015[婚約の果てに 2]
イグニスの胸の中で何かが嫌にザワツキ、重くのしかかる。
『選択って何?消えるってどういう事だよ?』
『僕が話した人魚姫の話、忘れたか?
水霊は特に、感受性が強くて、相手を本気で愛してしまうと、
最初の恋を最期の恋にして、魔物に落ちるか、死んでしまうんだ。
それでイデアは、もう、死ぬ事を選んだんだろう……。』
メロウは諦めた表情を見せ、
『冗談じゃない!』と、イグニスは怒鳴る。
イグニスは、ドリアードの樹洞の中に掛け込み、
樹の中に溜まる食べカス、
ドリアードの恋人達の成れの果てを踏み荒らし、骸骨を踏んで転び、
必死で琥珀に駆け寄って、琥珀ごとイデアを抱締め、
『イデアは失恋なんてしていない!誤解なんだ!』と言う。
ドリアードは、自分の体内に入って来たイグニスを一瞥して、
『アンタ!元素の霊を馬鹿にしてるの?
他の女に体を擦り付けられてマーキングされて平気な男の癖に!
自分に対して下心の有る女を侍らせる不誠実男な分際で、
誠実な男を気取ってんじゃないわよ!本当に誤解なら、
アンタの体から、他の女の匂いがするとかないでしょ!
後ね、他の女が付けた口紅拭ってから言いなさいな』と鼻で笑った。
イグニスは嫌な事を思い出し、
眉間に皺を寄せ、大切な者を失う恐怖と憤りに震えながら、
『俺の話を聴いてくれ!』と叫び、
イデアが中で眠る琥珀を拳で何度も叩き付け、ふと気付く、
ドリアードは『私を通して、
母なる大地、土霊クセノパネスの元に帰る所』と言っていた。
ならば、イデアが中で眠る琥珀をドリアードの中から、
持ち出したらどうなるのであろうか?
幸い、琥珀は、
重いが叩けば動く…、つまり、固定はされていない……。
イグニスは咄嗟の思い付きで、
イデア入りの重たい琥珀を火事場の馬鹿力的な要因で持ち上げ、
ドリアードの中から持ち出した。
持ち出すと琥珀部分が消え、無理をした反動から来る筋肉の痛みと、
意識の無いイデアのみが腕の中に残る。
手に入れた獲物を奪われたドリアードが
『それは、もう、私の物だ!』と怒り狂い、樹の根を伸ばす。
そこで、メロウが、イグニスとイデアを護る様に動き、
メロウは、水の刃と炎でドリアードを脅し沈める。
伸ばされた樹の根は水の刃で切り刻まれ、
『僕の、妹だよ』と微笑むメロウが触れた部分の樹は、
瞬時に乾涸び、火で焙られ簡単に燃え始めた。
『持ち出せるなら、まだ、手遅れじゃないだろ?
迷いの有る決定は、確定じゃない。持ち帰らせて貰っても、
良いよね?』と言って、メロウはドリアードを追い帰した。
但し・・・
取り戻す事の出来たイデアは、前とは変わってしまっていた。
目を覚ましたイデアは、別人の様な冷めた目をしていて、
無邪気で子供っぽかった雰囲気が、
悲愴性に移り変わり、落ち着いた大人の雰囲気を醸し出す。
幸せそうに笑う事は無くなり、透明な氷の様に冷たく、
業火の様に、孤高で、他者を寄せ付けない空気を身に纏う。
イデアの体は、死ぬ事も消える事も無かった。でも、心は……。
一部が死んで、消えてしまったのだろう。
その為にイデアは、人より…水霊や火霊よりも…、
魔物に近い存在に変化してしまったのかもしれない……。
そんなイデアに、婚約の証である指輪をもう一度、受け取らせ、
指輪を「元の位置に戻す事だけは出来た」イグニスも、
前とは少し変わってしまう。
こんな事になる前には、
メロウの「女性を批判する様な態度」を悪く言った事もあったが、
大切な者を傷つけられ、喪い掛けて、
否定できなくなり、イグニスも同じ事をする様になった。
その関連で、同族を作りたがる浮気性な者達に対して、
攻撃的な態度を見せる様に為り、イグニスの周囲の人間関係が壊れ、
「自分達がどれだけ、穢い世界に存在していたのか」を知り、
イグニスは荒んで行った。
イグニスの父グロブスは、父親である自分をも信じて貰えず、
人間不信を悪化させていくイグニスに手を焼き、
イデアの両親、ゲムマとイデアル、兄のメロウも、
相手の未来を壊す事に躊躇しなくなったイデアの扱いに困り、
見兼ねた蛟の提案で、
イグニスとイデアが、2人、一緒に居られる様に配慮する。
それで元から社交性の高かったイグニスは、落ち着いた。
24時間、ずっとイデアと一緒に居る事で、
変わってしまったイデアの中から、昔のイデアを少しづつ発見し、
取り戻した実感を得て、冷静さを取り戻して行く。
イデアも、イグニスの隣で、少しづつ前の自分と笑顔を取り戻し、
1年掛けて、2人は普通の恋人同士の関係を築き直し、
来年結婚する約束を再確認する様に、2人で一緒に指輪を選び、
結婚式でする指輪の交換の様に、互いの指に指輪を嵌め合い。
互いへの愛情を確かめ合った御様子だった。
その同時期、蛟は・・・
自分の子孫等を憂い。心に傷を負ったイデアの事で、色々後悔し、
浅慮であった自分に苛立ち、
不安定になってしまっていた心をメロウに救われ、
『僕の両親の結婚を特例で認めて、
妹のイデアとイグニスの結婚を異例で認めるのなら、
僕との事も考えて下さい!』と、ストレートに攻め入られ、
20歳になったメロウに攻め落とされる。
メロウは、3歳の頃から『結婚して下さい!』と言い続け、
幼い頃から大好きだった蛟の心を射止め、
正気に戻った蛟に逃げられない様に外堀を固めて行く。
メロウの妹イデアとその婚約者のイグニスは、
たまたま近くに居て、その報告を一番に耳にする事になって驚き、
イデアは、自分の母親に対するのと同じ気持ちと、
それ以上に慕う思いを傾けている相手であった大好きな蛟と、
兄のメロウの結婚を自分の事の様に喜び、
失くしてしまっていた屈託の無い笑顔を久し振りに見せる。
イグニスも片思い期間の事を知っていて、祝福し、
イデアの笑顔を見て、もっと見ていたくて、
『婚約期間を短縮して、もう、結婚してしまえ!』と、
メロウが喜ぶ言葉を口にしていた。
そして、メロウとイデアの両親は勿論、
明日の臨時市の序に、イグニスの様子を見に来ていたグロブス、
朱色の瞳の蛟の子孫達、蛟の街の住人達も含め、
皆が皆、メロウが蛟に片思いしている話を耳にしていたので、
その中で反対する者は、誰一人として存在しなかったのだった。