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1◆愛人は片思い

◆プロローグ◆



―――出会いは高校入学式の日。




教壇に立ち、そっけないほどに短い自己紹介と挨拶をした先生。




スラリとした長身に、テレビからそのまま出て来たのかと思うような端正な顔立ちと、少し低めな声と大きくて骨張った男の手。




無造作に流された黒い髪に触れ、その漆黒の瞳に自分だけを映したいと思った。



一瞬で恋に落ちてしまったあたしは、恋はするものじゃなく、落ちるものだと知った春。――――でも。




生まれて初めて一目惚れした相手の左手薬指にリングがあって。




頭が真っ白になって、一週間死ぬほど悩んで。




諦められなくて。




『先生の愛人になりたい』




玉砕覚悟での告白だった。




返事は




『瀬野がじゃんけんで勝ったらな』




冗談としか思えない返事だった。




だけど、入学式から一週間たった日の放課後、誰もいなくなった教室であたしたちの愛人関係は始まった。




.1◆愛人は片思い



「遅い」


資料室のドアをあけると、不機嫌顔全開で腕組をして踏ん反り返っている先生が待ちうけていた。


横柄なこんな態度ですらきまるのだから美形は得だ。

「日誌書いてたんだから仕方ないじゃないですかっ…あッ」


日誌を先生の机に置こうとしたところで手首を掴まれ引き寄せられてバランスを崩す。


すかさず先生は日誌を取り上げ机に置き、慣れた仕種であたしの腰に腕を回して反転させ、向かい合わせに先生の膝の上に座らせた。


「ごめんなさいは?」


極上の微笑みを浮かべる先生。


何も知らない頃のあたしならうっとりしていたに違いないけど今は違う。


うっとりなるどころか、変な汗が滲んでくる。


「ごめんなさいは?桜」


硬直するあたしに再度促しながら、先生の指が耳たぶをくすぐる。


「ご…めんなさい」


くすぐったさに身をよじりながら謝罪の言葉を口にする。


こんな時は謝るが得策だとこの一ヶ月で身に染みて学習した。


「ん?何が?」


しっかりと腰に腕を回して逃げ出せないようにした上で先生はなおも問う。


指がうなじを辿る感触にびくっと首をすくめると、クイッと顎を持ち上げられ、至近距離に先生の顔が迫ってきた。


悔しいけどドキッとしてしまう。


この顔は反則だ。


「…遅くなって、ごめんなさい」


耐え切れず伏せ目がちになるあたし。


「謝る時はちゃんと相手の目を見なきゃ駄目だろう」


触れそうなくらい耳に唇を寄せ囁く。


耳にかかる先生の息が、あたしの体になんともいえない痺れを走らせる。


「……っ」


また遊ばれてる!


解っていても、一度先生のペースに持ち込まれるとどうにもならない。


惚れた弱みというやつか、あたしは振り回されっぱなしだ。


「これくらいでヘロヘロになってたらいつまでたっても次のステップに進めないぞ。早く慣れろよ愛人」


ようやく腰に回された腕の力が緩んだのを見計らい、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべる先生の上から逃げるように下りる。




