15章(1)
浩一の入院生活は退院に向けて動き出した。その一歩として車椅子の使用が許可されたのだ。
この時の浩一の喜び様は半端ではなかった。
初めて与えられた玩具、水を得た魚、そんな言葉がすんなりと収まった。
久しぶりの外の空気は浩一の肺の奥まで染透った。
血管の一本一本の先まで新鮮な空気が行き渡る気分だった。
リハビリのお陰で膝もすんなりと曲がり、車椅子での移動は少しも問題はなかった。
「もう少し感覚が戻れば……」
浩一は自分の膝を撫ぜながら呟いた。
「頑張ってください。きっと戻りますよ」
浩一の車椅子を押していたのは恵美だった。仕事で顔を出した時、
たまたま散歩に向かうところでジュンに押し付けられたのだ。
勿論、押し付けられたとは思っていない。ジュンの好意だと受け止めていた。
穏やかな日差しを浴び、草木が風になびき鳥が歌をうたう。
浩一には全てが新鮮でとても身近に感じていた。
「君には随分と当たってしまったね」
唐突に浩一が恵美に言った。
「いえ、全部事故のせいです」
事故後に会った時の状況が、恵美の脳裏に鮮明に描かれた。
浩一は完全に恵美を忘れいまだに思い出さない。
恵美は事故を呪ったが、今一緒に居れる事が大切だった。
浩一は知らなかったとは言え、恵美に辛く当たった事は覚えていた。
「いつから私の秘書をしている」
恵美は戸惑うことなく答えた。この日が来るのは分かっていたからだ。
「じゃあ、事故の前だね」
浩一は昔を懐かしむような表情を浮かべた。
「はい」
恵美の答えは真っ直ぐだ。
「じゃあ、僕の恋人を知っていたかい」
恵美は言葉を発せなかった。
まさかその質問が自分に向けられるとは、想像もしていなかったのだ。
しかもどんな答えも嘘になるからだ。戸惑う恵美を感じ浩一は慌てて言った。
「いや、別にいいんだ。今は……」
「いい……のですか」
恵美は、少なからずショックを受けた。諦めてしまったように感じたからだ。
「ああ、その彼女には悪いが、名乗りもしない。きっとなんとも思ってなかったんだよ。
私のこと……」
恵美はつい大きな声を出しそうになった。
浩一の後ろに居たから良かったようなもので、恵美の瞳は涙に濡れていた。
そして『これでよかったのだろうか』との疑問が湧き出した。
『もし思い出しても、私を許さないのでは』
とさえ思えてきた。しかし恵美は我を忘れなかった。
「きっと、何か事情があるのでしょう」
恵美は出来る限り冷静に答えた。
「そうだと思う。仮にも私が好きになった人だからね」
浩一の声は明るさを取り戻した。恵美もその答えに救われた気持ちになった。
「それよりも……」
浩一は言葉を詰まらせた。
「はい、なんですか」
「君には、恋人が居るのかな」
浩一の質問に恵美は耳を疑った。『なぜそんな事を?もしかして私に好意を……』
恵美は一瞬そう考えた。それはそれでも嬉しいのだが、今の恵美は作られた恵美だ。
本当の自分は浩一に抱かれた恵美が本物なのだ。恵美の心は動揺していた。
「いえ……」
恵美は返事に困った。浩一は慌てて恵美にいい訳をした。
「ごめん。困らせるつもりはないんだ。ただ、君は一緒にいて落ち着くし、
何か懐かしい感じがして、それで……」
浩一の言葉が恵美の気持ちを高揚させた。『懐かしい』……。
やはり心のどこかに、忘れてしまった恵美の存在を感じているようだった。
『私はここよ』恵美は声に出そうな感情を必死に抑えた。
今、すべてを語ってしまえば、それこそ浩一は混乱するだろう。そう思ったのだ。
陽だまりの中、傍目には恵美と浩一はお似合いの二人に見えた。
その光景は康之によって、目の不自由な妻にそっと耳打ちされていた。
着替えの袋を持った康之と、手を引かれた浩一の母は大きな窓越しに二人を見ていた。
「ええ、見えますわ。浩一の幸せそうな顔が」
あたかもその光景が目に写るかのように、光に包まれる浩一と恵美を母はじっと見ていた。
康之は恵美の選択をこの時はっきりと理解した、そして心から恵美に礼を言った。
恵美が病室に戻ると、浩一の両親そして浩二が待っていた。
恵美は深く頭を下げ、浩一をベッドまで運んだ。
手伝いを得て浩一を寝かすと、ようやく浩二が口を開いた。もったいぶった言い方だった。
「恵美さん、ご苦労様でした。プロジェクトは決まりましたよ。かなりの好条件です」
浩二は恵美に笑顔を投げかけた。恵美も浩一もその報告を聞いて満面の笑みを浮かべた。
しかし、こちらの好条件と言う事は、相手はかなりの苦汁を飲まされたようだ。
恵美はたぬき親父の顔を思い浮かべ更に嬉しくなった。『してやったり』恵美の本心だ。
ようやく仕返しが出来た思いに、恵美の心は晴々とした。