12章(1)
恵美は早めに目を覚まし、ゆっくりと温泉に浸かった。昨夜のお酒はほとんど残ってはいないが、これから京子に会うのだ。サッパリと笑顔で会いたいと思ったからだ。今の恵美は胸のつかえが一つずつ取り払われ、心は僅かに軽くなったようだ。ただ、昨夜の聡子の涙は気になった。浩二からも連絡の取れなかった二日間のことは、一切聞かされていない。何かの繋がりが伺えたが、はっきりとはしないことで、悩むほど恵美の心に余裕はなかった。朝食を終え、フロントで清算中に聡子が現れた。
「おはようございます」聡子は昨日のことなど気にも止めない様子で挨拶を交わした。
「ごめんなさいね。今日は子供も一緒なの」そう言って聡子は車のドアを開けた。
「知恵、後ろに移って頂戴」聡子は優しく知恵に言った。
「はい、ママ」嫌な顔一つせずに、知恵は後部座席に移動した。
「おはよう。ごめんね。お邪魔して」恵美は笑いを浮かべて助手席に乗り込んだ。
「娘の知恵よ」聡子はシートベルトをしながら、恵美に紹介した。
「初めまして、千恵ちゃん。恵美です」恵美はしっかりと頭を下げた。
「こちらこそよろしくおねがいします」知恵の返事に聡子も恵美も噴出した。女の子はませるのが早いが、知恵の挨拶は普通の大人よりも丁寧だった。聡子は目を見開き、首を振った。『私は知らないわよ』まさにそう言いたげだった。そのとき知恵が不思議なことを口走った。
「このお姉さん、あのおじさんと同じ匂いがするね」恵美は一瞬戸惑った。誰と同じ匂いがするのか理解し兼ねたのだ。或いは単なる恵美の妄想なのかは解らない。聡子は慌てることなく、恵美に話した。
「この子、昔から敏感なのよね」とぼけているようではない。恵美が後部を振り返った時、知恵はぬいぐるみで遊んでいたので、それ以上詮索するのを止めてしまった。そのまま病院に着く間、取り止めのない話が交わされたが、恵美はどうしても胸に引っかかるものを感じていた。聡子は表情一つ変えない。思い過ごしだろうか。恵美は昨夜のことも考えたたが、聡子の人柄からは想像すら出来なかった。
京子はすっかりと元気を取り戻していた。母親は既に田舎に戻っていたが、明日の退院時には来る事になっているようだ。聡子は子供が居るからと、送り届けるとそのまま戻っていった。友人の再会を邪魔しないとでも言うように。
「でも、寂しくなるわ」ベッド脇のスツールに腰を下ろし、京子の顔をじっと見ながら恵美は呟いた。
「一生、会えないわけではないわよ」京子は明るく話すが、恵美の心には心配が残った。もちろん生活のことではない。浩二に対しての気持ちが理解出来ないからだ。今までその話には触れなかった為だ。しかし恵美は浩二の現状を見てきたばかり。しかしそれを話しても良いものか、今までずっと悩み続けていたのだ。
「そうそう、雅子もよろしくと言っていたわ」実際には、雅子からそんな言葉は聞いてはいない。雅子の顔を潰す気もない気持ちから出た言葉だが、それでも京子は嬉しそうだった。京子にもそのくらいは分かっていただろう。京子も雅子の性格を知っていたから。二人の会話は少なかった。
恵美は慎重に言葉を選び、京子の心を掴もうと努力した。しかし明日は初出勤だ。いつまでものんびりもしていられない、恵美は迷いに迷った挙句、浩二のことを京子に話した。しばらく俯いていた京子だが、やがて笑い始めた。
「それで立ち直れば良いけど」京子の笑顔を見て、恵美は内心胸を撫で下ろした。どうやら京子も吹っ切れたようだ。そう見えただけかも知れないが、京子は立ち直ろうとしているのは確かだ。酷かも知れないが、京子がしっかりと現実を受け入れたことで、恵美も安心して別れを告げられると思ったのだ。
「元気でね。何かあったら、電話してね」恵美の目には涙が浮かんだが、その顔は晴々とした表情だ。京子の目には既に次の世界が広がっていた。
恵美は京子の未来が明るく幸せなものになるように、心から祈った。そして硬い抱擁のあと、恵美と京子は別れた。その別れは決して悲しい別れではなかったと、恵美は上り電車の中で確信した。電車の窓が都会の表情を写し始めると、恵美はあと数時間後に迫った初出勤に、覚悟するかのように強く頷いた。『見ていて、京子。私も負けないわ』恵美は固く拳を握り締めた。