる!!』
お嬢と呼ばれた少女は帯の上に巻いたガンベルトから弾薬を取り出すと慣れた手つきで弾倉に送り込んだ。
その動きには微塵の遅滞もない。元折れ式のバレルから薬莢を振り落すと、素早く弾倉に新たなショットシェルを送り込んだ。流れるようなその動作は優美であり華麗であった。
宏はその姿をポカンとした表情で見つめるほかなかった。
夢の中で異形の存在に襲われた宏でしたが、間一髪のところでショットガンを手にした少女に助けられます。
宏を助けた少女は一体、何者なんでしょうか? 宏の味方……それとも敵なんでしょうか……