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海月

「……本当に死んだのか?」


 砂のようにきらめく物質、崩壊した電脳体の残滓を見て夜道はそう呟いた。


「ああ、この学園の管理者は死んだ。どうしようもなく、現実世界に絶望した男は死んだ。だが、まだ終わりじゃないぞ。君の恋した少女はまだ救われていない」


 その通りだ、と夜道はマキナの方を見た。今だ鎖で拘束されていて、激しく苦しみ悶えている。鎖を食いちぎろうと足掻く、歩き出そうとして転ぶ、血眼で夜道を捉えようとする。


 ――ここからが本番。


 夜道は何故だか自然と気が詰まってしまった。マキナの様子を見て、なんとなくただでは終わりそうにない、と直感したのだ。

 夜道はトーカを信用していない訳ではない。あとは言葉どおり、トーカに任せてマキナを修復してもらえば良い――そのはずなのに、


「なんだろうな、ひどく――胸騒ぎがする」

「君の首から下は消え失せただろう?」

「そういう意味じゃない」


 知ってるさ、とトーカは言い、ホロウィンドウとQWERTYキーボードを投影した。

「……本音を言えば、私もこのまま順調に終わるとは思っていない。絶対に何かあるだろう。ああ、間違いなく」


 所詮根拠の無い直感だがな、と最後に付け加えた。しかし、二人ともその根拠のない直感を自分の中で消化できそうになかった。

 夜道は知っている。自分のくだらない妄言はよく当たると。トーカも知っている。この世の中に、波が立たずに終わるものなどほとんど無いと言う事を。


 ――それでも、やるしかないのだけど。


 そう思ってトーカはキーボードを叩き、ハッキングを始める。はたして祭葉宗三郎がどのようにマキナにプログラムし、暴走させたのかは分からなかった。しかしながらマキナの電脳体にアクセスすればすぐに分かるはずだ、と。

 くまなくマキナという情報を漁った。生徒番号、部活、性別、ステータス――こんなものはどうでもいい。もっと奥の階層へ、人格を狂わせるほどの根本的改造が行われた深層へ!


「……おかしい」


 やがてトーカは異常に気がつくこととなった。


「それは悪い知らせか?」

「電脳体の情報強度が低すぎる。いくら私だって、電脳体にアクセスするのは大変だ。カウンターハッキングは当然として、そもそも構造が複雑すぎるから侵入が難しいはず(・・)だ。何せ電脳体は人の精神をデータ化したものだから、その情報量はあまりに多い。しかしこれは……このままだと『神の領域』にまでたどり着くぞ」

「神の領域……」


 その言葉に夜道は一種の畏怖を覚える。

 強化な情報体である電脳体の中でも、最も情報密度の高いデータ。それの詳細は誰も分かっていない。アクセス不能の電脳体の深層。書き換え不能のブラックボックス。何もかも分かっていないそこは電脳体の本質といわれている。そこを書き換えることが出来れば完全な別の存在にすらなりうるなどとも噂される。


「やれやれ、かつて私はそこから記憶を抜き出すのが手一杯だったのに、こうも簡単に侵入できてしまうとは。いいだろう、ここ以外の情報は全て見た。なら、原因があるとすればここだ。次は『神の領域』に……ッ!」

 突然、トーカの電脳体に異常が生じた。ひどい痛み――体中の毛穴全てに針を入れられたような激痛だ。

「あっ……あ、あ……」

「おいトーカ!? 何があった!」


 思わず苦悶の声が漏れる。トーカにとっては久しい感覚であった。初めて自分の神の領域へ侵入を試みたときと似ている……つまり、このままではハッキングは失敗する、とトーカは思い至った。


「――お断りだ。そんなのお断りだ。祭葉宗三郎、アレが緋之宮マキナを狂わせたのなら、それを修正できなかったら私の負けだ。お前にだけは負けてたまるか、私は完全にお前に勝つ。五十年前とは違う……!」


