レゾンデートル
闘技場は騒がしかった。観客は、下層、中層、上流階級の階層に分かれて、それぞれ大声を発している。
円形闘技場にいた金髪碧眼の無精髭を生やしたグナウエスは、厚みがある特注十五キロのバスタードソードを構えている。
眼前にいる獣は猫に似ていながら、圧倒的に違う。体躯は人の腰を抜かすほど大きく、喉元から搾り出す唸り声は奥歯をガタガタと震わせる。飢えに飢えを重ねた猛獣は、ライオンと呼ばれているらしい。わざわざ遠方から犠牲者を出しながらも生け捕りにしたそうだ。
ライオンは機を伺う様子もなく襲ってきた。飢えた獣には理性が働いていなかった。一振りで頭をもげさせようとする右前肢を躱し、グナウエスは左側面から袈裟斬りにする。
それでも致命傷になり得ないので後方を返す刃で斬る。
しかし、飢えた獣は痛みよりも食欲を優先したので、だから再び斬る。弓なりに斬る。半歩下がって斬る。一文字に斬る。かち割るように斬る。跳躍して斬る。躍るように斬る。すくい上げるように斬る。前肢を狙って斬る。叩き込むように斬る。
ライオンは吐血していたがそれでも動いたので、ことさら撫で斬る。
抗えようとするなら、尚更一刀のもとに斬る!!
そこで、ライオンはようやくよろめいて倒れたのでグナウエスは構えを解いた。床は血の池と飛沫が紅く染めていた。百獣の王の陥落だった。
円形闘技場には拍手喝采の嵐が巻き起こった。
グナウエスは目を細めて、太陽を見上げた。
目に映る太陽は紅かった。
地下に足音が響く。重苦しくて空調のための窓もないそこは、息が詰まるような場所だった。
不意に足音が止まる。体を右に九十度向けた先には鉄格子が隔たっている。
暗くても、その人物がこの場に似つかわしくないことはわかった。黄金に光る王冠に、宝石を散らした杖が、この国を統治するものだと示していた。
「我が帝国の剛勇グナウエスよ。どうだ、ここの住み心地は? 随分と慣れたものではないか?」
牢獄に収まっていたグナウエスはだんまりを決め込んでいた。一帝国の王が話しかけているのに、壁に背を預け頭を垂れもしない。
「奴隷として貴様がここに来たのも、はや三年か……闘技場では、奴隷でも勝者に報償金を出している。貴様はすでに溜まった金で自身を買い取り、自由の身になれるというのに、なぜここに留まり続ける。別に外に出ることも構わないんだぞ」
グナウエスは答えない。いや、答えを持たなかった。なぜ、自分がここにいるのか。人を殺すことに快楽を得たのかーー違う。背中には呪怨とも呼ぶべき罪悪感が背中に張り付いている。だったらなぜだ。なぜ、自分はここにいる?
