12章(4)
「ありがとう。参考になった」あらためて浩一の前に姿を現した恵美は、威風堂々とした表情だった。その表情を見て取った浩一は、何も言わずに恵美の報告を聞き、労いの言葉をかけたのだ。恵美はその言葉を聞いて、満足の笑顔を浮かべた。しかし安心は出来ない。今回は横田の力に寄るものだ。これからは恵美が調べ上げ報告しなくてはならない。そのことでは、一抹の不安を拭えなかった。
「ところで・・」浩一は資料を封筒に入れながら、恵美に尋ねた。
「君も知っていると思うが、私は君を雇った記憶がない。もう一度名前を聞かせてほしい」浩一は恵美の顔をじっと見つめた。浩一に見つめられる事など久しぶりで、恵美の顔は見る間に紅潮し始めた。あの日以来のことだ。それでも平静を装い、恵美は事務的に答えた。浩一はその答えを聞いても、顔色一つ変えずに、事務的な挨拶を交わしただけだった。恵美は一筋の希望の光が消滅したかに感じた。名前で思い出すのではと期待したからだ。『焦ってはいけない』
恵美は自分に言い聞かせ、病室を出ようとした。そのとき初めてジュンが目で合図を送った。恵美は廊下でジュンを待った。ジュンは財布を持って廊下に出てきた。行き先の想像がつき恵美はジュンのあとに続いた。売店前のソファに並んで座り、ジュンは大きくため息をついた。ジュンは苦悩の色を隠せずにいた。恵美は黙ってジュンが口を開くのを待った。やがてジュンは恵美に向き直り静かに口を開いた。
「京子さんって」
「私の友達です。自殺未遂した」何故、京子の名前が出たのか不思議だったが、恵美は素直に答えた。
「それでか・・・」ジュンは恵美と浩一が友人を探しに行ったことは聞いていた。
「どうかしたんですか」恵美には、京子とジュンの悩みの接点が見つけられない。
「浩一さん、夢を見るらしいの。夢の中で自分がその名を叫んでいるって・・」恵美にはその場面が直ぐに理解できた。一緒に京子を探した浜辺。月明かりのなか、人影を見つけ名前を呼んだ浜辺。浩一が京子の名を叫んだのは、その時だけだからだ。恵美は嬉しくなった。浩一は少しでも覚えていたのだと、心は舞い上がりそうだった。
しかしジュンはまだ、苦悩の表情で恵美を見つめていた。
「それがどうしたのですか」ジュンは恵美の顔から目をそらせ、呟くように答えた。
「私と勘違いしてるの」
「え?」聞き間違えかと思った。
「私の本名・・・今日子なのよ。私、知らないから答えちゃったわよ」
「それで、浩一さんは・・」恵美は不吉な予感がしたが、聞かずにはいられなかった。ジュンもどう答えたものかと、悩んでいたがやがて口を開いた。
「私と付き合ってると思い込んでるの」ジュンの答えに恵美はショックを隠せなかった。浩一は自分の事など少しも覚えていないようだ。
「そこで、私からお願い・・いいえ、通告があるの」ジュンはいたってまじめに話した。
「なんですか」恵美も何も恐れなかった。
「私はあと一週間しか浩一さんに付き添わないわ。その間に恵美さん、貴方が信用を得て私と交代してほしいの」
「でも、一週間なんて・・」はっきり言って自信はなかった。ジュンは思わず涙を流した。
「私だって、辛いのよ・・・」ジュンの涙を見たときに、恵美は自分の事しか考えていないことに気が付いた。ジュンの気持ちなど少しも考えていない。そんな自分に腹が立ってしょうがなかった。ジュンも浩一を好きになっていたのだと、この時初めて気が付いた。それでもジュンは自分を裏切ることもなく、
恵美の立場で考えていてくれたのだ。恵美には返す言葉もなくなった。
「わかりました。あと、一週間お願いします。必ずジュンさんと交代します」ジュンは何度も頷き、売店に入っていった。二冊ほど週刊誌を抱え、恵美に手を振り病棟の奥に向かっていった。その間恵美はじっとソファに座り、自分のこれからをシュミレーションしてみた。『よしやれる。いや。やらなくてはいけないの』そう言い聞かせ、ジュンが見えなくなると同時に立ち上がり、病院をあとにした。
恵美は横田にお礼を伝え、正規の手順で浩二に面会を申し出た。浩二からは直ぐに返事が届いた。『今夜、実家のほうに、七時』返事の言付けはそれだけだった。それを確認すると、そのままテキストを広げパソコンに向かい、恵美の勉強は更に続けられた。そして小さな子供が言葉を吸収するように、恵美は貪欲なまでにそれらを自分のものにしていった。