 痛みに耐え、奥歯を噛み、眼を見開く。修羅のような形相でトーカはキーボードを叩き続けた。


「無理するな、アクセスを切れ!」

「無理? いいや無理するさ! 無理をせずにできることなんかじゃない……!」


 目から崩れた情報が零れ落ちた。それはまるで血涙のようだった。だが、トーカはそれでもキーボードを叩き続けた。


「見せろ、君の神の領域を。なぜ君が狂ったのか見せてみろ!」


 ◇ ◇ ◇


 ここはどこだ、とトーカは周囲を見渡した。確か私は緋之宮マキナの電脳体にハッキングしてたはずだ、と。

 まるでどこかの都市の一角だ、とトーカは思った。そして目の前には巨大なマンション。見た目から、裕福な人物の住むようなところだろうとなんとなくわかった。

 高いマンションだ、何回まであるのだろうと空を見上げた。

 人が降ってきた。

 べちゃり、とアスファルトに人が叩きつけられる。体は破け、臓物は弾け飛ぶ。五十年ぶりに見た血液だった。

 花開くように血溜りは広がる。

 人が降ってきた。

 また降ってきた。

 豪雨だった。

 ばしゃばしゃと人が固い地面に叩きつけらた。酷く耳障りで、どうしようもなく不快で、


「な、何なんだこれは……!」


 ようやくでてきた言葉は、あまりに陳腐なものであった。


「お前じゃない」

「……え?」


 突然声が聞こえた。足元からだ。


「お前じゃない」


 顔は崩壊し、顎はぱっくりと二つに割れている。肺も破れているだろうし、喉もつぶれているだろう。だが足元の骸は確かにしゃべった。


「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」「お前じゃない」


「海月夜道を連れて来い」


 ◇ ◇ ◇


「……っあ! はぁ、はぁ……アクセス、強制……切……断……」


 そうわざわざ声で宣言したのは、音声入力で操作する必要があったからだ。トーカの投影したキーボードはスパークし、情報崩壊を起こして使い物にならなくなっていた。


「トーカ!? 大丈夫なのか……?」

「……心配には及ばないさ」


 とは言っているものの、ぜえぜえと肩を上下させ、冷たい汗が伝っているトーカの様子は同見ても異常であった。

 脚はカタカタと振るえ、その様子は海月夜道の知っている冷泉灯火――トーカ像とはあまりにかけ離れている。

 どうしたことか、と夜道はトーカを心配に思う。その様子はまるで見てはいけないものを見てしまったかのようだった。

 トーカは目から流れ出た崩壊した情報を拭い取った。ああ、これの分はあとで修復しなきゃならないな――などと考えて、夜道に言った。


「……世界(・・)だ」

「何?」

「私は見たぞ、神の領域を! 緋之宮マキナの電脳体、その『神の領域』には一つの電脳世界があった! 神の領域には電脳世界がある!」

「電脳世界……? それはつまり、電脳体の中にはこの祭葉学園みたいな、人が足をつける領域があるのか? 言葉通り?」


 夜道は一応確認を取った。この期に及んでトーカがホラを吹くなどとは思わなかったが、それでも信じ難い言葉には違いなかったのだ。


「ああ。結局わかったのはそれだけだが……」


 そこから先をトーカは伝えるかどうか迷った。あの狂気の沙汰の世界のことを――その世界が夜道を連れて来いと言っていたことを夜道に伝えるか――


「それで、マキナは」

「……夜道、君を連れて行く」

「何?」


 馬鹿らしい思考だ、とトーカはすぐに考えを改めた。伝えずして、緋之宮マキナを救えるか? ありえないと思い至ったのだ。


 ――それに、この男は簡単には止まらないだろう。私が隠し事をしたことにすぐに気がついて、問い詰めてくるに決まってる。


「神の領域――便宜的に『マキナの世界』と名づける――は、君の来訪を望んでいた。だから、君をマキナの世界に送り込む。いいか、ハッキングとはワケが違う。君の電脳体と緋之宮マキナの電脳体をつなぎ、彼女の精神に侵入――マキナの世界に精神潜入(サイコダイブ)するのだ。そして君はマキナの世界を散策、原因を取り除け」