 先生の愛人になって一ヶ月になる。


だけど今みたいなスキンシップはされてもいまだにキス一つされたことがない。


 いつもあたしだけドキドキさせられて終わりで、愛人というより愛玩動物になってる気がする。


「もう少しで終わるからこれでも飲んで待ってろ。熱いから火傷するなよ」



.いつものようにインスタントコーヒーを入れてくれた先生がカップを差し出してくれながら言った。


「はーい」


子供扱いだなぁなんて思いながらも返事は素直しておく。


今日は初めて学校の外でデートできるんだもん多少のことは気にしない。


 黙々と資料を整理している後ろ姿を、あたしの指定席となったパイプ椅子に座ってコーヒーを飲みながら眺める。


――――こういう時間も好き。


会話がなくても先生が一緒にいるっていうだけで、なんでもない放課後が特別な時間になる。




 久我恭一、26才、日本史担当。


ここまではあたしじゃなくても生徒の大半が知ってる先生情報。


けどあたしはこの一ヶ月で他のことも知った。


コーヒーはブラック派で、黒板に書く時は右だけど実は隠れ左利きで、タバコはKOOLのソフトパッケージ。


辛いものは好きだけど酸っぱいのは苦手で、Sな性格だけど、実は優しくて。


困った時に頭を掻く癖がある。


 他の生徒たちは知らない先生のことをあたしは知ってるって、自己満だけどなんか優越感感じてしまう。


きっと奥さんはもっと色んなこと知ってるんだろうけど……。


 顔も見たことのない奥さんに嫉妬している自分に溜息が出る。


一緒にいる時に奥さんの事は考えないと決めてるのにふと考えてしまう。


 こんな時、たまらなく胸が痛くなるのをやりすごす術をあたしはまだみつけられずにいる。


「先生…」


飲みかけのコーヒーカップを置いて、机に向かったままの先生の後ろから首に両腕を回して抱きつき、額を先生の頭に当てるとシャンプーと煙草の匂いがした。


「……堪え性のないやつだな」


呆れたような台詞のわりに声が優しくて聞こえるのはあたしの気のせいかな。



「好き」



毎日欠かさず繰り返すこの言葉。


少しでも先生に伝わってるといい。


一度も先生からは返ってきたことないけど、一万回に一回でもいいからいつか先生からも好きという言葉が返ってきますように。




「先生が大好き」




先生、あたしを好きになってください。



   ◆◆◆



. 裏門で待っているとすぐに黒いセダンに乗った先生が現れた。


念のため辺りを見回して誰もいないのを確認してから助手席に乗り込むと、すぐに車は発進した。


 車内は綺麗に掃除してあってとてもシンプル。


実用性のみを重視したのであろうドリンクホルダーと灰皿があるのみで、うちのお兄ちゃんの車みたいにジャラジャラした飾りなど一つもない。


 それがなんだか先生らしくて、初めて乗ったこの車に愛着がわいてくる。


「4時半か…飯には少し時間が早いな。行きたいところはあるか?」


不意に聞かれて返答に詰まる。


初めての校外デートに舞い上がって何も考えていなかった。


「んー…あっ、先生とプリクラ撮りたいっ…です」


駄目もとで言ってみる。

先生は写真を撮られるのを嫌がるものだから、いまだに隠し撮りみたいにして撮った横顔の写メ一枚しかもってなかったりする。


 恐る恐る先生の様子をうかがうと、案の定眉間に深い皺を刻んでいた。


「やっぱ駄目ですよね?どこがいいかなぁ。ボーリングは?先生得意ですか?」


予想通りの反応に内心しゅんとなりながらも、明るく提案した。


せっかくのデートなのに暗いムードにしたくないし、写真は隙をみてまた隠し撮りに励めばいいだけの話だから。


「中間で90点以上取れよ」


「え…?」


言葉の意味を理解する前に、先生が漏らした

『マジで苦手なんだよ』

という呟きが耳に届く。


頭をポリポリ掻いてるのは困ってる時の癖。


「ゲーセン行くぞ」


ぶっきらぼうに告げられた行き先に、あたしはようやく意味を理解した。


「先生大好きッ」


運転中じゃなかったらおもいっきり抱きついてるところだけど、それが出来ないかわりに、頭を掻いていた方の腕を強引に奪って抱きしめる。


「90点以下だったらお仕置きだからな」


そう釘をさした先生の耳がほのかに赤く染まっているように見えたのはきっと気のせいじゃない。



   ◆◆◆



.「先生顔が固まってる〜」


出来上がったプリクラを見せると、先生は嫌そうに顔をしかめた。


「お前だって似たようなもんだろ」


固く唇を引き結んだ先生の顔は四枚とも同じで、その隣には先生につられて緊張顔をしたあたしがいる。


二人とも

『生まれて初めてプリクラとりました』

みたいな出来栄えだ。


けど、すごく宝物な一枚。


「先生ありがとう。めちゃくちゃ大事にするッ」


プリクラを撮れたこと以上に、すごく苦手なのにあたしに付き合ってプリクラを撮ってくれた先生の優しさが嬉しい。


 少しはあたしのことを想ってくれているのかと期待してしまいそうになる。


「大袈裟だな。こんなものがそんなに嬉しいか?」


「うん!」


理解に苦しむと言わんばかりの先生にあたしは大きく頷いた。



「もしかして瀬野?」



 不意に聞こえた声は明らかにあたしに向けられたもの。


一瞬で背筋が硬直していくのが解る。


 同じ学校の生徒に遭遇しないようにと大分離れたとこまで来たのに。


ゲーセンで先生と二人なんて言い訳のしようがない。


 心臓が早鐘を打って、足が床に張り付いてしまったかのように振り返ることも出来なくなったあたしに、相手はくるりと回り込んで来た。


「やっぱり瀬野だ」


無遠慮なほどに無邪気に顔を覗き込んでくるよく日焼けした顔。


「山口先輩…?」


ニカッと真っ白な歯をのぞかせて笑う姿は一年前と変わっていない。


他校に進学した中学時代の先輩だと確認して、どっと力が抜けていった。


「久しぶりッ。瀬野、髪のびてるし可愛くなってるから最初わかんなかったぞ」


そう言う先輩も一年前より身長が高くなって、丸坊主だった頭は少し長めの茶髪になっている。


 耳に光るピアスのせいもあってか、チャラくなったように見えるけど笑顔だけは以前のままだ。


「お久しぶりです…先輩だいぶ雰囲気変わりましたね」


「高校デビューってやつ……もしかしてデート中だった?」


先輩は伺うようにあたしの後ろに立っている先生に視線を向け軽く会釈した。


 つられて振り返ると先生は一歩前に出てなんでもない仕種であたしの腰に手を回した。


あまりに自然な流れにされるがままになる。


「立ち話もなんだから場所をうつすか?」


営業スマイル並の微笑みを浮かべた先生の提案に、先輩はとんでもないと首を横に振った。



.

