10章(3)
銀座バーニーズの裏で、恵美と浩二は遅めの昼食をとることにした。
「本当にいいのですか」静かな食事も終わり、コーヒーを飲みながら浩二は恵美に尋ねた。人事部長の部屋を出た二人は、その足で秘書課にも回ったのだ。一通りの挨拶をする時も、恵美は秘書課の女性達から、敵意に満ちた視線を浴びせられていた。浩二は秘書課長を別室に呼び、あくまでもこの女性は会長の部下であることを忘れないようにと、申し送ったにも関わらず、恵美は普通の秘書として扱ってほしいと拒んだのだ。
理由は『ずっと浩一さんに付いて居られないのであれば、社での仕事もこなしたい』とのことだった。給料を貰う以上は当たり前だと。
「ええ、ただ心配は・・・」コーヒースプーンを意味なく回し、恵美は唇を噛んだ。
「付き添いですね。」浩二は恵美の気持ちを汲み取って、言葉を遮った。そして、しばらく考えてから口を開いた。
「そのことで、恵美さんに相談。いえ、承諾がほしいのですが・・」浩二は恵美を真っ直ぐに見据えた。
「承諾・・・・ですか」相談ならば分かるが、自分に承諾を求めるとはいささか驚いた。
「恵美さんも御存知のように、兄の性格はあの通りです。付き添い、ヘルパーを雇っても駄目でしょう。そこで、ジュンに頼もうかと・・・」
恵美は別段驚かなかった。なぜか、自分の中でも予想していたらしい。それは浩一が気がついたとき、ジュンとは変わらずに話を交わすことが出来ていたからだ。ただ、気持ちは釈然としなかった。それにジュンにも仕事があるのだ。『はい分かりました』と簡単に言うかも心配だった。
心の中では言ってほしくない気持ちもあるのか、恵美の心は微妙に揺れた。
「やはり止めましょう。誰か男性でも・・・」浩二は恵美の気持ちを察したのか、別の意見を持ち出した。恵美は急に自分が恥かしくなった。これは浩一のためなのに、恵美は自分本位で考えていたことに気が付いた。
「いいえ、良いんです。ジュンさんが引き受けてくれるのであれば、お願いします」嫉妬などしている場合ではない。これは浩一にとっても良い事なんだと恵美は自分に言い聞かせた。
「・・・分かりました。ジュンが引き受けるかどうかは定かではないですが、聞いてみます」恵美は浩二の優しさ、そして今でも自分を好いていてくれる事にも気が付いていた。しかし今の恵美にはそれに応える事は到底出来ない。浩二との一緒の時間が急に苦しく思えてきた。
「あの、このあとは帰ってもいいですか」恵美は一人になりたかった。
「ええ、構いません。今日は金曜日です。出勤は月曜からで良いですよ」
「ありがとうございます」恵美は不自然さを悟られないように、他愛のない会話の後浩二と別れた。そろそろ陽も傾き始めていた。恵美は有楽町駅に向かいながら、携帯を取り出した。
「もしもし」京子の元気そうな声が聞こえ、恵美の心を和ませた。
「私、恵美。どう、調子は」恵美は出来得る限りに明るく話した。京子も気持ちが落ち着いたらしく、以前の話し方に戻っていた。京子は月曜に退院することが決まっていた。そしてその足で田舎に帰ると恵美に伝えたのだ。
「じゃあ、日曜日に行くわ」恵美はそう言って携帯をバッグに突っ込んだ。京子に最後に会うことは、これで叶いそうだ。恵美は慌ててもう一度携帯を引っ張り出した。出てほしいとの願いが通じたのか、七回目の呼び出しのあと反応があった。
「もしもし」懐かしい聡子の声。不思議な感じだった。たったのあれだけの付き合いなのに、恵美も姉のように慕っている自分に驚いた。
「恵美です」名前を名乗るのが照れくさく感じた。
「まあ、恵美さん、お身体、大丈夫」電話越しでも聡子の笑顔が伝わってきそうだ。
「はい、今はすっかり良くなりました。その節はお世話になりました」何故電話に向かってお辞儀をするのか、恵美は無意識に何度も頭を下げた。恵美の気持ちは京子と聡子との会話で、随分と楽になった。
「いいのよ、元気そうで安心したわ」聡子の背後の喧騒から、そこが旅館であることが伝わった
「あの、明日は仕事ですか」長電話は失礼だと、恵美は用件を切り出した。
「土曜日?ええ、仕事よ」聡子は考える様子もなく答えた。
「じゃあ、私、行きます。部屋はありますか」
「ええ、小部屋で良ければ空いてるけど・・・どうしたの」予約帳か何かをめくる音が聞こえてきた。
「京子・・。あの友だちが、月曜に退院します。その足で、田舎に帰るので会っておきたくて」
「そう、それは良かったわね。はい、じゃあ、承っておきます。お気をつけていらしてください」聡子のわざと事務的な話し方で、どちらからともなく吹き出した。当初の予定とは多少ずれたが、恵美のやらなければならない事は、一つ方が付きそうだった。残るは浩二。恵美の元の彼氏、浩二のことだけだ。恵美は腕時計を確認し、力強く頷いた。恵美は京子と聡子に感謝した。力を貰った気がしたのだ。『浩二、待ってなさい』
恵美の拳に力が入った。足も自然と速まるのだが、恵美はそれに気が付きもしなかった。