「……そんなことできるのか? それはある意味人の心のハッキング、聞いたこともない」

「出来る。やり方は――」


 突如、トーカの視界が崩れ落ちた。


【ヒトが空から降ってくる、地面に叩きつけたれる。血みどろが真っ赤に割れる。ヒトの豪雨が降り注ぐ。あたりに血の臭いが蔓延する……】

 ――幻覚め!


 トーカはこれをかき消すように目を瞑り、首を横に振って耐えた。恐ろしく、あまりに狂気で猟奇な血みどろのまぼろし。


 ――消えろ、私の邪魔をするな!


 再び目を開けると幻覚は途切れ、ただ夜道の首だけが次の言葉を待っていた。


「――今覚えた(・・・・)


 ◇ ◇ ◇


「……俺の電脳体の管理者権限の一部をオープンにした」

「ふむ、こちらの準備も出来ている。――マキナの世界がどういうものであったかは、さっき説明したとおりだ。私は外側から君を監視している。……辛くなったらすぐに言うんだ。君をマキナの世界から引き釣り上げる」


 これがトーカにとっての懸念だった。マキナの世界は心に異常を起こす風景で溢れている、夜道にはしっかりと伝えていた。その上で、夜道をマキナの世界に連れて行くことにしたのだ。


「いいや、大丈夫だ」

「本当か」


 本当だとも、と夜道は言う。空からヒトが降ってくる――それもたくさん、豪雨の様に、びちゃびちゃと血を撒き散らして。


「その地獄は、多分三年前に経験している」

「……そうか、では始めよう」


 そう言ってトーカは夜道の頭に右腕を乗せた。


「――言って来い。そして、必ず帰って来るんだ」


 ◇ ◇ ◇


「……ん」


 目を覚ます。夜道はアスファルトの上で寝転んでいたようで、体に痛みを感じた。体を起こして――気がついた。


「手足がある……?」


 夜道は五体満足であった。消失したはずの首から下は完全に復元されている。指も器用に動くし、足もしっかりと地面をかみ締めている。その事実だけで、この場所が祭葉学園とは違う場所であることを認識できた。

 周囲を見渡す。どこかの街のようだった。通行人も車も、自分以外の存在は誰もいなかったが、ふとすれば後ろから話しかけられそうな気がした。


『聞こえるか?』

「うおおっ!?」


 驚いて夜道は振り向く、だがそこには誰もいない。


『馬鹿者。念話通話(テレパスコール)だ。今から大切な話しをするから、よく聞いておけ』


 お、おうと夜道は心を落ち着け、トーカの話に耳を傾けた。


『その世界の君の電脳体は、私に観測されることによって定義されている。解析するに、その世界での君の存在は不安定だ。緋之宮マキナが一万の電脳体の集合体であることは知っているな? おそらく、一万の電脳体の中に入り込んだから、君と言う存在が希薄になっているのだろう』

「……また面倒な」

『そう言うな。だから、私は君に定期的に連絡をよこす。もしも連絡が途絶えたら、それは君の事を私が観測できなくなっているということだから、……』

「死を覚悟しろってことか?」

『……その時は、助けられるように最善を尽くす』

「まあ、任せておいてくれ」


 そう言って夜道は通信を切った。


「で、だ。……ああ、これがトーカの言っていたマンション、か……」


 ああ成程、確かに高そうなマンションだと夜道は思った。おそらく、オートロックで監視カメラが付いていて、契約警備会社、モニター付きインターホン。そしてマンション内を巡視するセキュリティ・ロボットなんかもありそうだと夜道は思った。