「お邪魔してすみませんでした。またな瀬野」


そう言って先輩は同じ制服を着た人達のところへ駆けていった。


「残念。ジュースの一杯くらいご馳走してやったのに」


台詞のわりには全然残念そうじゃない先生は、さっきみたいな営業スマイルみたいな微笑みじゃなく、いつもの意地悪そうな笑みを浮かべている。


 こっちの笑顔を見慣れてるせいか、さっきみたいな優しげな微笑みには、なにかそら恐ろしいものを感じてしまうのはなぜだろう。

知らない人だったら、きっと素直に見惚れちゃうんだろうけど。


 ふと視線を向けると店員のお姉さんと目があった。


お姉さんは慌てたように視線を逸らす。


 舞い上がりっぱなしのあたしだって、店内にいる女の子たちがチラチラと先生を見てることくらい気付いてる。


 ここに入ってすぐから店員のお姉さんや女子高生たちの視線を感じていた。

いや、正確には先生に注がれる熱い眼差しを感じていた。


『あたしのだからそんな目で見ないで!』


なんて言えたらどんなに良いだろう。


 あたしは先生を好きになって、自分がすごく独占欲が強くて心が狭い人間だと知った。


「手、つないでいいですか?」


伺うように見上げると、先生は珍しく何も条件をつける事なく腰に回していた手をほどき、ほらと手を差し出してくれた。


 差し出された手を握るとすぐに先生の大きな手に握り返されて、あたしの手はすっぽり包まれる。


「そろそろ飯でも食いに行くか」


促されて歩き出す。


もちろん手は繋いだまま。



 たったこれだけの事であたしを天国にいる気分にさせてしまう先生はやっぱりくせ者です。



   ◆◆◆



 最初はお洒落な感じのイタリアンのお店に制服姿のまま入るのに抵抗を感じたけれど、いざ入ってみるとすごく感じがいい対応でホッとした。


 サラダとシーフードピザとキノコとベーコンのスパゲティをオーダー。

ドリンクは食後にホットコーヒーがサービスでついていた。


 お腹いっぱいになってお店を出て、コインパーキングまでまた手を繋いで歩いて、車が発進した頃には時計の針は八時を指していた。


「予定より遅くなったな。家に連絡入れなくて大丈夫か?」


「大丈夫です。今日は真央のとこで勉強してくるって言ってきたし…先生こそ大丈夫ですか?」



.

家であたしを待つお父さんやお母さんがいるように、先生には家で待ってる奥さんがいる。


「いらない心配はしなくていい」


先生は一瞬何かを言いたげな顔をして、けどすぐにそれをごまかすようにあたしの頭をクシャッと撫でた。


胸をギュッと締め付けるその優しい感触があたしのわがままな部分を呼び起こしていく。


「先生…」


嫌だよ。


あたしを降ろしたら、先生が帰るのは奥さんが待ってる家だなんて嫌です。


「どうした?」


先生は黙り込んだあたしにをミラー越しに見る。


あたしの頭を撫でた手には鈍く光るリング。


あたしは心の中でこっそりと深呼吸した。


「今日、最高に楽しかったです」


せっかく楽しいデートをしたのに、最後にぶち壊すようなことはしたくなくて明るく言った。


「それなら良かった。正直俺は女子高生が喜ぶデートプランなんか検討すらつかなかったからなぁ」


苦笑いを浮かべる先生。


あたしに合わせたプランを考えて悩んでる姿を想像すると愛しくてたまらなくなる。


単純なあたしは簡単に浮上していく。


「ホントにすっごく楽しかったですッ。これで『今夜は帰さない』なんて言われたら申し分ないんですけどね〜」


「阿呆。すぐにテンパるくせに一丁前に発情するな」


「ひ〜ど〜い〜ッ」


呆れたようにサラリと返され膨れっ面をするあたしに、先生はケラケラと笑った。


 悔しいけど、一回り近く年下のあたしは先生から見たらやっぱり子供なんだろう。


「……でも、キスの一つくらいデートの締め括りにあってもいいんじゃないですか?」


勇気を出して食い下がってみる。


「バーカ」


たった一言で一蹴されてしまった。


予想通りの返答に今更へこみはしない。


これくらいでへこんでたら先生に恋なんてしてられない。


―――覚悟しててね先生。


拗ねたふりしてそっぽを向きながら心の中で呟く。


 いつか先生からキスしたくなるようなあたしになってやるんだから。


 あたしが心の中でこんな宣戦布告をしてるとも知らない先生を横目にチラリと見て、あたしはこっそりと気合いをいれた。




 ほどなくして車はあたしの住むマンションの前で停まった。


 楽しい時間は経つの早くて、あっという間に過ぎてしまう。


「今日、本当に楽しかったです…早速、中間で90点以上とれるように勉強始めなきゃですね」



.

