15章(3)
「なんかすっかり昼間の女ね」
ママがジュンに言った。
「そんな。まだまだです。戻ろうかと……」
一瞬ジュンの気持ちは揺らいだ。楽しい時間に酔ったのだ。
「駄目よ。せっかく足を洗おうと決めたのに、私だってきっかけさえあれば……」
ママも苦労をしたようだ。そう言ったママの目はゆっくりと店内の宙を泳いでいた。
「華やかと言っても、所詮はこんなに小さなステージしかないわ」
必死で手に入れた自分の店を、そこまで言ってしまうママには、ジュンもさすがに驚いた。
その時、新規の客が入ってきた。浩二だった。一人だが浩二は直ぐにジュンに気が付いた。
ママの動きは早い。先ほどの愚痴が嘘のようだ。
「来てたの」
ママにエスコートされ、浩二はジュンの席についた。
「ええ。急になんですけど、休んで良いよって。あっ、恵美さんが代わりに付いてます」
ジュンは浩二の心配を見抜き慌てて付け加えた。
「そうか、いつもありがとう。感謝してます」
浩二は大げさに頭を下げた。ジュンも久しぶりの酒に酔った。
仕事と違いアルコールはジュンに理性を失わせつつあった。
浩二も顔出しだけのつもりだったが、ジュンの手前かなりの酒を飲んでしまい。
二人は酔ってしまったようだ。ママが心配するほどだ。
「そろそろ閉めますよ」
時間は深夜を回るところだ。
「ああ……、そうだ、ママも一緒に次に行こう。ジュンは来るよな」
浩二は強制的にジュンに言った。
「え〜。まだ飲むの。もう無理よ」
さすがにジュンの適量は越えていたようだ。声にも覇気が無かった。
「そうそう、明日も仕事でしょ、ジュンちゃんだって付き添いに戻らないと……」
ママの言葉は正しい。
「う〜。そうか……そうだな。よし、帰るぞ。ジュン。送ってやる」
ジュンは返事をしなかった。見ると既にソファに寄り添い目を閉じていた。
「ママ、車、呼んでくれ」
ジュンが完全に寝入っているのを確認すると、浩二は言った。
「もう、呼んで下で待ってますよ」
ママにもわかっていたようだ。
「流石だな。また来る」
浩二はジュンを抱えて店を出た。本当は酔っていないのだ。
ジュンを楽しませようと、酔った演技をしていただけだった。
そんなこととはつゆ知らず、ジュンはかなりの量を流し込んでいた。
ジュンがそこまで飲む理由。浩二にはわかっていた。ジュンも普通の女と変わらない。
傷つきやすい女なのだ。ジュンは眠りながらも涙を流し車の揺れに任せ、浩二の寄り添った。酒の匂いと混ざってジュンの女が匂ってきた。
浩一は恵美の過剰な反応に戸惑った。恵美もまた自分の反応に苛立ちと後悔を感じていた。『待っていたのに、拒否するなんて』恵美は浩一の側から離れソファに腰を下ろした。
浩一も視線を窓へと移し自分の行動を責めていた。
『何故、あんなことを……』答えは出なかった。
衝動的とは言え、自分の感情を抑えられなかった。目の前に恵美の唇が有った。
それは自分のものだと思ったのだ。浩一は窓を見つめじっと考えていた。
不思議と頭痛は起きなかった。恵美は浩一の言葉を待った。
ソファに座りながら背を向ける自分に、声をかけてくれることをひたすら待ち続けた。
その願いは空しく時間だけが過ぎていった。
恵美は一瞬自分を思い出したのではと、期待はしたが、
浩一のキスは恵美の知るキスとはかけ離れていた。浩一は秘書の恵美にキスをしたのだ。
必死に繕われた一時だけの人形。そう思った瞬間、恵美は浩一を突き放した。
仲良くなってから打ち明けても構わない『実は付き合っていたの』と。
その場合今の恵美はどうなるのだろう。秘書恵美を続けなくはいけない。
実際、今の浩一は秘書の恵美に恋をしたのだから……。
恵美には無理だと思った、秘書の恵美は自分の限界を超えた存在で、
浩一が思い出すまでの仮の姿なのだ。
もしも浩一が思い出さなければ、仮の姿で通さなくてはならない。
それは本当の恵美が死ぬことだ。恵美はソファで泣き出した。
浩一の存在など気づかないようとでも言うように泣き出した。浩一は何も言えなかった。
それよりもその泣き声さえも記憶のどこかに、残っているように感じ、
泣き方や声などに注意向けた。
やがて恵美は眠りについたが、浩一の頭脳は回転を続けていた。
東の空が明るくなり始め黄色とオレンジ、青、黒。
同じ空にも幾つもの色があるのに気がついた。
そして差し込んだ一筋の朝日は、ソファで眠る恵美の顔を照らした。
浩一はその顔に見覚えがあった。朝日に照らされたその顔は、熱海の旅館で見た顔。
初めて結ばれた日の朝に見た顔。愛しい恵美の顔。浩一は全てを理解した。
恵美が秘書となったのも、自分から名乗らなかったのも、そして夕べのキスを拒んだのも、
その全ては自分の為だと。
浩一は声を出した。しかし声にならない。涙で声が出せないのだ。
愛しい恵美が目の前にいるにも関わらず。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
恵美は不意何かを感じ、眠りから覚めると同時に振り向いた。
そこには子供のように泣き続ける浩一が、水草のようにゆらゆらと立っていた。