「ここは俺が住んでいたマンションだ。……ま、何かあるとしたらここだろうな」


 夜道は試しに思考操作(リガード)を行ってみた。物理障壁、結界、空間凍結。


「……現実じゃない、確かにここは電脳世界だ。となると、ここは再現された現実って所か」


 はあ、と一つ溜息。そして空を見上げた。


「――月だ」


 そこには美しい月が円を描いていた。

 青い夜空に青い月――あまりに美しくて、何だか懐かしい気分になった。美月――ひどく求めたものがそこにいるような気がした。

 月にめがけて手を伸ばす。それは何だか掴めそうな気がして――


「いや、違う」


 空から何かが降ってきた。ラジエル奇眼が一瞬反応したので、それがヒトだとすぐにわかった。

 落ちる肉体を目で追う。やがてそれは硬い地面に叩きつけられた。しかし――血は流れ出なかった。

 肉体からは水が染み出てきた。濁りの無い透明な水だ。肉体は大量の水を吐き出し、やがてその体も解けて水となった。

 巨大な水溜りが一つ出来る。それは眩い夜空を写していて、月が水面に揺れていた。


「……そうだ、父親にも母親にも見捨てれた俺の傍に。お前はいつもいてくれて――とてもいとおしかった。手の届かない所から見下ろす残酷なモノなんかよりも、ずっと――」


 ああ、と確信した。きっとこのマンションが鍵だ、このマンションに俺は入らなければならない、と。

 そうして夜道は一歩踏み出した。


 ◇ ◇ ◇


 どこに向かえば良いのかはっきりとはわからなかったが、一度尋ねたい場所があった。

 エレベーターが閉じ、目的の階へと上り始める。最新型のエレベーターは殆ど音も無く稼動した。おかげでちゃんと動いているかどうかわからない、と夜道はいつも思っていた。だから、しっかり階数を示すランプを目で追う。1、からカウントアップをアップを始めて2、3、4と上っていく。

 やはり懐かしい、と夜道は思った。登下校、買出し……外出する用時があるたびに、このエレベーターを使っていたのだ。


 ――おそらく、ミヅキも


 5、6、7……とカウントアップは続く。そして、10を示した。かつて夜道が住んでいた部屋は、この階にあった。


 チン、と到着を知らせるベルが鳴った。エレベーターの扉が開き、十階が夜道を迎え入れる。


「……あんだこりゃ」


 夜道の目に飛び込んできたのは、水浸しの床である。おそらく三センチはたまっているであろうと目測できた。

 その水はエレベーターにも入ってきて、夜道の靴とズボンの裾を濡らした。極端に冷たいわけではなく、川の水の様に心地が良い。おそらくここに何かがある、と夜道に思わせるに足る景色だった。


「行くしかない、か」


 ぴちゃり、と音を鳴らしながら夜道はエレベーターを出た。目的地は、この階の自分の部屋だった場所だ。


「……静かだ」


 廊下を進みながら、夜道はそう思った。

 いつもなら静寂は不吉の予兆異常の何者でもなかった。音とはどこかしらで鳴っているのが当たり前だ。だから意図的に音を消されれば、それは還って不自然な状況となり、周囲を警戒する必要が出てくるのだ。

 だがこの空間は――少なくとも今は――自分以外の存在を確認できず、静寂こそが常の世界。ぴちゃり、という自分の足音以外は聞こえない。

 夜道はこういう環境は嫌いではなかった。居心地がよく、ここで眠ることが出来たらそれは素晴らしいことだろう、などとも思ったりした。


「だが、俺は帰る。俺はここにいるべきじゃない。そしてマキナ――ミヅキとまた再会する」


 そして夜道は歩みを止めた。目的の場所に着いたのだ。


「……もうここに住んでいたのは前の話なのに、場所を体が覚えてる」


 夜道が扉を開けようとして――勝手に開いた。まるで夜道を招いているようだった。つまり、この部屋で夜道のことを誰かが待ち構えている、そう思った。


「誰か、じゃない。決まってる、この先にいるのは――」


 そして夜道はその部屋のリビングルームにて、彼女と出合った。


 ◇ ◇ ◇


 グレー系統の髪、長い髪の毛を二つに束ねて垂らしている。その瞳はまるで水晶。体は平均より少し小さい程度。全体的に透明感を感じる様だった。彼女のことは『美少女』と表すのが妥当だろう。