「当然だ…が、今日は時間も遅いからさっさと寝ろ」


「遅いって、まだ九時にもなってないですよ」


シートベルトを外しながらブツブツ文句をたれてみる。


 少しでも長く一緒にいたいあたしの時間稼ぎだって事、大人な先生にはお見通しなのだろう。


黙ってあたしの文句を聞いているのがその証拠だ。


 なんだか先生を見るのが恥ずかしくて、窓の外に目を向けた。



 先生は今どんな顔をしてますか?



呆れた顔?


それともいつもの意地悪な笑い顔?


度胸のないあたしは先生の方を見れません。


「こっちを向けよ桜」


いつもの強引な口調。


「イヤです」


間違いなく今あたしは真っ赤になってる。


 先生が動く気配がして、シートが軋む音が聞こえた時には、あたしは先生に強引に振り向かされていた。


「ゆでダコかおまえは」


至近距離に迫った先生の顔は、どこか困ったようにも見える微笑みを浮かべている。


「だって…」


言いかけたあたしは言葉を無くすことになった。


―――それはほんの一瞬のキス。


唇ではなくおでこにだったけれど、先生の唇があたしに触れた。


「デートの締め括りはキスだろ?」


意地悪ないつもの笑顔で先生は言った。


 この人はいったいどれだけあたしを夢中にさせれば気が済むんだろう。


子供騙しなキス一つであたしをこんなに幸せにする人は先生以外に存在しない。

「明日遅刻するなよ」


そう言って帰る先生を見送りながら、先生には到底勝てそうにないなぁって思った。



   ◆◆◆



「桜、髪乾かさなきゃ風邪ひくだろうっ」


お風呂上がりに頭にタオルを巻いてテレビを見ていたら、いつものようにお兄ちゃんの声がした。


振り向かなくてもお兄ちゃんがドライヤーとクシを持って立っていることはわかっている。


見慣れたいつもの日常の光景に、お父さんもお母さんも口を出すことはない。


「お兄ちゃんよろしく〜」

悪びれる事なく当たり前のようにタオルを取ると、お兄ちゃんがかいがいしく髪を乾かし始めてくれた。


 兄の渉は自他共に認めるシスコンだ。


11才離れた妹が可愛くて仕方ないらしく、世話の焼きようは親も呆れるほどだったりする。


.

 毎晩日課のようにお兄ちゃんが丁寧に乾かしブローをしてくれるおかげで、朝の忙しい時間にこの長い髪と格闘する手間がだいぶはぶかれているのだからシスコンも悪くない。


「ところで、今日遅かった理由は?」


始まった。


これがなければ本当悪くないんだけど。


「真央のとこに行くって昨日も言ったよ」


普通を装って答える。


嘘が下手なあたしは面と向かって追求されるのを避けるため、帰ってすぐお兄ちゃんに捕まる前にお風呂に逃げ込んだのだ。


 追求をうけることに代わりはないけど、顔をつき合わせて問いただされるのと、背中越しに問いただされるのではわけが違う。


「あんまり遅くなるなよ。暗くなってからの女の子の独り歩きは危ないんだぞ。それに遅くなる時は迎えにいくから電話してこいっていっただろ?そのために携帯買ってやったんだからちゃんと使えよ」


「はーい」


その後もブツブツと続く小言を聞き流す。


きっとほっといたら延々と続くだろう。


「あらあら、そんなんじゃ桜はいつまでたってもボーイフレンド一人作れやしないじゃない」


タイミングを見計らったかのようにお母さんが四人分のお茶をもってきた。


「桜にボーイフレンドなんて早いッ」


力いっぱい断言するお兄ちゃんに苦笑いするお母さんと、静かに相槌をうつお父さん。


 きっと、先生の愛人だなんて知ったら憤慨するあまり気絶してしまうんじゃないだろうか。


「もぅ、いつまでも子供扱いしないでよ」


ムッと唇を尖らせるあたしに、髪をとかしていたお兄ちゃんの手が止まる。


「誰かそんな相手がいるのか?」


「い、いないけど、あたしだってもうすぐ16になるんだよ。お兄ちゃんが16の頃は家に女の子連れてきたりしてたじゃんッ」


予想外の反撃だったのかお兄ちゃんは返す言葉に詰まったみたいだ。


お兄ちゃんはよくモテる。

明るい性格と妹から見てもイケてる部類に入る外見のお陰で、彼女切らしたところを見たことがない。


だけどこの過度なシスコンぶりのために長く続かないのだ。


「そろそろ渉も妹離れしなきゃねぇ」


お茶をすすりながら、この場の空気に不似合いな朗らかな声で言った。


さっきはお兄ちゃんに同調してたお父さんもまた頷いている。


「そうだよ。じゃなきゃ彼氏ができたってお兄ちゃんに紹介しないからねッ」


なんて強気に言ってみた。




.

