005[急接近]
舞台の上のイデアの視界から、
イグニスと、イグニスを追ったイデアの兄メロウの姿が消える。
「2人は、何処に行ってしまったんだろう?」
イデアは、蛟と観客への挨拶もそこそこに、舞台から飛び降り、
2人が視界から消えた周辺を目指して走る。
イデアが、広い場にしか適さない舞台衣装のまま、
5歳の子供なりに苦労して、人混みを掻き分け、到着した時。
メロウとイグニスは、
同じ様に口元を腫らし、血を滲ませ、険悪な雰囲気になっていた。
『メー兄!御礼を言いに行って、何故、こんな雰囲気に?』と、
取敢えず、イデアがメロウの方に質問すると、
『今は何も訊かないで…ちょっと事故に遭っただけ……。』と、
メロウは口元を押さえ、
眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに視線を逸らす。
イデアには、訳が分らなかった。と、言う事で…仕方なく……。
『ねぇ~、何があったの?』とイデアが周囲の人の説明を求めると、
『訊かなくて良い!』と、イグニスが突然、怒鳴る。
怒鳴られて、イデアが振り返ると、その方向に居たイグニスも、
外方を向いてしまった。
「何だかよく分らないけど…聴いちゃ駄目なんだね……。」
イデアはイグニスに対し「面倒臭いタイプの人なのかな?」と思い、
それなりに納得したつもりで、
無造作にイグニスの顔に手を伸ばし、驚いた様子のイグニスに、
軽く拒絶され、伸ばした手を弾かれてしまう。
但し、イデアから伸ばされた手を弾いたイグニスの方が、
イデアより、ショックを受けている御様子だ。
「ホント面倒臭いなぁ~もう!まるで、手負いの飼い猫さんか…
動揺して人を噛んじゃった飼い犬さんみたいだよ……。」と、
年上であるイグニスに対し、少々失礼な事を思いながら、
イデアは、『口元、腫れてるから診せて!
口の中も切れて、血が出てたりするんじゃないの?
魔法で治さなきゃ!放って置くと、口内炎になってしまって、
酷く痛い思いを長々とする事になるよ!』と、
イグニスの服の胸元を掴み。右手でイグニスの顔を捕まえ、
自分の方へ顔を向けさせ、目を見て、
『う・ご・か・な・い・で!』と言って背伸びをし、
吐息が掛かる触れるか触れないかの距離まで、顔を近づけた。
イデアと見詰め合う形になったイグニスの方は、
至近距離で、今まで見た事も無い、
「朱色の混ざるワインレッドの瞳」に見詰められ、
目が離せなくなり、「動くかないで」と言われ、動けなくなって、
手持無沙汰になった手のやり場に困り、困惑する。
イグニスの口元に視線を移し、
伏せ目がちに顔を近付けて来るイデアに対して、
今回、イグニスは拒絶する事も出来ず。耳まで真っ赤になりながら、
譫言の様に何か小さく短い言葉を発し、微妙に仰け反って行き、
今度はイデアを道連れに転倒する。
イデアは、背伸びをした不安定な姿勢と、
背伸びをする為に掴んだイグニスの服、転倒を回避しようと、
イグニスが無意識にイデアを抱き締めてしまったが為に、
逃げる事が出来なかった。
結果、イデアが起き上がるのに、
途中、イグニスに馬乗りになる形になった。の…だが……。
イデアは動揺する事無く、若干、少しキレ気味に、
『もう、これ以上、ドジな真似は勘弁ね!
今、頭を打ったでしょ?大丈夫?取敢えず、このまま動かないで!
念の為、脳震盪の可能性も考慮して、治療してしまうから』と、
顔にかかるストロベリーブロンドを片手で掻き上げ、
イグニスが先に痛みを感じていた口元と、イグニスの額に、
イデアは微かに唇を触れさせた。
それは一瞬の出来事。
イグニスは口元の痛みが引き、後頭部の痛みが消えた事に驚きつつ、
普通に唇を押し当てられるより、後を引く、
元患部に残ったくすぐったい様な感覚に戸惑いを感じる。
続いてイデアは、さっとイグニスの上から立ち去り、
メロウの口元にも、同じ様な事をする。
メロウにも同じ事をしたイデアを目の当たりにして、
イグニスは起き上がり、立ち上がりながら、
『ちょっと待て!
今の…唇に……。それは、兄妹間でありなのか?!』と、
激しく突っ込みを入れる。
した方のイデアは勿論、された方のメロウも、
ちょっとビックリしていたのが、イグニス的にはビックリだった。
2人にとっては、普通の事だったらしい。
余りのイグニスの取り乱しっぷりに、ゆっくりイデアは首を傾げる。
で…何が変だったのか?に、気付いた御様子で……。
『あぁ~、ごめん!回復魔法を見た事が無かった?
今のも、今さっき、私がお兄さんにしたのも、
回復魔法だったんだよ!知らなかったら驚くよねぇ~』と笑う。
「それ、ちょっと違う…そう言う意味じゃないと思われ……。」
イデアの的外れな回答に、周囲の大人達は噴き出し、クスクス笑い。
イグニスは一瞬…言葉を無くし……。
『回復魔法がある事は知ってる!そっちと違くて、
何で態々、回復魔法を使うのにキスするんだよ!
他の子等みたいに、手で触れて治せ!
キスされた方が、色々考えちゃって、勘違いするだろうが!』と、
怒った様に捲し立てた。
『色々、考えちゃったんだ……。』と、メロウがクスクス笑い出す。
『うわっ!お前…、
思ってたより性格悪いな……。ホント、何様だよ!』
『あれ?知らない?僕等、女神様の子孫だよ?
32代も人間と交配して、ほぼ、人間になっちゃってるけどね』
『あぁ~もう!そう言う冗談は苦手だ!』と、
イグニスは、メロウが本当の事を言っていた事に気付かず。
『冗談はさて置き、お前の妹!
あんな無防備にキスさせてちゃ駄目だろ!何時、何時、
勘違いした変な奴に襲われるか分らんぞ!
もっと、ちゃんと、しっかり、躾をしてだな……。』と、
イグニスは、イデアの事を心配して出た言葉を続ける。
メロウは、一瞬、呆れ顔になったが、
『分った!お前、良い人だな!』と言い。
心の底では、「僕が思ってたより、イグニスって短気で、
単純馬鹿で、御人好しな人種なんだな」と言う本心を隠して、
『今夜は、僕等の家に来なよ、泊めてあげるし御馳走もあるよ』と、
イグニスを蛟の為の神殿内にある自宅へと誘った。