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11章(1)

恵美が浩二の店に着いたのは、九時半頃だった。浩二は毎日八時から最終まで働いているはずだった。恵美は目立たないように、カウンターの端に腰を下ろした。高いカウンターの高いスツール。しかし浩二の姿は恵美の視界にはない。

「あれ、恵美さん。久しぶりですね」浩二の同僚の男が、カウンター越しに声を掛けた。

「ええ・・・」恵美は浩二のことを聞こうとしたが躊躇った。

「何、飲みますか」店のロゴ入りのコースターをカウンターに出し、同僚の男は尋ねた。

「ブラディ.マリーを・・・」男はにっこりと頷き、その場を離れた。恵美は更に周囲を見回した。薄暗い店内にも、厨房の入り口にも目を向けたが、浩二の姿はどこにも見つけられなかった。同僚の男はカクテルグラスを恵美の前に置いたが、落ち着きのない恵美の行動に不審を抱いた。

「誰か、探しているの」何度も話したことがある男は、馴れ馴れしく恵美に尋ねた。このままでは無駄な時間が過ぎそうだ。恵美は思い切ってカウンターの男に聞いた。

「浩二は、今日は休みですか」男は一瞬驚いた様子だったが、やがて身を乗り出し話し始めた。

「もしかして、本当に分かれたんですか」男は興味津々に尋ねた。恵美はため息とともに頷いた。『どの男も同じ』そう思ったのだ。

「なんだ、そうだったんですか。信じなかったんですよ。いえね、ちょっと可愛い女には、いつもちょっかい出すから、一度聞いたんですよ。そしたら、分かれた。なんて言うから信じなかったんですが。本当なんですか」男は心底笑っているようだった。その声で、他のお客が振り向き男は声を抑えて話を続けた。

「でね、先週かな。先々週かな、いきなり辞めましたよ。仕事を・・・」恵美はその言葉が終わるよりも早く、席を立ってキャッシャーに向かった。

これ以上ここに居る必要もない、失礼極まりない男の話にもうんざりしたのだ。恵美は店を飛び出すなり、携帯を取り出し浩二の番号をプッシュした。しかし、呼び出しはするがいっこうに出る気配はない。やがて無機質なメッセージが流れだした。三度目のメッセージを聞いた時、恵美は浩二の居留守だと確信した。そう、着信番号が表示されるからだ。『浩二は私を避けている』恵美の怒りはまさに噴火する

直前だった。浩二は携帯には敏感に、そして機敏に反応する方だ。そこで恵美は公衆電話を探した。もちろん着信番号が示されないからである。丁度、浩二の勤めていた店の向かいには、数台の自動販売機と公衆電話があった。国際電話も掛けられる電話だ。しかし恵美はテレホンカードもなく、小銭も切らしていた。仕方なく販売機で紙幣を崩そうと思い、ジュースの販売機の前に立った。紙幣を入れようとした恵美の手が止まった。隣りの販売機が気になったのだ。隣りは煙草の販売機。恵美は今まで煙草など吸ったこともない。まして吸おうと考えたことすらない。その販売機に恵美は紙幣を差し込んだ。そして、一番ニコチンの軽そうな煙草を選んだ。なぜ、そんなことをしたのか恵美にも想像が付かない。

取り出し口から手を抜き、煙草を見つめて恵美は俯いた。涙が流れるのが解った。濡れた頬が夜風に冷やされたから。とりあえず小銭は確保できた。恵美は公衆電話に戻り、浩二の携帯番号をプッシュした。案の上浩二は呼び出しに答えた。

「誰〜」浩二の後ろからは、女の声が聞こえていた。

「恵美よ」その途端、受話器からは無粋な人工的で無感情な音が繰り返された。浩二は仕事を辞め女と遊び呆けている。恵美は浩二のアパートに向かった。恵美の怒りの感情が向かわせたのだ。二度くらいしか行ったことがないが、恵美はしっかりと覚えていると自分で確信したからだ。恵美はタクシーを拾った。手には新しい煙草。無性にその煙草が重く手に感じられた。

「運転手さん」身を乗り出し恵美は話しかけた。

「はい」言葉だけの返事で、視線は前方からそらさない。

「煙草は吸いますか」突飛だとは思ったが、余分話は極力避けたかった。

「え?ええ、まあ」恵美の質問の意図が読めず、運転手は戸惑った。それもそのはず、都内のタクシーが全車禁煙になったからだ。昼間の客でもいたのだ。『なあ、あんたも吸うんだろ。いいじゃないか、一本くらい』若いサラリーマンだった。長い時間の乗車ならまだしも、基本メーターでも着くような場所にも関わらず、乗り込んで直ぐにそう言い出したのだ。恵美もその類かと思われたが、ルームミラー越しに、

見る限り、そんな人間には見えず戸惑いながらも事実を言った。

「これ、間違えて買ってしまったの。良ければどうぞ」恵美は手に有る煙草を差し出した。運転手の顔は急に明るくなった。

「そうですか。ありがとうございます。休憩の時にでも吸わしてもらいます」運転手の明るい表情とは対照的に、恵美の心は暗く落ち込んだ。

浩二のアパートに乗り込んで、何が出来るのか。何を言うのか。一緒の女は何を思うか。そんな発想が頭を駆け回り、ただでさえ疲れきった恵美の頭を翻弄させた。


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