グナウエスには無言だけが唯一の表現だった。
「まあ、よい。貴様が来てから闘技場は一層栄えた。今や貴様は闘技場で英雄扱いだ。九十九戦無敗の漢。貴様がいることは私にとってはその方が都合がいい。民衆というのは愚かだ。このような催し事に熱中して、政の反感を抑えられるからな」
皇帝は左手に持っていた銀食器を牢獄に置く。
「だが、そんな貴様も終わりの時が来るかもな。実は先日、新たな奴隷が加わった。断末魔の殺人鬼と呼ばれたクリオが貴様の記念すべき百戦目だ。果たして、これが貴様とのやりとりとなるかもしれないな」
グナウエスには不思議だった。なぜ、わざわざこんなところに。もしかすると皇帝はグナウエスの最後を予期して、饐えた匂いのする牢獄にまで足を運んだのかもしれない。ただ、グナウエスには皇帝も守衛も同じ価値の命くらいにしか感じなかった。
グナウエスはのそりと四つん這いになり、銀食器にあった燻製肉を頬張る。闘士として、食事は重要だった。闘うためには体力が必要だ。例え、いかなる状況でも万全の状態にしなければ生き残れない。
次の標的が誰であろうと油断はしない。
数日が経った。
一対のバスタードソードを持ってグナウエスは控え室で座り込んでいた。鎧など必要としない。仮にダガー程度を防ぐ軽微な鎧とて着込まないのが、グナウエスの矜持だった。
歓声が湧き上がり地響きのようなものを感じる。また、誰かが生きて、誰かが死んだのだろう。何がそう人を沸き立てるのか。
「グナウエス選手、出番が来ました。本日のメインイベントです。しっかり皆を盛り上げて帰って来て下さいね」
守衛から好奇な眼差しを受けて、西の門をくぐる。そして、進行役の声が、ガヤガヤした喧騒を沈黙させる。
「さあ、皆さん闘技場の英雄の登場です。十八才から始まり、彗星の如く出現した傑物グナウエスに盛大なる拍手を!!」
打ち鳴らされる掌の音と歓声。
そして東の門から肋骨が浮き出ていそうな痩せ型のクリオが登場してきた。
「対するは、本来ならば死刑囚のクリオ!! 惨殺に惨殺を重ねたこの男に終止符は訪れるのか!!」
会場中からブーイングの嵐が沸き立つ。
クリオの片手には波打つ刀剣。グナウエスと同じく、鎧は着ていない。銀髪だが齢三十前後らしく見えた。
それにしても殺人鬼だからなのかわからないが、痩せすぎだ。もしかしたら誰かの差し金で食事を与えられなかったのかもしれない。だとしても手加減はしないが。
観客席で、一斉にグナウエスの名を呼ぶコールと地鳴らしが始まる。
調子のいい奴らだ。
グナウエスは期待に応えたいわけではないが、ドラが鳴った直後に、クリオに突進する。
特注のバスタードソードを片手でも扱える膂力で横一文字で振るう。軽量な剣では防ぎ切れず、胴体に重厚な斬撃を与えるーーはずだった。
クリオはもう既にそこに居なかった。背後に人影。殺られた、とグナウエスは直感した。
しかし、当の本人であるクリオはのんびり欠伸をしていた。
あまりの速度に観客は呆然としていたが、欠伸をしているクリオにブーイングを口にする。グナウエスは滑らかなクリオの動きに食事を与えられなかったのではないことを悟った。稲穂のような体こそクリオの万全だったのだ。
「早漏なのかなぁ君はァ。これから命を賭けるというんだからさァ、ほら一期一会とも言うだろゥ」
クリオは懐に手を入れる。
飛び道具かと危惧したグナウエスだったが、取り出したのは煙草だった。クリオは深々と紫煙を吐き出す。
「ちょっと与太話でもしようかァ」
グナウエスには理解出来なかったが、動揺して体が動かなかった。それを知ってか知らずかクリオは尋ねる。
「っで、何で、君はァここで闘うようになったのかなァ?」
「……」
遊び半分に主人に戦わされて以来、ずっとここにいる。でも、闘っているうちは目的が出来てなにもかもを忘れられた。
「だんまりかァ。大方、奴隷の身分でこの競技に参加したんだろうねェ」
クリオはに煙草を残り半分も吸わずして捨てる。