振り返らなくてもお兄ちゃんが固まってるのがわかる。


ちょっと言い過ぎたかな。


「彼氏が出来たら一番にお兄ちゃんに紹介するから、ちゃんと会ってね?」


「…おぅ。ちゃんと桜に相応しい男かしっかり俺が見極めてやるよ」


ぶっきらぼうに、だけどどこか寂しそうにお兄ちゃんが言った。


―――嘘ついてごめんね、お兄ちゃん。


 彼氏だよ、なんていつか誰か紹介する日がくるのかもしれない。


けど、きっとそれは先生じゃないから。


だからとうぶんそんな機会はないよ。


むしろ、ずっとないかもしれない。



 家族に紹介すらできない。


これがあたしの恋の現実。

―――でも。


それでもいいって思うくらい先生が好き。



 あたしは、たった一瞬だったけど額に触れた先生の唇の感触を思い出していた。



   ◆◆◆



 翌朝、先生の言い付けをまもり遅刻することなく教室にやってきたあたしを待っていたのは、ニンマリ顔の真央だった。


「で、昨日はどうだったのよ」


鞄を置く間も与えられる事なく教室の隅に引っ張っていかれ、前置き一つなくいきなり取り調べが始まる。



 真央は唯一先生との関係を知っている。


 小学校からの付き合いで、誰よりも信頼できる友達だ。


先生との事は、一般的に言う“不倫”だから両手をあげて賛成は出来ないとは言いながらも、なにかと相談に乗ってくれたり協力してくれてるなくてはならない存在。



 昨日のデートの一部始終を話すと、真央はうーんと唸り声をあげた。


「さすがとゆーかなんとゆーか…やるわね久我っち。桜が夢中になるだけのことはあるわ」


感嘆の溜息をつき腕組みをする真央にあたしはちょっと見とれてしまう。


 長身ナイスバディの真央がするとこんな何気ないポーズがファッション雑誌のワンショットのようにきまる。


同じブレザーとスカートを着ているのに、全く別の物に見えてしまうのだから不思議だ。



.

“フェロモン系”と称される彼女は先輩から同級生までとにかくよくモテる。

それに同じ女の目から見ても、最近かけたパーマのためかいっそう色気が増したように思う。


「真央みたいに色気あったら先生もその気になるかなぁ…」


思わず本音が口をついて出た。


 ボン・キュッ・ボンな出るとこはしっかり出てる真央に比べ、頑張ってBカップの自分の胸に手をやり溜息をつく。


「何言ってんだか。その気どうこうじゃなくて、久我っちはたぶんあんたを大事にしてるだけじゃないかと思うケドね、あたしは」


それに…と真央が続けかけた時、タイミングよくチャイムが鳴り始め先生が現れた。


 また後でとお互い席に戻るとすぐHRが始まった。


淡々とした声で話し始める先生を見ながら、頭の中ではさっきの真央の言葉がリピートしていた。


―――そんなんじゃないよね、きっと。


期待してしまいそうな自分に言い聞かせる。


「瀬野、後ろから回って来た」


ヒソヒソ声での席の振り返ると後ろの席の男子から折り畳まれた紙切れを渡された。


「ありがとう」


ヒソヒソ声で御礼を言って真央を見ると、ピースサインが返ってきた。


ピースサインを返し先生にばれないうちに前を向き直し、こっそりと紙を開く。



『胸は久我っちに揉まれりゃおっきくなるからダイジョーブ。

おっきくしてもらえ〜』



 とんでもない内容に吹き出しそうになったのをなんとか堪え、机の下でこっそりと手紙を折り畳む。



.

 急激に顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。


ちゃんとしたキスもまだ未経験なあたしには刺激が強過ぎたらしい。


「どうした瀬野、顔が赤いが熱でもあるのか?」


手紙をしまおうとポケットを探っていたあたしは、すぐ近くまで先生が来ていたことに気付いていなかった。


「だっ、大丈夫です!」


声がひっくり返ってしまったあたしに先生は怪訝な顔をして、でもすぐ何かに気付いたように視線を落とした。


 つられて下に目をやるとさっきの手紙。


そしてそれを拾いあげる先生の手。


「………!!」


やばいっと思った時には先生の手の中で手紙は広げられていて、無表情で手紙に目を通していく先生。


 あたしは今すぐにでも逃げ出してしまいたいくらいのいたたまれなさを感じていた。


顔から火が出るって、まさにこんな時に使う言葉だ。


「瀬野、本当に大丈夫か?保健室で念のため熱を計ってこい」


先生はまるで何も見なかったように、淡々とした“教師”の時の声で言った。


「……はい」


素直に頷き立ち上がる。


“教師”の声だったけど、目がいつもの“先生”だった。


有無を言わせないあの強引で意地悪なあの目。


あたしみたいなひよっこに逆らう勇気などあるはずがない。



.