「――ミヅキ」


 名前を呼んだ。ようやく会えた、ようやく見つけた、ようやくお前のことを気付くことが出来た――様々な気持ちが入り混って、その名前を呼んだ。


「……くらげ」


 ――ああ、そう呼ばれるのも久しぶりだ、そういえばそう呼ばれていた


 窓張りの部屋に月明かりが差し込む。この空間に無粋なライトなど必要なかった。お互いを認識するためには、月明かりで十分だった。

 夜道からミヅキの場所まで七歩も歩けばつく距離だ。だが、夜道にはその距離がひどく遠く感じた。

 だから、夜道はミヅキに近づいた。一歩があまりに遠い。だが、一歩歩むたびに二人の距離は短くなる。


「……だめ、よ」


 震える唇でミヅキはそう言った。


『夜道、聞こえるか』


 そんな中で、突然トーカが念話通話を繋いできた。


『夜道、今私は君を観測している。君は今一○六五室にいる。違いないな?』

 ――ああ、そうだ。そして、ミヅキを見つけた。

『ミヅキ……?』


 怪訝そうにトーカが言う。数秒の沈黙、そして続けた。


『私からは君以外の存在を観測できない』

 ――何?

 その直後だった、ミヅキに異変が起きたのは。


「きちゃ、だ、め……!」


 震える声で――それは叫びと言うにはあまりに小声だったが――ミヅキは叫んだ。少なくとも、夜道には叫んでいる様に聞こえた。


「……ッ、なんだ!」


 突然、見えるもの全てが溶け始めた。テーブルも椅子もテレビも床も壁も、全て透明となり、水となって形を崩していった。


『夜道! 危険だ、引き上げるぞ!』


 その提案に夜道は当然の様に抗議した。


 ――ここまで来て!

『そこは危険だ。マキナの世界が崩壊を始めた!』

 ――見れば分かる!


 夜道は駆け出した。マキナを抱きとめるために。トーカがなにやら叫んでいたが、夜道はそれを受け付けなかった。


『世界が壊れればこちらから観測できなくなる! そうなれば君も……』

 ――うるさい。なら、マキナはどうなる?

『……』


 足元はついに全て無くなった。ただあるのは透明な水だけ――夜道は靴を、靴下を脱ぎ捨てて、泳ぎ始めた。


 ――あきらめは嫌いだ。ここまで来て諦めるものか! 俺は例えこの体が崩れようとも、マキナを抱きしめる。

『……』


 呼吸が苦しい――そんなことはどうでもよかった。所詮ここは電脳世界だ。ハッキング次第でいかようにでもなる。

 それよりも恐ろしかったのは、マキナを見逃すことだった。真水が目に染みる。だが、まばたきなどしなかった。マキナが底に沈んでいく様子だけをしっかりと捉えていた。


『……最後の通信だ。これ以降は私からアクセスすることは出来ない。だから、私なりにその世界を観測した推測を伝えよう。あくまで、推測だが。

 緋之宮マキナは電脳体の集合体だ。しかし、情報強度が異常に弱い電脳体だった。おそらく、祭葉宗三郎は緋之宮マキナの情報強度を意図的に落としたのだろう。一万の電脳体同士の連結を緩めたのだ。そうすることで、自己崩壊の可能性を電脳体に学習させる。そこで、電脳体は己の情報強度を高めることが出来る存在を求めたのだ。それが君だ。

 だがその代償として、緋之宮マキナは己を認識できなくなった。何せ一万の電脳体だ。それらが体の中で渦巻いているのだ。どれが自分であるのか分からなくなるのも当然だろう。