「でも、それじゃあつまんねえだろうねェ。俺はねェ、皇帝の妾として産まれたんだよねェ。だけど、王妃からは邪険に扱われててねェ。ついに王妃は暗殺者を寄越したァ」
負の遺産を掘り出したクリオの眼に、恨みはなかった。
「母が短剣でズタスダに突き刺されて、俺はねぇ必死に逃げんだんだァ。普通に考えたら、心の傷になるけど、俺は何故かその母の散り様が美しく思えんたんだァ。思ったら狂気に染まったのはその頃からだったかもしれないなァ」
どこかクリオの話は他人事のようだった。しかし、突然、クリオはケラケラと笑みを浮かべる。
「そして、俺は捕まるまで衛兵を何十人も斬った、が、そのことについてはまるで覚えてねえェ。これ傑作だろォ。ただ殺人鬼としての標的は脳の皺にしっかり刻まれてるんだよォ。最初は近隣に住むキエスさんって人妻だったァ。ロープで縛って、薄皮を剥くようにミリ単位で皮膚を切り裂いんだねェ。難しかったけど、そんときの絶叫と血だまりったらゾクゾクしたねェ。何回、キエスさんに射精したことやらァ。他にもホランという神父が居たんだが、これは全身の骨を抜いて皮だけにしてやったんだァ。看病が大変で下の世話までしたんだよォ。そしたら三日後に神父がもう殺してくれと俺に嘆願するんだぜェ。神の使いである神父がそんな願いをするもんだから、ヒャハ、興奮して殺すのに一か月もかけちまったよォ。それに神父の顔に精液を掛けたあの開放感たらァ。あの時の高揚感は本当にヤバかったなァ。他にも、ああ、いい思い出たちだァ。全員の絶叫を覚えているよゥ」
クリオの男根は勃起していた。快楽殺人鬼としての性がそこに出ていた。
「皆、標的は吟味して殺したァ。それが、なんだ今や殺し合えというんだから本当に参っちまうよォ」
童心に返ったようにクリオは、泣きじゃくりそうだった。
グナウエスは聴けば聴くほど、クリオの話についていけなくなる。常人ではない精神状態だ。だが、ついその先を求めている自分に気がついた。
「俺とお前には共通項がある。それが何かわかるかなァ?」
「俺とお前にか……?」
グナウエスは唾を飲み込む。
「そうだ、俺とお前だァ。教えてやろうかァ? それはレゾンデートルの消失だァ。存在意義の無さ。俺とお前は今や国家の娯楽に付き合う付随物だァ。表向きは平等に殺し合わせて、実のところ国家の所有物なのさァ。見てみろよバルコニーにいる貴賓室をさァ。やつらは俺よりも命を命として見ないんだなァ。高みの見物でオモチャ扱いだァ。結局のところ計算づくも含めて、どっちが強いかなんて子供染みた発想だよォ」
グナウエスの腹の底に何かが湧き上がるのを感じた。闘技場で一度も感じたことのなかったこれはなんだ。そうか、これは憤怒だ。クリオは許されざる罪人だ。決して許されない。しかし、クリオは自分の欲望に忠実だった。だが、自分はどうだ。何か一つ自分のために行動を起こせたのか? クリオと出会いグナウエスは気付かされた。自分は何かを叶えたいと思ったことがあっだろうか。
「御託はもういいだろう。そろそろ始めさせてもらうぞ!!」
グナウエスの心の揺さぶりは苛立ちに変わっていた。クリオは倒さなければいけない敵だ。初めて憎悪による殺意が生まれた。
「おっ、ちょっとだけ俺のタイプに近づいたァ」
グナウエスの兜割りを鼻先で躱すクリオ。それからクリオは刺突に移る。グナウエスもしゃがみ込んで串刺しを回避する。
今ならクリオの動きは視えていた。五感以上の第六感がクリオの動きを予測する。
「さっきより、断然動きがいいねェ」
クリオは微笑しながら、剣撃を放つ。グナウエスは剣の腹で防御しながらも、肩口や太ももに裂傷が走る。それでもグナウエスはバスタードソードを振るい続ける。闘いは際どいものだった。傷を負っているのはグナウエスだが、一撃でも入れば傷の分は帳消しになる。
異なる戦闘スタイルに観客は喜んだ。グナウエスが劣勢に陥ることは見たこともなかったが、人を興奮させる剣技のやり取りがそこにあった。後世語れ継がれる闘いの予感がした。