   ◆◆◆



 言い付けに従って保健室に来たものの、熱なんてないことなど自分が1番わかってるわけで。


あたしは白いドアの前で立ちつくしていた。


 入学以来、健康優良児なあたしは保健室にお世話になったこともなく、初めて訪れた理由が仮病とあってはドアを開けることに躊躇してしまうのも仕方ない。

「何してんだ。早く入れ」


思いがけず頭上から降って来た声に思わず飛び上がりそうになった。


声の主は確かめなくったってわかる。


今、1番顔を合わせづらい人。


「だって…熱なんかないですあたし」


「知ってる」


俯くあたしに先生はさらりと言って、ドアをあけた。


 消毒液の匂いがふわりと鼻先をかすめていく。


小綺麗にされた室内に、保健医の姿はなかった。


「心配するな。保健医は今日来ていない」


背中を押す手に促され室内に入ると、最初から保健医の不在を知っていた先生がニヤリと笑った。


 くえない奴って、この人みたいな人のためにある言葉だと思う。


「な、なにしてるんですか?」


スーツの上着を脱ぎ、ネクタイまで外し胸元をくつろげていく先生。


「なにって見てて解らないのか?」


真ん中辺りまでボタンが外されたワイシャツから先生の肌がなまめかしくあらわになる。



.

二つあるベットのうち。窓側のベットのカーテンを開けて先生は腰をおろした。


「…先生、授業始まりますよ?」


「俺はこの時間空きだ」


あたしは授業があります。


そんな事言える雰囲気じゃないし言う気もないけど。


 どのみち一時間目は体育だったから、今から戻って着替えたところで間に合いはしないし、授業なんかより先生と過ごす時間の方が大事。


「桜」


“教師”じゃない“先生”の声があたしを呼ぶ。


ドキドキが急速に速度を増していく。


引き寄せられるように足が先生へと踏み出した。



「おまえ、胸が小さいの悩んでたんだな」



 ムードをぶち壊す先生の台詞に一瞬でドキドキがやんだ。


「なっ、なんなんですかいきなりっ」


肩透かしを喰らったあたしは、俗に言う膨れっ面をして先生に迫り寄る。


さっきまでのムードはいったい何だったんだと問い詰めたい。


「高木にも言っとけ。揉んだらでかくなるなんて俗説は嘘っぱちだ」


さっきの手紙をあたしのブレザーのポケットに差し入れながら、先生はあっけらかんとそんなことを言う。



.

もう溜息すら出てこない。


勝手にその気になってた自分が恥ずかしくて、惨めだった。


「……そんなこと教えるためにわざわざ保健室にこさせたんですか?」


ふて腐れたあたしは先生とは目を合わさないように下を向く。


「そう拗ねるな」


言葉とは裏腹に楽しげに笑いを含んだ声。


腰に腕が回され引き寄せられる。


 こんな時ですら、その腕に逆らおうという気にすらならないあたしはきっと病気だ。


悔しいからなけなしの意地で膨れっ面を維持した。


「昨日帰って小テストの問題作ってたから寝不足なんだよ」


脈絡のないことを言いながら、先生は慣れた手つきであたしのブレザーを脱がすとそばにあったパイプ椅子に置いた。


「いつまで膨れっ面してる気だ」


下から顔を覗き込んでくる先生の顔。


「……!?」


いきなり体が強引な力によって傾いた。


いわゆるお姫様抱っこをされているのだと理解するのにそう時間はかからなかった。



「機嫌直ったろう」



勝ち誇ったような笑みを浮かべた先生の顔。


悔しいけど否定できません。



「先生はずるいです…」



呟くあたしに、先生は軽く目を細めた。



「大人はみんなずるい生き物だ」



.

悪びれなく言ってのける辺りが先生らしい。


「重たくないですか?」


「全然。胸に関わらずもうちょっと肉を付けた方がいいぞ」


「もぉ〜…」


胸の話からいい加減離れて下さいと口を尖らせる。


そんなあたしを笑いながらベットに下ろし、先生はその隣にゴロンと横たわった。


「一時間寝るから添い寝させてやる」


「仕方ないから添い寝してあげます」


強気に返してみる。


「ふん。子守歌歌ってやらねぇぞ」


「そんなのいりません」


たまには立場逆転もいいんじゃないかな?


「なら腕枕もいらないな?」


伸ばしかけた腕を引っ込めようとする先生に、あたしは答えるより先に腕を捕まえた。


「……いります」


ぼそっと呟く。


「ん?なんだって?」


聞こえてるくせに聞こえないふりをする。


 こんな時、先生はきまって意地悪い笑顔を浮かべているんだ。


そしてあたしはそんな先生に勝ったためしがない。



「腕枕してくださいッ」



 結局あたしの負けで決着がついたけど、あたしは先生の腕枕を手に入れた。


 すごく近くに先生の寝息を感じながら、あたしは幸せな気分で目を閉じた。



.

   ◆◆◆



 携帯のバイブのブーンという音が、いつの間にか寝てしまっていたあたしの意識を現実へと引き戻した。


 目をあけると先生の顔があってドキッと胸が鳴る。


ずっと腕枕をしてくれていたらしく、先生は寝付いた時とまったく同じ態勢だ。

「腕痛くないかなぁ…」


なんて心配しつつも、頭をのせたままなあたし。


こんな機会、次はいつくるかわからないから、めいいっぱい満喫していたい。


「……やばいくらいかっこいぃ」


ここぞとばかりにまじまじと先生の顔を見つめてみたりする。


 同級生の男の子たちとは違ってニキビ一つない綺麗な額。


上がり気味の形のいい眉。


スッと通った鼻筋と、薄めな唇。


 この唇が、昨日あたしのおでこにキスをした。


たった一瞬だったけど、その柔らかな感触は鮮明に残ってる。


 昨日の感触を確かめるように、そっと指で先生の唇に触れてみる。


見た目より、ずっと柔らかい。



―――キスしたい。



おでこやほっぺじゃなく、唇にしたい。


「……寝込みを襲われる趣味はないぞ」


まだ半分寝ぼけたような目をした先生に軽くおでこを弾かれる。



.

