1章(3)
「どうしたの?」デスクに戻るなり雅子が尋ねた。雅子の詮索好きにも困ったものだ。恵美は適当に誤魔化した。折角誤魔化したところに、今度は部長が呼びに来た。苦笑いを浮かべながら、恵美は仕方無しに部長についていった。雅子も京子も不思議な表情で恵美を見ていた。部長の説明は易しく丁寧だった。おそらく、専務に言われたのだろう。しかし、専門的な話になると、恵美には理解できないことばかりだった。要は、当社の技術とITとを組み合わせ、どこかに売り込みたいようだ。ところが恵美は単なる経理事務。ITも、技術もほとんど解らないのである。そう答えても、部長は必死に参加させようとしていた。専務の命令だろう。必ず参加させろと・・・。恵美は考えます、とだけ答えた。仮に参加しても、窓口になれるかさえ解らないのだ。新、浩二の意図がつかめぬうちは、軽々しく返事は出来ないと思った。
説明は午前中一杯かかった。昼食時、恵美は皆から質問攻めにあった。当たり前のことだった。技術畑の部長に呼ばれれば、不思議に思われても致しかたない。しかも午前中をつぶした上に、課長はニコニコしていたのだ。
「ねえ、どうしたの。何か言われたの」雅子は興味深そうに尋ねた。
「うん、ちょっとね」恵美は笑って誤魔化した。
「水臭いな〜。どうしたのよ」雅子には言いたくない。そう言ってやりたかったが、恵美は笑うしか出来なかった。京子は何も言わない。言いたければ言うだろう。そんな表情で見ていた。結局は、口を開かない恵美を諦め、雅子は昼食を食べ始めた。いかにも不満そうな顔だが、今の段階では、とてもいえなかった。雅子は午後、ほとんど口をきかなかった。京子はそんな雅子を見て、肩をすくめて恵美に笑いかけた。京子はわかってくれたようだ。問題は帰りだ。本当に迎えに来たら、話はもっと大きくなりそうに思えた。出来ることならば来てほしくはなかったが、心のどこかでは、来てほしい気持ちがあった。連絡を取ろうと思えば取れたのだ。名刺はバッグには入っている。それでも恵美は連絡を入れなかった。新、浩二は、5時ぴたりにやってきた。朝と同じハイヤーが玄関前に止まったのだ。守衛は慌てて飛んでいった。ところが名刺でも見せたのか、守衛はお辞儀をすると、守衛室に戻っていった。恵美の後ろの窓から、その一部始終が見えていた。更に、おせっかいなことに、課長が終業時刻を恵美に伝えた。
「恵美君、時間だよ。上がってくれたまえ」笑顔だ。皆は驚きの表情で見ていた。
「すいません、お先に失礼します」恵美は肩を丸めて出て行った。
「ちょっと、どういうことよ」雅子は京子に食って掛かった。京子は静かに首を振るだけだった。
「お疲れ様でした。足はどうですか」新、浩二は優しかった。雅子など、足のことなど一言も言わなかったのだ。恵美は微笑みながら答えた。
「はい、だいぶよくなりました。ありがとうございます」新、浩二は安心したように頷いた。
「それはよかった。ところで、これから時間はありますか」
「えっ」恵美は急な質問に戸惑った。
「お食事でも、と思いまして。予定でもありますか」
「予定はないですが、ご迷惑になります。送っていただくだけで十分です」恵美は焦った。
「いえ、ちょっとあってほしい人がいるので、是非、御一緒に」ほとんど強引だったが、嫌味は少しも感じなかった。それどころか、小さな期待まで膨らみ始めた。
「は、はい」誰だろう。まさか親御さん?恵美はそんな考えを振り払った。第一、新、浩二は独身なのかさえ聞いていない。もしかしたら、悪い人?そんな考えまで浮かんだが、その考えだけはすぐに捨て去った。ハイヤーは暗くなりかけた街中を、静かに銀座へと向かって走って行った。