13章(1)
「そうですか・・」浩二は恵美からジュンの事を聞き、一言だけで口を閉じた。一週間・・・。はっきり言って期限は短い。それまで浩一は恵美に心を開くのか、浩二にはそれが心配だった。
「厳しいですね。兄の性格から言っても」そうは言っても、何処かで恵美を思い出さないことを願う浩二がいた。もちろん浩二自身にもそのことはわかっていた。いまだに恵美を諦めきれない自分をしっかりと把握していた。葛藤はあるものの、一番の願いは恵美の幸せだとも考えた。
「はい、そう思います。でも、どうしたら・・」恵美とて浩一との道のりは長かったのだ。初めて会ったときの浩一の恥じらい。言葉に詰まる浩一の話。そんな過去の出来事が一瞬で蘇った。
「いっそのこと本当のことを言ってはどうですか」浩二は自分の思いを断ち切るためにも、そう提案したのだ。
「本当のことですか」恵美は戸惑った。果たしてそれで浩一が思い出すのか、それが心配だったのだ。仮にそう言って浩一が納得しても、二人の思い出は蘇らないのだ。あの日は二度と戻らないかも知れないのだ。
「私から話しても構いません」浩二は言った。
「どうだろうか、わしに任せてもらえないか」康之が姿を現した。
「とうさん」浩二は康之の在宅を知らなかったにも関わらず、康之は普段着に着替えていた。
「わしが言えば信用するだろう。もちろん浩二、お前でも信用するはずだが。もしもそのことでお前を恨むことにでもなったら・・。ただし恵美さんの承諾が有ればの話だが・・」浩二は康之の言葉を理解した。浩一が余計なことと思ったときに、自分が恨まれる事をかってでてくれたのだ。
父ならば浩一が恨みも抱く事もないだろうと思った。
「とにかく、一週間あります。その間は、私に任せて頂けませんでしょうか」恵美は康之の提案に頷きながらも、僅かな望みも捨てたくはなかったのだ。そんな恵美の真剣な眼差しに、康之は心を打たれ一任することにした。やはり廊下で見た恵美の涙は、口惜しさの涙だったと康之は悟った。
「それで、恵美さんが満足できるのであれば、わしは貴方に任せますよ」その言葉は優しく恵美に伝わった。
「僕も同感です。でも、一週間過ぎても無理なようであれば、父に話してもらいます。良いですね」浩二の言葉は恵美を勇気付けるのに十分すぎた。
「わかりました。お願いします」恵美は二人の恩と優しさにも報いるために、今一度勇気と奮い起こし、浩一と対決するかのように、気を引き締めた。
「あらあら、随分寂しいことを話しているのね。あのこは大丈夫ですよ」浩一の母が茶のお盆を持って現れた。恵美はこのとき初めて、家具が少ない理由を認識した。全ては、目の悪い母の為だったのだ。
「はい。そうですね。私は、信じています」恵美は母の愛情もしっかりと受け取った。前に訪れた時にも、浩一の母は一人悠然と構え浩一の無事を疑いもしなかった。おそらく今回もそうなのだろう。母だからこそわかる何かを、感じ取っているのかも知れない。
「その心は、きっと通じますよ、恵美さん」その顔は以前と変わらぬ笑みが溢れていた。恵美は家族の愛をしっかりと感じた。そして自分への愛もあることに気が付いた。『この家族は私も愛してくれている』そう思えるほど、ここは居心地が良く優しさに包まれていた。
後ろ髪を引かれる思いで、恵美は浩一の実家からアパートに戻った。今までは自分一人の城だと思い、居心地の良い部屋だったのが、急に冷たく感じられ、恵美は部屋に入るのを躊躇った。それでも靴を脱ぎ蛍光灯を付けると幾らかは落ち着きを取り戻した。今、恵美の心の中にあるのは『あの家族と一緒に居たい』そんな気持ちだった。そのためにも越えなければならない障害は山積みだった。恵美は掛け声まで
発し、テーブルにテキストを広げて必死の勉強が始まった。兎にも角にも時間がないのだ。言われた事には迅速に答えなければならないし、浩一の代わりに人と会うこともあるだろう。その時に浩一の顔に泥を塗ることは許されないのだ。最低限度以上のものを身に着けなければ、到底、浩一には認められずに心を開くこともないだろう。恵美の猛勉強は明け方近くまで続けられた。それでも恵美は疲れた表情一つ見せずに出社し、更に難しい本を横田に要求した。その後も、余裕がある時には常に勉強を続け、さすがに横田の驚きも半端ではなかった。たったの三日ほどで、恵美は別人と化したのだ。その力量を試される時がついに訪れた。浩一の名代として、取引相手と会食することになったのだ。相手は浩一の事故も知っており、秘書が現れることも知っていた。しかし相手は、横田が来るものと思っていたのだ。横田は皆も認めるやり手の秘書だ。その話は社内に留まらず、多くの取引先にもに広まっている。その話をsにしている今回の相手も、それなりの覚悟で緊張した表情で待っていた。しかし、現れた恵美の顔を見るなり安堵の表情を浮かべた。横田でなければ、有利な話し合いが出来るとでも思っていたのだろう。ところが一時間もしないうちに、相手はお絞りで何度も顔を拭く羽目になった。恵美に敗北したのだ。勝敗で言うのはおかしいかも知れないが、ビジネスは常に戦いだと恵美は勉強の中から身に付けたのだ。これがきっかけで、浩一は恵美を普通の秘書以上に考え始めた。そして恵美と接する時間が長くなるにつれ、違う夢をみるようになったのだ。ジュンのことも気がかりだが、ジュンは断固として自分ではないと言い張っていた。浩一の心の叫びによるものか、その夢は徐々に明るさを取り戻しぼやけていた場面が鮮明になり始めていた。その夢とは・・・。