「お、襲ったりなんかしませんっ」


ちょっとキスしようとしたただけです。


心の中で付け加える。


そんなあたしの心の内を見透かしたように先生はクスクスと笑いながら体を起こした。


 眠たそうに欠伸を一つして、ワイシャツのボタンを止め始める。


なんでもないそんな動作がやたらと色っぽい。


男の色気って、こんな時に使う言葉かもしれない。


「そんなに見るな。穴があく」


「視線で穴があくなら先生なんか今頃蜂の巣ですよ」


ホントは見てるだけじゃもぅ物足りなくなってる。


触れてその熱や感触を確かめ感じたい。



ずっとあたしは先生に欲情してる。



「発情してないで身支度しろ。そろそろ授業が終わるぞ」


まるで心の内を見透かしたような先生の言葉にドキッとした。


「発情って動物じゃないんですから」


平静を装って、拗ねたふりして唇を尖らせる。


内心は動揺しまくりだ。


「人間も動物だ。ただ、理性なんていう厄介なものをもってるってだけの違いだろう……その分、ある意味人間の方が損な生き物かもな」


どこか自嘲的に笑う先生の表情はよく見えない。


『理性』


あたしからそれを無くしたらきっと多くの人を傷つけるだろう。



.そしてきっと、先生をすごく困らせるだろう。


『理性』って、きっと大切な人たちをできるだけ傷つけたり困らせたりしないように与えられたものかもしれない。


 少なくともあたしにとってはそうだと思う。


『奥さんの所に返したくない』


『ずっと傍にいて欲しい』


『恋人になりたい』


『先生を独占したい』


欲しい物を欲しいと駄々をこねる子供のようにぶちまけたなら、きっと先生は困った顔をするだろう。


 そんな顔みたくはないから。


大好きな人には笑っていて欲しいし、自分のせいで困った顔なんかして欲しくない。


 会いたい時に会えるわけじゃない。


そばにいたいだけいられるわけじゃない。


だからこそ一緒に過ごす時間は笑顔の先生を見ていたい。


笑顔の自分でいたい。


「先生、大好きです」


先生の背中に向かって、もう数え切れないほど繰り返してきた言葉を投げかける。


何度言っても足りないからあたしは何度でもこの言葉を繰り返す。


日々膨れ上がっていく『好き』はどれだけ言葉にしても追い付かない。


「ああ、知ってる」


振り向きもしない失礼な人。


本当に知ってますか?


どれくらいあたしの『好き』がおっきいか。



.

「もっと愛のある返事がほしいです」


「ガキがなまいうな」


ばっさりやられてしまった。


今更これくらいじゃ凹んだりしないけど。


いい加減ガキ扱いは卒業したい。


 ベットから降りてブレザーを着る。


少し乱れた髪を手櫛で軽く整えながら、あたしは一つ決意をした。


いつまでも子供扱いなんてさせない。


「先生、ちょっといいですか?」


先生が振り向く前に軽く深呼吸。


「なんだ?」


振り向く先生。


「後で怒らないでくださいね」


グイッと力いっぱい先生の胸元を掴んで引き寄せる。


不意打ちに、先生はバランスを崩し前のめりになる。



―――狙い通りだ。



背伸びして目を閉じると、柔らかな感触が唇に触れた。


プニッと柔らかくて温かい先生の唇。


「子供だってこれくらいできるんだから…」


掴んでいた上着の胸元を離し至近距離で先生を見つめる。


驚いたように見開かれた先生の目にはあたしだけが映っている。


「ざまぁみろっ」


照れ隠しに捨て台詞を残して、あたしは脱兎の如く保健室を飛び出した。



.

―――やってしまった!



今更ながらに自分のしたことの大胆さに顔が熱くなっていく。


だけど、それと同時に顔の筋肉が壊れたように緩んでいくのがわかる。


 想像していたファーストキスとはかなり違うシチュエーションになってしまったけれど、とうとうしてしまった。


 先生の驚いた顔を思い出すと、なんだか勝ったような得意な気分になる。


先生はどう思っただろう。


びっくりしたのはあの顔をみたから解る。


落ち着いてから、先生はどう思う?


不意打ちで唇奪われて怒った?呆れた?


