2章(3)
「貴方はどこの部署から来たの」なるべく目立たないようにはしていたが、所詮は無理な話だった。プロジェクトチームと言っても、この部屋にいるのは、僅かに10人ほどで、とても身を隠せる場所などなかった。話しかけてきた女史は、恵美でも知っているプレゼンテーションの達人だった。そのほかにも、知った顔はあったが、恵美を知るものはいなかった。皆は一斉に注目している。恵美の答えを待っているのだ。ところが恵美には、自分のすることが分からなかった。ましてや、専務が利用したとはとても言えない。恵美は立ち上がってとりあえずは、頭を下げた。
「わ、私は・・・」恵美が言葉につまずいた時、丁度専務と部長が現れた。
「みんな、座ってくれたまえ」全員が部長に注目し、がたがたと席に着いた。専務が部屋の重苦しい雰囲気に気がつき、恵美をよんだ。
「みなさん、紹介しよう」恵美は身をかがめた。専務がどう紹介するのかが心配だったのだ。
「えー、皆さんも知っての通り、わが社の命運を掛けたプロジェクトには、莫大な予算を見越しています。特別に、各部署からエキスパートを募り、ここに終結したわけですが、まだ足りないと判断しました。それが、彼女です」全員がどよめきたった。
「あー、静かに。経費もだいぶかかるだろうと言うことで、このチーム専用の経理を増やしました。彼女を怒らすと、経費で落としてもらえなるぞ。まあ、仲良くやってください」全員のどよめきが収まった。と同時に、ため息が漏れた。緊張の場が、専務の一言で和らいだのだ。伊達に人の上には立っていないな、と恵美は感心した。皆の視線も、刺すような視線から、笑顔と期待の入り交ざった視線に変わっていった。恵美は、深く頭を下げて、自己紹介をしてから席に戻った。部長が話しはじめると、先ほどの女史が小声で話しかけた。
「それならそうと言ってよ。さっきはごめんね。私は、下田孝子。よろしくね、領収書が溜まってるの。あとでお願い」そして、右手を差し出した。
「個人的な挨拶は後にしてくれんかね」部長に言われて、孝子はペロッと舌を出した。人は良さそうだ。
「それから、明日はの午後は、時間をおけておいてくれたまえ。顔合わせで出向くことになった」全員の顔に緊張と不安が浮かんだが、専務の一言でそれも解消された。
「単なる、顔合わせだ。緊張するな。美味しいものを食わすぞ」その後は、落ち着いた雰囲気の中、仕事が進んでいった。チームは10人だがそれぞれに部下がいるようで、恵美の元には大量の領収書が持ち込まれた。恵美は自分にも出来ることがあったのが嬉しく、一生懸命に電卓を弾き続けた。終業時、恵美が経理課に戻ると、一斉に注目を浴びた。課長は困った顔をしていた。どうやら、課長にはなにも知らされいないようだ。問いただされても、課長は何も言えなかった様だ。恵美は書類ケースから領収書の束を取り出し、課長の机に置いた。
「プロジェクトチームの領収書です。明日にでも決済をお願いします」恵美は、皆に聞こえるように話した。課長は、一瞬で状況を把握し、ごくろうさんと一言だけ発した。
「なに?経理の仕事なの?」やっぱり、雅子は聞き耳を立てていた。
「なんだと思ったの?私は、経理事務員よ」
「そうよね、ほかには出来ないものね」正直、恵美はむかついたが、頷くだけに留めた。
「なんか、安心したらお腹が空いちゃった。今日、三人でご飯に行かない?」何を安心したかは、おそらく恵美の想像通りだろう。しかし、ここで断われば、またも変な勘ぐりをしかねなかった。恵美は行くわと答えた。ところが、京子は用事があると、急いで帰宅準備を始めたのだ。そして逃げるように帰って行った。恵美も雅子も呆気に取られてしまった。普段のおっとりした京子からは、想像もつかないほどの急ぎようだったのだ。
京子は二人に悪いと思いつつも、浩二との約束に心が弾んでいた。京子が会社を出たときには、浩二は既に待っていた。二人はぎこちない挨拶を交わしたあと、暗くなりかけの街へと消えていった。
雅子と二人の食事はつまらなかった。それよりも、京子の態度が理解できずに、恵美は考え込んでしまったのだ。京子とは何でも話せる関係だったが、さっきの京子はまるで別人だった。雅子はそんなことにはお構いなし。美味しいね〜と、一人で料理を平らげていた。恵美はカラオケの誘いをどうにか断わり、家路についた。部屋に戻って一息ついてから、浩二に連絡を入れた。一応は、伝えておきたかったのだ。
「そう、じゃあ、一緒の仕事が出来ますね」意外なことに浩二は喜んでくれた。
「でも、私はただの経理ですから、一緒には無理だと思います」恵美は答えた。
「そうですか、残念です」がっかりする様子が恵美にも伝わったが、なぜ、そこまでがっかりするのかは、わからなかった。
「でも、次の約束は忘れないでくださいね」
「はい」恵美はにこやかに返事を返した。足の腫れも完全に引けて、痛みも治まっていた。恵美は次回の約束を考えながら、心地良い眠りへと引き込まれていった。