14章(3)
浩一と浩二の連携は恵美の適切な動きによって、意外なほど順調に進んだ。
浩一も無理に記憶を取り戻そうとはせず、不快で激しい頭痛に悩まされることもなかった。
夢だけは相変わらず見るのだが、今は仕事が楽しくて仕方がなかった。
ベッドも直角まで起こすことが可能となり、浩一の笑顔をみんなが見ることも出来た。
浩二は提携プロジェクトにも恵美を起用した。驚いたのは恵美の元上司たちだった。
部長や一緒に働いた孝子だが、恵美の変身振りに戸惑いながらもその能力に脱帽したのだ。
やがて2週間が過ぎようとしたころ、ジュンは恵美にこう言った。
「こうなったら、最後まで付き合うわ」
浩一の心配がなくなった恵美は更に激務をこなしていった。
「恵美君、君のお陰で中途半端な仕事はあらかた片付いた。お礼を言わてほしい」
浩一の突然の言葉に、恵美はただ呆然と立ち尽くした。それまでの浩一は仕事の鬼と化し、
叱責さえなかったものの、かなり強い言葉も浴びせられたのだ。
恵美の瞳は満水の湖に沈む満月のように溢れる涙に没していった。
浩一が記憶を失ってから、浩一の前で初めて見せた涙。
今回ばかりは恵美は抑えられなかった。ベッド脇に立ったまま、
恵美は抑えてきた全てを吐き出すように泣き続けた。浩一はじっと優しい目で恵美を見て、
決して責めようともしなかった。しかし浩一の頭に奥では、
不快な頭痛が起き始めよううごめきだした。恵美を見ていると、
頭痛の種は大きく膨れはじめた。
「恵美君、今日はもう良い、帰って休みなさい」
厳しい口調だった。急な浩一の変貌振りに恵美は驚いて顔をを覗き込んだ。
すると頭痛の種は更に大きさをまし、疼きも爆発寸前にまで到達しそうだった。
「頼む。何も言わずに今日はこのまま……」
言葉は苦痛の呻きと変わり浩一は頭を抱えた。
丁度、売店から戻ったジュンも異変に気がつき、抱えていたジュースをソファに放り出し、
急いで浩一に薬を飲ませた。ベッドを水平に寝かせ浩一が落ち着くと、
ジュンは恵美を廊下に引っ張り出した。
「たぶん、貴方の事を、思い出しそうなんだと思うわ」
ジュンは小声で説明した。ジュンの話に寄れば、忘れた時間を思い出そうとすると、
激しい頭痛に襲われるそうだ。恵美は話を聞いて気分が楽になった。
しかし浩一が苦しむ時に何も出来ない自分が情けなかった。
ジュンはテキパキと動き浩一に安らぎを与えたの対し、
恵美は呆然と立ち尽くすだけだったのだ。恵美は廊下でも泣き出した。
「どうしたの」
ジュンは涙の理由がわからず、恵美に尋ねた。もちろん恵美にはそんなことは言えない。
責めていなくても事実上ジュンを責めることになるのは、恵美にも理解できたからだ。
『じゃあ、私は付き添うを辞めるわ』そんな言葉がジュンの口から戻って来そうで、
恵美は黙って首を振った。涙を吹き飛ばすように激しく首を振った。
ジュンは恵美をしっかりと抱き寄せて言った。
「ごめんなさい。貴方が心配すると思って、頭痛のことは言わなかったの。
私は長く付き添ってるから出来るだけよ」
ジュンは恵美の気持ちをしっかりと理解していた。
そんなジュンに一時でも嫉妬に近い感情を抱いた恵美は、
情けなくて切なくて更に涙を流すだけだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
恵美は何度も謝った。許しがほしい訳ではない。その言葉しか浮かばなかったのだ。
「ううん、私は恵美さんに感謝してるの。銀座という華やかなところに居ても、
所詮はホステス。でも、貴方がチャンスをくれたのよ。私は付き添いが終わっても、
夜の仕事には戻らない。そう決断できたから……」
ジュンもまた悩みを抱えていたのだと、恵美もはじめて聞かされたような気持ちになった。
それからの浩一の夢は徐々に鮮明さを増してきた。
今では夢の女性の服装までわかりはじめてきたのだ。恵美が昔どうりの服装で現れたら、
直ぐに分かったかも知れなかった。そんな浩一に嬉しい転機が訪れた。
「どうしたの」
ジュンは浩一の行動に驚きの声を発した。
「うん。何が」
浩一は理解していなかった。
「その、手よ。その手は何を……」
ジュンは浩一の右手から目が離せなかった。
「うん、痒いから……」
浩一その時はじめて自分の行動に驚いた。
無意識のうちに浩一の右手は右の膝頭を掻いていた。感覚が消え失せていた脚を……。
浩一は驚きと共に興奮を覚えた。今までは感覚すらなかった自分の脚。
叩かれても感じなかった脚。その脚が痒いと悲鳴を上げたのだ。
ジュンも浩一もその事実にただ涙を流した。医師に言わせれば『奇跡』その一言だった。
完全に断ち切られたはずの背骨の神経束が僅かに手を伸ばしあい、
しっかりと繋がりだしたのだ。この吉報は瞬く間に広がった。駆けつけた康之や母、
浩二に恵美。横田までもが喜びの涙を流した。
ただ一人、浩一の母は優しく頭を撫ぜ笑顔で喜びを表した。
「全然心配はなかったわ、でも、これからのリハビリが大切よ」
浩一の頭に優しく口付け、母は優しく抱きしめた。その二人を夕陽が祝福するように、
赤く黄色くオレンジにと自然のスポットライトを当てていた。




