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10章(1)

恵美は肩を叩かれ眠りから覚めた。重い瞼を無理にこじ開けようとしたが、涙で目が固まったのか、なかなか見ることが出来なかった。その相手は、しきりに何かを言っていた。声のするほうに目をやると、白い衣装がゆらゆらと移動を繰り返していた。恵美は一瞬焦った。それが誰なのか、必死に確認したいが視点が合わない。思わず恵美は立ち上がろうとした。そのときフワリと柔らかい布が恵美を包んだ。そして耳元に声が聞こえた。

「風邪を引きますよ」慌てて目を擦ろうとした時、恵美の右手は僅かな抵抗感を捉えた。自由な手の指で目を擦り、もう片方の手に視線を移した。

そこには、恵美の手をしっかりと握り返す浩一の手があった。浩一は眠りながらも恵美に応えていたのだ。その時また声がした。

「随分とよくなってるわ。朝にはお話が出来ますよ」看護婦は点滴の交換をしていた。そして恵美の肩には、毛布が掛けられてあった。

「ありがとうございます」恵美がお礼を言った時、看護婦は新しい点滴のビンに針を差し替えたところだった。

「起こしてごめんなさいね。でも、うなされていたから・・」そう言いながらも、看護婦の手は休まず動いていた。恵美は夢を見ていたことを思い出した。内容は覚えていなくとも、後味の悪さだけは残っていたのだ。胸に何かが詰まった感じが取り払われてはいなかった。

「そうそう、皆さんは、ソファで眠ってますよ。よかったら、簡易ベッドもありますし・・」脈を取りながら看護婦はベッドの下を覗き込む仕草をした。恵美が覗くと、確かに組み立て式のベッドが収納されていた。

「疲れるでしょう。腰が痛くなりますよ」血圧計に空気を送りながら看護婦は言った。そう言えば恵美の腰は固まったような感じだ。ちょっと背筋を伸ばすと、尾骶骨から首筋に掛けて痛みが走った。恵美は思わず声を上げてしまった。

「イタ、イタタタタ・・・」看護婦の小さな笑いが、恵美の気持ちを解きほぐした。ゆっくりと背骨を伸ばし軽くまわすと、腰のあたりで骨がなった。その音に恵美も思わず吹き出した。看護婦は血圧計を仕舞いながら恵美に言った。

「いい。先は長いわ。付いていたい気持ちも解かるけど、貴方自身の身体も大事にしないと、看護は勤まらないわ。無理はしないでね」恵美は大きく頷いた。その通りだと思ったのだ、恵美は浩一の手の指をゆっくりと広げ、右手を自由にした。肩もパンパンに張って首まで痛かった。

「ありがとうございます。そうですね。私が倒れたら、しゃれになりませんね」恵美は自由になった右肩を、くるくると回し凝りをほぐした。

「そうね、ロッカーには予備の毛布もありますから、ゆっくり休んでくださいね。私達は二時間ごとに巡回で伺いますから、安心して寝てください」

そう言って看護婦は病室から出て行った。恵美は頭を下げ見送った。浩一を見ると静かに眠っている。恵美は病室を見回した。まだよく見ていないのだ。入り口の脇の扉を開けて見た。そこは浴室になっていた。よく見るユニット式の浴槽だ。ただ、普通の大きさではない。恵美のアパートの2倍の広さがある上に、手摺や自動で入れるような椅子が括り付けてあった。その向かいには洗浄器付きのトイレ。並びの壁には簡単な調理調理器付きの流しが取り付けられている。ソファの前にはテレビもあり、さながらマンションのワンルームでも通用しそうだった。考えてみれば、恵美は着替えさえ持って来ていなかった。

しかも顔は崩れた化粧のままだ。看護婦はさぞ驚いたかもしれないが、表情にも言葉にもそんなことは微塵も見せなかった。時間は二時を回ったところだ。

恵美は時計を見ながら迷った。この時間ならば、道は空いているしタクシーも呼べば来るだろう。意識の戻った浩一と会うのに、今の恵美の姿は自分でもひどく思えて仕方なかった。そんな考えを巡らしていると、ドアが静かにノックされた。恵美は不審に思った。看護婦ならば勝手に入ってくるだろう。しかし、見舞い客としては時間が非常識だ。恵美はドアを開けずに声を掛けた。

「どちら様ですか」病院ではおかしな対応だとは思ったが、恵美はほかの言葉が思いつかなかった。

「私、ジュンです」ドア越しの声を聞いて恵美は胸を撫で下ろした。

「こんな時間にどうしたんですか」恵美は嬉しい反面、ジュンの不可思議な行動に戸惑った。

「仕事帰りよ。浩二さんに頼まれたの」上着を脱いだジュンの衣装は、この前一緒に買った薄いブルーのドレスだった。

「恵美さんが一人だから、顔を見せてやってくれって・・・。お陰で、酔いを醒ますのに苦労したわ」ジュンの話では、十一時頃に連絡があったようだ。そしてジュンは紙袋を恵美に手渡した。浩二のお膳立てだとわかると、恵美は安心した。

「お寿司よ。食べてないんでしょ。今、お茶入れるから」ジュンは手馴れた様子で流しに向かった。恵美はそのときようやく自分が空腹なのに気が付いた。恵美は受け取った紙袋をテーブルに置いて、ソファに腰を下ろした。ジュンは二つの茶碗にお茶を注ぎ、テーブルに置いた。

「ありがとう。ごめんなさい」恵美は頭を下げた。

「いいのよ、浩一さんには、私だって世話になってるんですもの」そうは言ったが、ジュンは浩一に近寄りもしなかった。その何もしない行動が、恵美には不思議だった。わざと避けているように感じたのだ。普通お見舞いならば、真っ先に顔を見るはずだと思ったのだ。ところがジュンは平然とお茶を飲んでいる。恵美は何か胸に引っかかるものを感じながらも、寿司折の紐を解いた。

「あら、ひどい顔ね。食べたら、シャワーでも浴びたら」寿司を食べる恵美の顔を覗き込みながら、ジュンは眉をひそめて言った。

「でも、着替えが・・・」恵美は困ったように答えた。

「いいわよ、代わりについてるから、食べたら取ってくれば」

「良いんですか。疲れているでしょう」確かに着替えは必要だ。明日は浩二の会社にも顔を出さなくてはいけない。恵美の心は揺れた。

「気にしないの、恵美さんが戻ったら、私は帰るから」ジュンは嫌な顔を見せずに、淡々と答えた。恵美はジュンが疲れているだけだと自分に言い聞かせ、先ほどの疑問を振り払った。

「じゃあ、お願いします」ジュンは笑顔で頷いた。恵美は食べ終わると顔だけを洗い、ジュンに任せて自宅に戻った。ただ、一抹の不安は拭い去れてはいなかった。幸いタクシーは直ぐに到着した。アパートについても、恵美はそのままタクシーを待たせ、最低限の荷物をバッグに詰めて病院に戻った。時間にして一時間二十分。予想した時間よりもより早い。病室の扉に手を掛けようとしたとき、中から話し声が聞こえた。浩一が目を覚ましたのだ。喜びに駆られ恵美は勢い良く扉を開けて病室に入った。ベッド脇のジュンと浩一は楽しそうに話をしていたが、浩一が恵美を見るなり発した言葉は、恵美だけではなくジュンをも驚かせた。

「ど、どちら様ですか」浩一ははっきりとした口調でそう言ったのだ。恵美はその場にバッグを落とし、ただ呆然と佇むことしか出来なかった。


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