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12章(3)

横田は自分の仕事をしながらも、恵美にあらゆる事を教え込んだ。スケジュール管理の仕方から、浩一の仕事上での癖。そして取引相手の癖や好みまで事細かく教えた。恵美は一生懸命にメモを取ったり、出来る限り横田の話に集中した。横田がいない時には研修のテキスト、役員名簿に目を通し、オフィスの配置や細かい並べ方まで頭に叩き込んだ。家に帰ればそれこそ電話の応対方にお茶の入れ方まで勉強したのだ。当然睡眠時間は少なくなったが、恵美には少しも苦にならなかった。気持ちは早く覚えたい一心だったのだ。テキストには、服装や化粧方法まで書かれていた。秘書は目立ってはいけないからだ。あくまでも浩一が主役であり、主役がスムースに動けるように演出するのが秘書である。

そう書かれていたのだ。服装や化粧まで変わると、恵美もそれなりの秘書に見えてきた。最初は戸惑っていた恵美も、何度か鏡に写すうちに不思議と自信が湧いてきた。気持ちは浩一に会いたかったが、中途半端な自分は見せたくないと、恵美は病院には近づかなかった。当然、ジュンと浩一の奇妙な関係など、想像もしなかったのだ。1週間が経った時、恵美は浩一と会うことが許された。もちろん仕事として会うだけだ。横田から渡された資料を持っていくだけだが、恵美は心の底から横田に感謝した。

「今の恵美さんならば、副社長も喜んで会うでしょう。しっかりとした秘書に見えますよ」確かに恵美は1週間で見違えるほど外見的にも、内面的にも、心構えも変わってきていた。自分でも変化は気がついていたが、横田に言われたことが嬉しかった。それほど横田の教育は厳しかったのだ。

時間が無いから仕方のない事だと割り切っていたからだ。浩一は身体が動かなくても、積極的に仕事をこなした。接客などは出来ないが、資料に目を通し的確な判断を下していたのだ。しかしそのとき横田の情報が有ったとは、恵美は心にも思っていなかった。

「副社長、資料をお持ちしました」恵美は秘書らしく浩一に封筒を渡した。ジュンは何気ない素振りでお茶を入れていたが、妙によそよそしく感じられた。態度には問題はない。だが、浩一の目の届かないところでも、決して恵美と目を合わせようとはしなかった。

「それで、この役員は信用できそうか」恵美は浩一の質問に驚いた。まさかそこまで聞かれるとは思いもいなかったのだ。しかし浩一はまじめな顔で話している、嘘や冗談ではないようだ。恵美は困った。首を傾けそうになるのだけは抑えたが、答えは持ち合わせてはいなかった。

「どうしたのかね。新規の商談相手は調べるようにいってあるはずだが・・・」話し方から見ても、恵美は女性と見られていなかった。あくまでも秘書の一人なのだ。そう思ったら、涙が溢れそうになってきた。女性にも見られない上、秘書としても失格なのだ。そう思うと悲しさで胸が締め付けられ、流したくない涙までもが溢れて来そうだった。それを必死で我慢すると、恵美は頭を下げて大きな声で謝った。

「どうも済みませんでした。至急調べて結果を報告します」恵美の自信は音を立てて崩れ始めた。

「時間の無駄のようです。横田君を呼んでください」浩一の冷たい言葉に、恵美は唇を噛んだ。そして差し返された資料を持って、病室から逃げるように飛び出したた。廊下に出るとジュンと浩一の楽しそうな笑い声が聞こえ、恵美は思わず耳を塞いだ。『こんなはずでは』恵美は自分の馬鹿さ加減を呪った。恵美は我慢していた涙を、廊下で流した。人目も構わず涙を流した。そんな恵美を廊下の隅からじっと見つめる目が有った。康之だ。しかし康之は声も掛けずにその場を立ち去った。『なぜ、横田さんは言わなかったの』恵美は泣きながらも横田の言葉を思い出していた。そして研修用のテキストも思い出した。頭の引き出しの中から浩一の要求を探したが、どこにもそんな要求は入っていなかった。

今まで会社に利用され元彼に騙させれた恵美にしてみれば、横田も自分を陥れる人物に見えてきた。あれだけ事細かに説明する横田が、こんな肝心なことを言いもらす訳など無いと思ったからだ。絶望と怒りが恵美を取り巻いた。唯一秘書課で信用できるたった一人の上司、その横田の裏切りに恵美の心は、ぼろきれのように切り裂かれた。足どりも重く恵美は社に戻った。横田への怒りは絶望に飲み込まれ、怒る気力さえ失っていた。渡すはずの資料を持ち帰った恵美を、横田は不思議な面持ちで迎えた。

「どうしたのですか。資料は渡さなかったのですか」横田の顔を見上げ、恵美は口を開きかけたが、黙って首を振り一言だけ答えた。

「横田さんを呼べと・・・」横田はそれで全てを悟ったように、声を出して笑い始めた。恵美はこのとき初めて横田の笑顔を見た。自分の失敗がそれほど嬉しいのかと、目だけは怒りに満ちて横田を見つめた。ところが横田の話は恵美の想像とはむしろ正反対だった。

「相手の人柄を聞かれたのではないですか」恵美は上目使いのまま黙って頷いた。

「やはり、私の思ったとおりです」横田の笑いは更に大きくなった。さすがの恵美も我慢できずに横田に食って掛かった。

「一体、どう言う事ですか。私には何も言わないで・・・」

「すみません。まさかそこまで副社長が言うとは、私も予期しませんでした」横田は恵美に話を遮った。それでも恵美には何も理解できず、怒りがこみ上げその勢いで口を開きかけた。

「認められたのですよ、秘書として」恵美の言葉よりも先に横田が口を開いた。

「え?」まだ、言葉の真意を見出せずに恵美は戸惑った。

「いいですか、単に資料運びにそんなことを聞きますか。仕事のパートナー以外に聞きますか」先ほどまでの笑顔ではない。真剣そのものだった。考えればそうだ。単に資料の配達ならば、『はい、ご苦労様』で、終わるはずだ。ところが浩一は意見を求めた。自分に意見を求めたのだ。

横田の言うとおり、パートナーの一人に認められたのだ。そう思うと恵美の絶望も怒りも、全てが希望に形を変えた。そうなれば恵美の行動はただ一つ。相手の人柄調査だ。しかし浩一は横田を呼べと言った。恵美は悩んだ。悩んだ素振りを見せずに悩んだ。

「恵美さん、直ぐに戻りなさい」横田は恵美に言った。

「え、でも・・」横田の気持ちは嬉しいがこのまま、浩一の所へは戻れなかった。

「病院に着くまでに、私が調べておきます。病院に到着したら連絡を下さい」恵美は一時でも横田を疑った自分を恥じた。しかし今は時間が無い。恵美は元気良くお礼を言うと病院に向かった。希望に満ちた一歩を踏み出した。


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