グナウエスは失血しながらも、徐々に剣速が増す。クリオの頬にかすり傷がついた時、微笑が消える。そして、グナウエスのなぎ払いがクリオを直撃しようとしていた。
だが、クリオは刀剣を挟み込み、そして横に飛んだ。普通ならば砕け散るであろう刀剣をいなす様にして破砕するのを避けた。
「これだから戦闘は嫌なんだよねェ。武なんてやり取りは俺の性分じゃないしィ」
そう言いつつ、クリオの動きは天才的な衝撃の緩和の仕方だった。
グナウエスは一瞬、勝機を見出した分、落胆はしたがすぐに闘志を燃やす。失血でまともに闘える時間は限られている。
ーーならば。
グナウエスはバスタードソードを投擲した。クリオは面喰らって回避したが、グナウエスに肉薄された。
「徒手空拳もいける口かァ。だとしても甘いなァ」
クリオはグナウエスの太もも目掛けて刀剣を刺し込む。クリオは手応えを感じたのか嫌な笑みを浮かべる。
しかしグナウエスの狙いは打撃ではなかった。
両手でクリオを抱きしめる。
特注十五キロのバスタードソードを片手で扱っていた腕力は凄まじい。クリオの背骨が悲鳴を上げる。間も無くクリオは死ぬのは間違いない。
すると会場中から、親指だけを上げて残りの指を握りしめる合図がでた。これは観客から慈悲をかけて生かせという合図だった。二人の攻防を見て再戦を期待しているのだろう。
クリオが耳打ちしたのは悲鳴ではく、一つの想いだった。
「わかっているよなァ。ブタどもに情けかけられたら……」
グナウエスは何も言わなかった。その代わり、骨がひしゃげる音とクリオの口は吐血した。そこでグナウエスはクリオを解放した。床に伏したクリオは喋らない。闘技場の清掃係が本当に死んでいるのか三又で体を刺すが身動ぎ一つしない。
しばらく静寂が訪れる。しかし、それは長く続かなかった。
「視るに値する闘いだった」
冠を頂いた皇帝がグナウエスの腕を掴む。どうやら感極まって貴賓席から下りたらしい。観客は自らの主張を反古にされてヒソヒソとしていた。
「肉を切らせて骨を断つ!! これ以上の試合は二度を求める必要などあろうか!! これこそ死合いである。さすがは英雄グナウエス。貴様の生き様を誉めてつかわす」
皇帝がグナウエスの腕を掲げると観衆は歓びの声をあげた。それに皇帝が快活な笑みを浮かべた時だった。
「それだったら、俺も誉めてくれるよなァ、父さん」
それは明らかにグナウエスでも、皇帝の声でもなかった。疾風だった。体に穴がうがかれ、猫背のクリオが立ち上がり、皇帝の首元を刃でで薙いでいた。
「ヒャッハー、さよならァ……」
皇帝の喉元から噴水のように血しぶきが上がった。そして何かに掴まろうとして倒れる。
すぐさまクリオの元に、清掃人が頭部めがけて三又を打ち込む。眼球は飛び出し、鼻に三つ目の穴が空く。クリオはそこで、本当に絶命したようだった。ただ、床に伏して見える横顔は苦悶ではなく、微笑みだった。それはクリオの人生を物語っているようだった。グナウエスはそこで悟って、場違いな笑みを漏らす。クリオはこの死合いを支配していたのだろう。グナウエスを殺そうと思えば殺せた。しかし、あえて五分に持ち込み、皇帝を誘った。さすがは断末魔の殺人鬼の考えは到底及びつかない。
守衛は哀しみに覆われていた。
「本当に行ってしまわれるんですか? 皇帝も亡くられて、この国の英雄であるあなたに今出ていかれては……」
「もうここは俺の居場所じゃない。それにこの足じゃもう闘えないはしないだろう」
クリオとの闘いでグナウエスの右脚の神経は異常をきたしていた。しかし、百戦無敗だという戦績は後の世にも語られるだろう。そんなグナウエスだが、英雄の残滓は今や見当たらない。すっかりと戦う牙を失った人間だった。
「ただ外を見て回りたい。その先に何かがあるような気がする」
麻袋に荷物を詰めたグナウエスは、びっこを引いて闘技場の外に出る。見えない鎖は解かれた。
空を見上げれば、太陽は紅く感じられず、暖かく包み込むようだった。