 だから、あくまで推測だ――唯一緋之宮マキナを救う可能性を伝える。緋之宮マキナの存在を定義しろ。自己認識が希薄なら、他の誰かが認識するほかあるまい。そう、君の手で。緋之宮マキナを観測できるのは君だけなのだから――!』


 そして世界が溶けた。唯一形を保っているのはミヅキと夜道だけだった。


 ◇ ◇ ◇


 水中にはまだ月明かりが届いている。それは夜道にとって救いだった。

 手を必死に動かし、足をばたつかせた。ひたすらに泳ぐ。

 おそらくもがいている、と言ったほうが正しい。それほどに不恰好だ。

 ともかく水底に向かって泳いだ。ミヅキはまだ捉えられている。だが、月明かりが届かなくなるところまで沈んだらおしまいだ。

 だが、このままでは追いつけそうに無かった。少しづつ追いついてはいるが、このままではマキナが見えなくなるほうが早い。

 思考操作、物理障壁を作り出した。展開する場所は自分のちょうど足裏のあたりだ。そして夜道はそれを思いっきり蹴っ飛ばした。

 勢いづいた夜道の体は速度を上げて進み始めた。

 

 ――これなら


 物理障壁を展開、キック。それを何度も繰り返した。スピードを上げてどんどん進んでいって――ついにマキナに追いついた。


 ――やった!


 だが喜んだのも束の間の出来事だ。マキナは首をだらりと垂らし、力なく目を閉じていた。


 ――気を失っている!?


 一刻も早く手を打たなければならない。だが、ここは深い水の中だ。はたして引き上げるまで間に合うだろうか。


 ――……


 夜道にある考えがよぎった。だがはたして意味はあるのか――全く分からなかった。それは、無駄に終わる可能性が高かった。


 ――だけど、やるしかない。


 夜道はマキナをしっかりと抱きとめ、首を固定した。

 そして夜道はマキナを体に寄せて、唇を重ねた。


 ――……!


 ともかくマキナに空気を送り込まねば鳴らなかった。水中での人工呼吸、それを行いながら、今度は水面に向かって物理障壁を蹴る。


「……!」


 その途中でミヅキは目覚めたが、夜道は必死で気がつかない。


 ――……そう


 ミヅギは、この状況を受け入れ、むしろ強く夜道に抱きついた。


 ◇ ◇ ◇


「ゲホッ……かっ……!」


 何とか水面までたどり着き、顔を出すことが出来た。酸素が夜道の体に流れ込む――それでようやく安心することが出来た。


「……ミヅキ」

「……くらげ」


 そこには、夜道の腕の中には間違いなくミヅキがいた。海月夜道が唯一恋した少女が――そこに、虚ろな目をして。


「……どうして私を助けたの?」

「助けたかったからだ」

「どうして」

「好きだから」

「……その言葉、三年前は言ってくれたかしら」

「三年前は君が俺に言った。三年越しの返事だ」

「――うれしい。こんな状況じゃなければ」


 その直後、不思議と夜道にかかる体重が軽くなった。見れば、マキナの体が透けている。まるで幽霊のように、これから消えてしまうように。

 これが存在の定義づけか、と夜道は気がついた。不安定なこの世界では、これが必要らしいと。観測して、相手を定義する――だが、と夜道は疑問に思う。


 ――今俺を観測しているのは誰だ?


 トーカとの連絡はとっくに切れていた。今この世界にはミヅキと夜道しかいない。


「私は恋する権利も、愛される権利もない」

「それは俺が人間で、お前がアンドロイドだからか?」

「そんなことこの電脳世界では関係ないわ。だから、私は正体を隠せばまた恋ができると思った。けど、私はアンタを傷つけて、二度も……!」


 またミヅキは軽くなった。それを夜道は強く、抱きしめる。


「だけど二度君に傷つけられても、また迎えに来た」

「また傷をつけるかもしれないわ!」


 またミヅキは軽くなった。もはや鳥の羽程度の重さも感じない。


 ――どうすればいい?


