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10章(4)

 恵美は一度アパートに戻った。地味な服に着替えたのだ。なぜならば、直接浩二のバイト先に行くつもりだったからだ。電話をしてもどうせバンドの練習中で、のらりくらりとかわされると思ったのだ。しかし、バイト先では逃げるわけには行かないだろう。ただ、大声で話すことでもないと十分に理解はしていた。会う約束だけでも良いと思ったのだ。そのためわざと地味な服を選んだのだ。派手な服で女一人だと、何かと目立つと考えたのだ。声を掛けられるのも、好奇な目で見られるのも避けたかった。時間はたっぷりとある。恵美はそのままベッドに寝転んだ。遅くなっても良いのだ。浩二のバイト中に会えればそれで問題はない。この数日は気が張りゆっくり出来なかったこともあって、恵美は直ぐに寝息を立てた。夢さえ見ずに寝ていた恵美は、八時を回った頃に携帯の呼び出しで起こされた。

「私、ジュンです」

「はい、恵美です」目を擦りながら恵美は答えた。

「恵美さん・・・・。良いの」ジュンの言いたいことは分かっていた。浩二から話があったのだろう。

「私からもお願いしたいわ。今の浩一さんはジュンさんしか・・・・。お店は良いの」心にもない言葉が、スラスラ出た時には恵美も驚いた。

本当は誰にも近づいてほしくない。浩一は私の大事な人よ。その心の言葉が陽の目を見ることはない。

「ええ・・・。ママには、事情を話して休暇を貰ったわ。復帰期限のない・・・」ジュンの言葉には、普段の明るさも自信も伺えない。恵美に対しての遠慮がありありと窺えた。

「ごめんなさい。お願いします」恵美はジェラシーを感じながらもジュンにお礼を言った。言うしかないのだ。ジュンは返事をしなかった。

出来なかったと言うべきかも知れない。ジュンもジュンなりに心の葛藤があったのだ。本心では浩一に付き添いたいが、恵美に断わられること望んでいた。ジュンは今、心の中で次第に大きく膨らむ浩一の存在を敏感に感じ取っていた。それは昨日までの不確かな気持ちではなく、浩二に頼まれた時にはっきりと自覚したのだ。恵美が同業ならば、遠慮なく浩一を奪うかもしれない。しかし恵美から浩一を引き離すことは今のジュンには出来なかった。だから本当は恵美に拒んでほしかったのだ。

「分かったわ。出来る限りはします。でも、全て浩一さんのためよ」ジュンは恵美のことを思い出させようと考えた。なぜか恵美を裏切ることは浩一を裏切ることに思えたからだ。

「ええ、ただ一つお願いがあるの」恵美は意を決して話した。これを言えば恵美と浩一の関係を知るものは他にはいない。それを承知で語句を強調した。ジュンは一瞬躊躇ったが、恵美の決意を見抜きはっきりと答えた。

「何でも聞くわ」

「私のことは言わないでほしいの」恵美は大きく息を吸い、吐き出すように言葉を発した。

「え、何で」正直ジュンは驚いた。何故そんなことが言えるのか、唯一の糸を自ら断ち切ろうと恵美の気持ちが分からなかった。恵美はしばらく無言だったが、やがて浩二に話したと同じ理由をジュンに伝えた。『なんて、強い人・・』ジュンの恵美に対する正直な気持ちだった。

「そこまで、言うなら、私は何も言わないわ。浩一さんの前では、秘書として扱います。本当にいいのね」

「ええ、そうしてください。ジュンさんも言ったように、浩一さんのためですから」二人は別れの挨拶もそこそこに電話を切った。恵美はしばらく俯き、やがて勢い良く立ち上がると洗面所に駆け込んだ。そして化粧を整えバッグを掴むと、足早にアパートと飛び出した。

 浩一は何度も夢を見ていた。暗い海を背に、自分と一緒に歩く影。月明かりに照らされるがどうしても顔は見えない。ただ声だけは聞こえていた。

女性の名だがそれだけははっきりと聞こえた。夢の中で浩一はその名を呼んでいた。『京子』。しかし浩一にはその名の記憶はない。そして目を覚ます。動かない身体を呪いながらも浩一は必死に思いだそうとしていた。既に浩一は自分が記憶を失くしている事に気が付いていた。だからこそその女性が知りたかったのだ。何度も見るにはそれなりの理由があると思えたから。もしかしたら、自分と親密な女性かも知れないと、感じていたのだ。

砂浜を夜二人で歩く。親密でない女性とそんな行動をとるはずがないのは、浩一自身が一番良く知っていたからだ。ふと見ると浩二が病室にいた。

「浩二・・・」浩一の声に気がつき、浩二はベッドに寄り添った。

「起きたのかい」浩二は顔を覗き優しく尋ねた。

「ああ、・・・・また夢を見た。何度も見る同じ夢だ。浩二・・・・京子。この名前に覚えはあるか」浩二ならば何かを知っていると思った。

しかし浩二は答えなかった。いや、答えなれなかった。確かにその名前は知っている。しかし恵美に口止めされた以上、どう説明して良いか分からなかったのだ。これから秘書として出会う恵美のその友だちを探しに行った。などと言っても、真実味も何もないのだ。浩二は考える振りをしてから答えた。

「いいや、聞いたことはないよ」と。浩一はその答えに落胆したようだが浩二には言えなかった。恵美と約束したのだから・・・・。


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