 一方的に奪ったキスなのに、あたしはすごく嬉しくて、なんだかちょっとすっきりしてて。


 それは、言葉だけじゃ伝え切れない"好き"の伝え方を見つけたから。


 気持ちをもっと伝えたいから、相手をもっと知りたいから触れたくなるんだ。



   ◆◆◆



 ぎりぎりで二時間目の授業開始に滑り込んだものの、英語教師の流暢な英文は右から左に抜けていく。


 頭の中ではさっきのキスが何度もフラッシュバックして、授業中だということを忘れてはしゃぎだしてしまいそうになったり、急に恥ずかしくなって教科書を立てて机に突っ伏してみたりしていた。



. 今日は日本史の授業がなくて本当に良かった。


絶対まともに受けられるわけがない。


 きっと、先生はもし授業があったとしても何もなかったような涼しい顔をしていつものように授業をするんだろうけど。


クールビューティーと称される、あのポーカーフェイスを思い出すとちょっと憎らしくなる。


 経験の違いか、もともとの性格の違いなのか……それともあたしにはない“大人の余裕”のなせる技なのか…どのみち悔しいことに代わりはない。


 先生を振り回してみたい。


先生の一挙一動に一喜一憂してるあたしみたいに、先生の頭の中をあたしでいっぱいにしたい。


……なんていうのはさすがに望み過ぎかな。


でも、あたしの半分でもいいからドキドキさせたい。



〃〃ブーン〃〃



ブレザーのポケットの中で携帯がメールの着信を知らせる。


 こっそりと先生にばれないように携帯を取り出し、机の下でメールを開くと、真央からのメールだった。



《一人で百面相してあや

 しいって。

 一時間目保健室でなに

 やってたんだぁ〜

 白状しなさい (・ω・)ノ》


.《先生と一緒に昼寝して

 きた★》



先生の目を盗んでカチカチとメールの返信をするとすぐにまた携帯が震えた。


真央のメールを打つ早さにちょっと驚く。



《それだけ!?》



とても簡潔で短いメールなのに、真央特有の息巻いた感じが伝わってくる気がして笑みが漏れる。


正直に自分がしたことを簡潔にメールにしてみた。



《強引にキスして逃げて来 ちゃった》



送信ボタンを押すと同時に鳴り出す授業終了のチャイムに、あたしは慌てて携帯を閉じてポケットに片付けた。


 程なくして教室がざわつきはじめる。


教科書類をまとめて先生が出ていくやいなや真央がとんできた。


「すっごーい!桜ってば大胆〜ッ!」


もともと声が大きい真央だけど、興奮のせいかいつもにも増して声が大きくなっている。


 何事だといわんばかりのまわりの視線を感じて、あたしはいそいそと真央の腕を引っ張って廊下へと避難した。


「詳しく聞かせてよ」


待ち切れないと言わんばかりに目を輝かせた真央が迫ってくる。


 とりあえずあたしは回りをうかがい見てから、一部始終を真央の耳元でひそひそと伝えた。



.

少し考えて、最後に言った捨て台詞のことも伝えると真央は堪え切れなかったように吹き出した。


「そんなに笑わないでよ」


むぅっと唇を尖らせるあたしにお構いなく、真央はひとしきり大笑いして、目にはうっすら涙まで滲ませている。


「だって、ざまぁみろって…その時の奴の顔想像したらおかしくて……あの鉄仮面が…」


言いながらまた吹き出す。


 もうッと膨れっ面をするあたしに、真央はごめんごめんと悪びれなく繰り返した。


「怒ったかなぁ…」


「怒ったりしないでしょ。びっくりしただけじゃない?」


あたしの独り言に笑いを落ち着かせた真央がすかさずこたえる。


「……やっぱり、びっくりしただけかなぁ。怒ってるよりはいいけど」


びっくりだけじゃ寂しい。

ほんの少しでもいいから、思い出してドキドキしたりしてほしい。


あたしがいつもドキドキしてるみたいに。


 いつもあたしの中に先生がいるように、先生の中にあたしの存在を焼きつけたい。


あたしはどんどん欲張りになってる。


「桜、たまにあたしから見てもドキッとするくらい女の顔するようになったね」


.

感心したように真央が言った。


その顔に、さっきまでの笑いはない。


「な、なによ急に」


真顔で言われた台詞に、あたしは少し動揺した。


自分の“女の顔”なんて想像がつかない。


「すごいね久我っち。桜をすっかり“女”にしてるんだもん」


それは茶化すような口調ではなく、とても真面目な口調で、あたしはなんだか照れ臭くなってしまった。



―――先生があたしを変えた。



その事実はあたしの中で甘く響いた。




 初めての恋が先生で良かった。


 初めてお父さんやお兄ちゃん以外の男性と手を繋いだ相手も、初めてのキスも先生でよかった。


これからも“初めて”は全部先生がいい。


「頑張れって言っていいのかなぁ…応援したくなっちゃうわ」


複雑そうに唇を歪めぽつりと真央が呟く。


あたしは笑顔で頷いた。


「頑張れって言ってよ」


どんな結末になっても後悔なんてしない。


これは自信じゃなく確信だから。


だから今は片思いでもいい。


ちょっとやそっとでへこたれるくらいの甘い“好き”じゃない。



.

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