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10章(2)

「逆行性部分健忘」それが医師の診断だった。外傷に因るもので古い記憶は残っているが、事故前の一時期だけ記憶が欠落していると、説明してくれた。しかし、時間とともに思い出す可能性が高く、催眠療法も有効で、一過性なものだと説明を付け加えた。その説明を受けたにしろ、恵美のショックは大きかった。どうやら浩一は事故のことすら覚えてはいなかった。身体の自由が利かないと解かった時、浩一は我を忘れて泣き出した。

恵美は廊下のソファーに腰を下ろし、両手で顔を覆った。バッグは行き場を失った犬のように、ソファーの下に転がっていた。どうしていいのか解からない。自分の事を忘れてしまった浩一の面倒など、どうして見れようか・・・。恵美は途方に暮れてしまった。『このまま、私のことを思い出さなかったら』

不安は大きな恐怖となって恵美を覆い始めた。浩一を失うことの恐怖・・・・。『恵美さん・・・』廊下の影から恵美を見守る浩二も、ただ呟くことしか出来なかった。

恵美はしばらくソファーに座っていた。廊下の恵美の耳にも、浩一の嘆き悲しむ声が聞こえてきた。恵美は耳を塞ぎそうになったが、突如顔つきが変わったかと思うと、いきなり立ち上がった。そしてそのまま浩二の元へと、真っ直ぐに歩き出した。恵美には浩二の姿が見えていたのだ。浩二は咄嗟に身構えた。それほどまでに恵美の顔は決意に満ちた真剣な顔だ。しかも、目には怒りさえも漂わせていた。浩二の前に来ると、強く白くなるほど唇を噛み締めた。

「恵美さん・・・」恵美の気迫に負けた浩二が、先に口を開いた。

「浩二さん。これから会社に行きます。まだ雇ってくれますよね」徐々に赤みを取り戻す唇がはっきりと正確に動いた。浩二はその唇を見つめ、無言のうちに頷いていた。

「ありがとう。用意しますから、待っていてください」恵美はそう言うとバッグを持って廊下の先に消えていった。待つこと二十分。恵美は衣服を整え化粧を施し浩二の前に現れた。真っ直ぐに向かってくる恵美の瞳には、一点の曇りさえ見つけられなかった。

「いきましょう」恵美に促され、浩二は席を立った。

「どうしてですか」タクシーに乗り込むと同時に浩二は恵美に問いかけた。

「浩一さんは、私を忘れた。付き添いは出来ないわ。見知らぬ女性には話が出来ないんですもの。でも私は側にいたいの、そうなるような手続きができますか」

「第2秘書にと思っていました」浩二は答えた。

「ありがとう。これで接点は残るわ。あとは・・・あとは記憶が戻るのを待つだけ・・・」恵美はぐっと歯を食いしばった。

「恵美さん、そこまで・・・」浩二は恵美の強い意志を感じ、言葉と飲み込んだ。恵美はじっと前を見つめ、一人で耐えていた。その気持ちは浩二にも痛いほど伝わった。しかし、浩二が話しかける余地はどこにも見出せなかった。

「一つお願いがあるの」唐突に恵美は振り向き話しかけた。

「なんですか」

「雇い入れた日付を、事故の前にしてほしいの」

「なぜですか」恵美の目的が理解出来ずに頭を傾けて尋ねた。

「浩一さんは、やがて自分の記憶喪失を知るでしょう。そして欠落した日々はおのずと分かってしまうわ。その時、浩一さんも前からの知り合いだと分かれば馴染み易いでしょう。前には話をしていたと思わせたいの。仕事上だとしても。それに、事故後の雇い入れでは不自然だから」どこからそんな考えが出てきたのか、まさにその通りと浩二は感服した。浩一を知り尽くしているとさえ思えたのだ。

 浩二と一緒にエントランスホールに入ると、二人は注目を浴びた。浩一の事故の話は聞かされいるだろうが、記憶喪失や半身麻痺までは知らないはずだ。そこに恵美の登場、しかも浩二と一緒だ。ただでさえ注目を浴びていた恵美は、はっきりと敵意の視線を感じていた。

しかし恵美は何も感じないかのように、平然と歩き続けた。浩二のほうが気にしているようだった。

「浩二さん、人事課は」

「七階です」エレベーターホールまで来た時恵美が尋ねた。やがてエレベーターが到着すると、恵美は襟を正して乗り込んだ。まるで新入社員の面接にでも向かうかのようだった。浩二は無言であとに続いた。

「それからもう一つ」エレベーターの扉が閉まると、恵美は思い出したように話し出した。

「はい」浩二は真剣な恵美の瞳に惹きつけられた。

「浩一さんには、私の・・・私達のことは言わないでほしいの」恵美は一度言葉を訂正してから浩二に伝えた。

「何故ですか、折角一緒に居れるのに、記憶を戻すためには話したほ・・」

「記憶を戻すためにも、その後のためにも、言いたくないの。言ってしまえば、余計な先入観から、浩一さんは戸惑うわ。もちろん記憶が戻れば・・・・。ううん、もし、戻らなかったら。浩一さんを苦しめることになる・・・」最後は言葉にならなかった。それでも恵美は涙だけは流さないように、必死に自分と戦っていた。浩二は抱きしめたい気持ちを必死に抑え、点滅する階数表示を見上げた。扉が開くと浩二は先に廊下に出て、恵美を人事課へと案内した。しかし人事課の表示が掲げてあるドアの手前で、浩二は立ち止まった。そこは人事部長のオフィス前だった。浩二は勢い良く扉を開けた。

「これは専務。どうしました」初めて見る顔だった。狐目のほっそりした男は、浩二より恵美に興味を持ち、覗き込むように恵美を見た。下から上に舐めるように見られ、恵美は一瞬背筋に冷たいものを感じた。

「副社長の新しい秘書だ。至急手続きを頼む」どうやら浩二も、この男を好きではないらしい。事務的な口調で話すだけだった。

「副社長の・・・、はい、分かりました。では、こちらへどうぞ」狐目は恵美を別室に招いた。恵美は浩二を見た。すると浩二はゆっくりと頷いた。恵美が別室のドアに入ろうとした時、浩二は狐目に言い放った。

「その人は、会長が雇い入れた人だ。この意味は解るね」狐目のそれこそ細い目が異様に見開かれ、驚愕の視線を恵美に向けた。会長、康之の威厳は隅々まで浸透しているようだ。部屋では写真撮影が行われた。狐目は直ぐに部下の一人を呼び出し、至急社員証を発行するように伝えた。その間恵美と浩二はソファに腰掛け、出された高級そうなコーヒーを味わっていた。ものの十分もしないうちに、社員証と小冊子が届けられた。浩二は社員証を恵美の首に下げ、説明を始めた。

「出入りと社内ではこれを常に首にかけてください。社屋の配置や役員の名前などはこれに書いてありますから、一応は目を通して置いてください」恵美は小冊子を受け取り頷いた。

「給与、その他のことは後から伝える。手続きを急いで完了してほしい。それから、入社日を・・・」そこまで言って浩二の言葉が止まった。

「2ヶ月前・・・」浩二に目線を向けられ、恵美は小さな声で答えた。そして恵美の書類を手渡した。狐目は書類の中身を確かめると、困惑の表情で浩二を見た。しかし浩二は臆することなく言い放った。

「出来るね」有無を言わさぬ言い方だ。

「分かりました。急いで手続きに入ります」浩二はその答えに満足そうに頷き、恵美をつれて部屋を出て行った。恵美の新しい生活が今始まった。


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