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11章(3)

 元彼、浩二の行方はつかめなかったものの、恵美の寝起きは清々しかった。今日は熱海に出かけ、明日は京子と会う約束だ。恵美は久しぶりに部屋の掃除と、溜まった洗濯物を洗い始めた。天気も良いし、洗濯物も早く乾きそうだ。恵美は窓も大きく広げて、空気の入れ替えも行った。

部屋の埃が朝日を受けて、無数のきらめきを放っていた。洗濯物も干し終わり、掃除機をかけ始めた時に、アパートのドアが音を立てた。

「は〜い、どちらさまですか」恵美は何気なくドアを開けた。しかしそこに立っていたのは、目をしかめそうな男達だった。恵美は一瞬硬直したが、男達は丁寧に頭を下げた。

「これを。うちのお嬢からです」そのうちの一人の男が、恵美の前に菓子折りほどの箱を突き出した。『お嬢』と言われても、恵美には相手がピンと来なかった。恵美が首をひねって受け取りを躊躇っていると、男が道路の方に手を伸ばした。かつて浩二がハイヤーで乗りつけた場所に黒塗りのベンツが止まっていた。恵美が不審そうに見ていると、後部の窓が静かに下げられた。光が差したその中には男が乗って・・・『浩二』?

そこには、元彼、浩二の変わり果てた姿があった。恵美は思わず腹を抱えて笑ってしまった。自慢していた長髪が、すっかり丸坊主にされていたのだ。そしてその後ろから、初めて見る女性が顔を覗かせ、ゆっくりと頭を下げた。恵美は箱を急いで開梱した。中には髪の毛と1通の手紙が同封されていた。<これから浩二は修行の旅にいかせます。二度と女性に悲しい思いをさせないためです。不要な髪は切りました。

どうか、お納め下さい>と書かれていた。どういう理由でそうなったかは知らないが、恵美は大いに喜び、ミミに対して頭を下げた。

ミミも最後に笑うと、静かに窓を閉めるとそのまま走り出した。恵美はおかしくて腹を抱えて笑い出した。結果はどうあれ浩二の情けない顔を見たとき、怒りは何処かへ飛んでいった。恵美の気持ちは立ち込める雲が晴れたように爽快な気分だった。恵美の一発よりも浩二には良い薬になるだろうと思えたからだ。この時だけは浩一のことも嬉しさの下に隠れ、恵美は歌いながら掃除機をかけ始めた。しかし月曜からは秘書としての仕事が始まる。恵美は掃除を終えると時間を確認し買い物に出かけた。秘書らしい服と靴、キャリアウーマンに見えるようなものを2着ほど買い込んだ。自分を知らない浩一に認めて貰う為だった。それから月曜からのちょっとした食材を買ってアパートに戻った。

時間は3時になろうとしている。慌てて洗濯物を取り込んだが、まだ幾分乾ききってないものもあり、恵美は部屋のカーテンレールに吊るした。それから急いで支度をし恵美は熱海に向かったのだ。

 浩一の病室では、ジュンが約束どおり付き添いを始めていた。意識が戻ったとは言え、浩一は動くことさえままならない。第一に、首から背骨までが固められているのだ。どうにかベッドは15度には、立てられるようになったが、浩一からは部屋を見渡すことが出来なかった。

何かあれば呼ぶしかないのだ。

「ジュン、喉が渇いた」その声に反応してジュンは水差しを持って近づいた。

「どうぞ」ジュンの心に芽生え始めた気持ちは、誰にも悟らせるわけにはいかない。必死に事務的な動きで誤魔化したのだ。しかし恐ろしい偶然が二人を劇的な変化へと導いた。神は悪戯が好きなようだ。

「ジュン」喉が潤い、浩一はふと疑問に思った事を口に出した。

「なんですか」ジュンはあくまでも事務的に答えた。

「ジュンは、源氏名だよな。本当はなんて言うんだ」浩一は何度も見る夢が気になっていたのか。ジュンの本名が知りたくなった。

「どうでもいいでしょ。ジュンの方が慣れているし」浩一とはジュンで知り合い、ずっとジュンと呼ばれてきた。店の外であってもジュンで通してきたのだ。今更何をとの気持ちも有ったが、悟られたくない理由から素直に話すと決めたのだ。

「別に呼ぶにはジュンで構わないが・・・」浩一はジュンの言葉で疑問を投げ捨てた。なぜならば、もしも思い出させる気ならば、はっきりと答えるはずだと思ったのだ。浩一が諦め始めた時に、ジュンは口を開いた。

「平凡なのよ。今日子よ」事務的な答えかた。しかし浩一には十分なショックを与えたようだ。

「京子・・・・」そう呟くと、浩一は黙ってしまった。字は違う。ところが名乗っただけではその違いさえ分からない。浩一も『京子』とは思ったものの、字までははっきりと区別できている訳ではないのだ。夢の中では声しか聞こえないためだ。それが『恭子』であろうと『杏子』あろうと、なんら差し支えはないのだ。浩一はしばらく考えてから口を開いた。

「どんな字を書く」

「昨日、今日の今日子よ」浩一の想像とは違ったものの、『きょうこ』には間違いはない。浩一はじっとジュンを見つめた。

「何よ、何をじっと見てるの。おしっこかしら」ジュンは店で見せるような表情で、浩一に笑いかけた。それでも浩一はまじめな目つきを崩さずに、ジュンに話し始めた。

「毎日、夢をみる。そして僕は名前を呼んでいるんだ」

「それで」ジュンは澄まして答えた。

「その名は・・・きょうこ」さすがにジュンの顔つきにも変化が起きはじめた。浩一はそれを見落とさなかった。

「君なんだね。僕と砂浜を歩いていたのは」浩一の目は真剣そのものだった。

「ちょっと、待ってよ。名前を教えたのは、今が初めてよ。なんで、浩一さんが夢で見るのよ」嘘でもジュンの心は躍動をはじめ、身体が熱くなるのを感じ始めていた。なぜならばジュンは恵美の友人、京子を知らないからだった。もちろんジュンの知り合いにもいなかったのだ。


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