 夜道は考えた。こちらが何かを言うたびに、ミヅキは言葉を拒否する。そうするたびに、ミヅキは希薄になっていく。

 そもそも観測とは、定義とは? 相手を見定めることではないのか?


 ――拒否?


「……なんだ。そういうことか」


 自信はなかった。だが、可能性だけは掴んだ。

 まず夜道を観測し、定義づけているのは誰か? それはミヅキだ。ミヅキが夜道を観測し、定義しているから、この不安定な世界でも実体を保てるのだ。


 ――ミヅキは?


 ミヅキのことは夜道が観測している。ミヅキによって自分が定義されているなら、おそらく観測とは相手を認めること――だが、ミヅキは夜道が存在を認めているにも関わらず、存在が消えようとしている。


 ――考えられることは一つ。ミヅキが俺の観測・定義を拒否している。


 なら――次の言葉はよく考えなければならない。もしかすると、次の一言でミヅキが消え去ってしまうかも知れないからだ。


『貴様を許せるのはできるのは、祭葉学園唯一の大人である僕だけなのだから』


 突然、一説の言葉が夜道の頭をよぎった。


 ――祭葉宗三郎……


 己の欲望と、社会の救済の帳尻があわなかった悲しい男。

 腹正しい、と夜道は思った。憎きこれのおかげで、次の一言が決まったなど!


「分かったミヅキ。俺はお前を許さない」


 ◇ ◇ ◇


「……え?」


 それはミヅキにとって、予想外の言葉だったらしい。突然夜道はそれまでと逆のことを言い始めたからだ。


「お前は俺を貶めた。そして、俺を殺し、電脳世界へと送り込んだ。そこでまたお前は俺を陥れた」

「でもあれは……」

「うるさい。俺はお前を許さない」

 ――子どもを許せるのは大人だけらしい

「俺はお前を罪で縛る」

 ――誰もお前を許せる人間はいない

「だから、お前はずっと償わなければならない。俺の隣で、死ぬまでずっと」

 ――許せるとすれば、それは途方もなく未来の話――俺たちが大人になって、記憶が風化した頃

「――そしてお前は、お前をそんな風に思わせた俺を許さなくていい。ずっと償わせていい」

「――え」

 ――こんな風にしかいえない俺を許さなくていい。

「頼む――ずっと隣にいてくれ……!」


 途端――肌は色づき、髪は艶やかとなり、目は再び光を得た。マキナは色づき、再び固体として定義された。


 ――いや、まだだ!


 ミヅキは確かに定義された。だが、それでも世界は水だけのままだ。ここがミヅキの神の領域――つまり、電脳体の根幹ならば、この世界を修復しなければならない。


 ――まだ何かが引っかかっている。何かが、俺の定義を拒否している。


「……くらげ」

「違う」


 そう反射的に答えてしまった。夜道はくらげと呼ばれるのが嫌いだ。ミヅキにだけ特別に許していただけだ。だから、あやまって「違う」と答えてしまった。


 ――そうか


「違う、俺はそんな名前じゃない」

「……海月(うみづき)

「違う」

「海月……夜道」

「違う」

「海月、夜道、様」

「違う」


 かつてミヅキ――マキナは語った。自分はある言葉を発音できない、と。


「よみ、よ、よみっ」

「ミヅキ――」

「よみっ……! よ、ち……っ。よ、み……」

「――俺の名前を呼んでくれ」

「……夜道(よみち)! ああ、ずっと。ずうっと! アンタをその名前で呼びたかった……! 夜道(よみち)夜道(よみち)夜道(よみち)……っ!」


 その瞬間――世界は逆流した。

 世界を満たしていた水は逆さに流れていった。ビルの様に形づくる。道路となって安定する。植物となって緑色に染まる。高いマンションとなって、夜道とミヅキを見下ろす。


『世界が再構築された……!? ええい、何事だ夜道! ともかく、君を引き上げるぞ、一刻も早く!』

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